16.サント=エルモ商会 その2 ①
エリゼ・ディオレアーノがサント=エルモ商会に戻ると、商会全体が何か事件でもあったかのように慌ただしく動き回っていた。
使用人たちが廊下を行き交い、遠くから聞こえる指示の声が響く。
いつもは整然とした商会の雰囲気に、エリゼは眉をひそめた。
(いったい何が起きてるの?)
不安を抱えつつ、彼女は父親の執務室へと向かう。
扉は開かれており、中では数人の従業員が慌ただしく出入りしていた。
エリゼはためらいながらも一歩踏み出し、執務室に入ろうとした瞬間、出てきた従業員に声をかけられた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
その言葉を聞いた途端、奥から父親であるガストンが顔を上げ、疲れたような声でぼやいた。
「やっと戻ってきたか、エリゼ」
「ただいま、お父様。今日は何か慌ただしいみたいだけど、何かあったの?」
エリゼは周囲を見渡し、執務室内で忙しそうに書類を整理している従業員たちに目をやりながら尋ねた。
「何があったも何も、朝から大変だったんだぞ……」
ガストンは椅子に深く腰掛け、疲れたように深い息を吐いてため息をついた。
エリゼは、机の上に並べられた輸入台帳を目に留め、直感的に金の匂いを感じ取った。
(皇国からの重要な来客でもあったのかしら?)
皇国の貴族――彼らは公家と呼ばれているらしいが、イケメンエルフとの出会いがあるかもしれないと考えると、エリゼの唇に自然と笑みが浮かんだ。
「あぁ、レーベルク女男爵夫が来られた。レーベルク女男爵様からも『よろしく頼む』とお達しがあってな。今夜はこちらに泊まっていただく手筈になっておるんだ」
その名を耳にした瞬間、エリゼの表情が微かにこわばった。
驚きに息を呑み、一瞬、ガストンを見つめる。
次第に眉が険しくなり、抑えきれない不快さで口元が歪んでいった。
「レーベルク女男爵夫? 金と権力を振りかざして淑妃を手に入れたって噂の人? しかも、うちからの借金を使って女を集めさせているって話の?」
エリゼの声には嫌悪感がにじみ、自然と低く硬い調子になった。金と権力を得るために女性を手に入れる貴族など、彼女にとっては忌々しい存在だった。
ましてや、それが憧れていた淑妃セリーヌ様だというのだから、なおさら腹立たしい。
さらに、平民の商人がどれだけ努力しても手に入れられない「商人ギフト」を、生まれながらに持っているという事実が――そのことが、どうにもエリゼの胸をざわつかせた。
ガストンは眉をひそめ、エリゼに向ける視線が一瞬鋭くなる。
エリゼは父が驚いているのを察し、胸に微かな緊張を感じた。
しかし、その表情はすぐにため息混じりのものへと変わった。
「なんだそれは? そんな噂があるのか? ……確かに、花の妖精のような侍女を連れて来ておったし、初代勇者様の後宮に住まわれているからな。後宮で働く女性を募集していてもおかしくはないだろう」
「それで、そのエセ商人様が何の用だったの?」
エリゼはつい口から棘のある言葉を漏らしてしまう。
「おいおい、相手は貴族様だぞ。不敬罪になるようなことだけは勘弁してくれ」
ガストンが肩をすくめてみせると、エリゼは小さく舌打ちをしながら腕を組んだ。
「だって、なんの努力もなしに女神様から商人のギフトを与えられただけじゃないの」
エリゼの言葉の端には苛立ちが滲み、無意識に足で軽く床をトントンと叩いた。
その小さな音に、部屋の空気が張り詰めたように感じられる。
ガストンはその様子を見て苦笑を浮かべ、「淑女が舌打ちはやめなさい」と優しく諭した。
だが、その声色はすぐに真剣なものに変わり、視線に鋭さを宿す。
「エリゼ、お前にはレーベルク女男爵領に行ってもらう。女男爵夫にお願いして後宮入りに推薦しようと思っておる」
その言葉を耳にした瞬間、エリゼの心臓が大きく跳ねた。
目を見開いて、信じられないという表情を浮かべる。
(後宮? 私が……?)
「ちょ、お父様、それは本気なの? というか、なんで私が入らなきゃいけないのよ。ミツグ君の一人になら加えてあげてもいいけど……」
エリゼは驚きと不安を隠すように、軽く髪をかきあげた。
彼女の言葉を聞いたガストンは、目をぎょっと見開いて娘を見つめた。
「ちょ、ちょっと待て、なんだ、そのミツグ君とは、お前は一体何をやっとるんだ? まさか、商会の名を貶めるようなことはしておらんだろうな?」
父の慌てた様子に、エリゼは内心笑いをこらえるのに必死だった。
こんなに狼狽える父を見るのは珍しい。
「私が一緒にお出かけしてあげて、ちょこっと話を聞いてあげるだけで、色々と便宜を図ってくれるのよ」
「な、なんだそれは……。まさか、お前……もうすでにその男たちと寝たりしていないだろうな」
その言葉に、エリゼは少し真顔になり、きっぱりと返した。
「そんな娼婦な真似事なんてしないわよ。相手もちゃんとした貴族なんだから」
ガストンはまだ納得できない様子で眉をひそめ、重々しく声を低めた。
「エリゼ、世の中はそんなに甘くないぞ。貴族に軽々しく関われば、いつ足元をすくわれるか分からんのだぞ」
エリゼは小さく肩をすくめ、軽い笑みを浮かべた。
「それぐらい分かってるわよ。ちゃんと線引きもしてるし、相手の性格に合わせて役割も決めてるわ」
「は? なんだそれは?」
父の疑念を余所に、エリゼは楽しそうに話を続けた。
「例えば、遠出したい時はわざわざ馬車を用意してくれる殿方がいるし、食事をおごってくれる殿方もいるわ。それから、お願いごとをすぐに叶えてくれる人もいるし、重い荷物を黙って持ってくれる人もいるの」
ガストンは一瞬言葉を失い、口を開きかけては閉じる。
エリゼはそんな父の反応を見て、内心の小さな勝利を感じながらも、父が何を言い出すのか少しだけ気にかけた。
「ば、ば、馬鹿者!」
ガストンは椅子から飛び上がるように反応し、再び椅子に落ちるように座り込むと、額を押さえて深い息をついた。
「はぁ~。お前はホントに誰に似たのやら……」
エリゼは父の反応に軽く肩をすくめ、口角を少し持ち上げて言った。
「ちょっと待ってよ、これは仕事なのよ」
「何を言っとるんだ」
ガストンが疑問の声を上げる中、エリゼは真剣な表情で続けた。
「単に街でデートをして、お話するだけじゃないのよ。相手の話をよく聞いて、何に悩んでいるのか、どんな言葉をかけて欲しいと思っているのかを考えて、彼らに心地よさや自尊心を満足させてあげないといけないのよ」
エリゼが言うように、単に「お話するだけ」では駄目なのだ。
貴族社会の情報を収集し、相手が喜ぶ話題を選び、満足させる。
そこには多大な労力がかかっていた。
「今日だって、最近開かれた夜会で大変なことがあって、一人の貴族令息が落ち込んでたから、慰めてあげてたんだからね」
エリゼは唇を引き結び、プイっと顔を背けた。
その小さな仕草に、彼女の不満がにじんでいる。
「な、なんだそれは? 何があった?」
ガストンが思わず前のめりになったのを見て、エリゼは少し口の端を上げて微笑んだ。「仕方ないな~」
エリゼは軽くそう言うと、貴族から聞いた話を父親に語り始めた。
「とある夜会でね、ある令嬢のドレスの糸がほつれて、太ももが見えてしまったらしいの。問題はその後よ。それを見た貴族が『はしたない』と馬鹿にして、周りの貴族にも同意を求めたの」
ガストンは眉をひそめ、真剣に話を聞いている。
「そして、その同意を求められた中に、その令嬢が思いを寄せている貴族もいたの。でも、その貴族も場の雰囲気に流されて、『あぁ、うん、そうだな』なんて、つい答えてしまったのよ。令嬢はそれを聞くと、涙を流しながら会場を飛び出していって……」
エリゼはそこまで話すと、一瞬ため息をつき、父の顔を見た。
けれどガストンは、まだ何がそんなに大ごとなのかといった表情だ。
エリゼは肩をすくめつつ、続けた。
「実は、その貴族も本当は彼女のことが好きだったのよ。ただ、話をちゃんと聞いてなくてね……彼女の足に見とれていたらしいの。そのとき、『ふまれたい』と聞かれたと思って『ああ、そうだ』なんて同意してしまったみたいなの。謝りたくても、何て言えばいいか分からず相談を受けたのよ」
ガストンは呆れたように肩を落とし、エリゼを見つめて尋ねた。
「普通、『はしたない』と『ふまれたい』を聞き間違えるか? どれだけ願望が入っとるんだ」
エリゼはにっこり微笑み、茶目っ気たっぷりに父をからかった。
「お父様もお母様に踏まれたいんじゃないの? お小遣いをくれるのなら踏んであげても良いわよ」
ガストンは一瞬目を丸くし、娘の冗談に顔を赤らめながら、慌てて大声で言い返した。
「阿呆か! 誰が娘にそんなこと頼むか! それに、言うなら大勢の前でなく、二人の時に言っとるわ!」
その様子に、エリゼはくすくすと笑い、少し得意げに父を見つめた。
(これは絶対に言ってるわね)
エリゼの視線に耐えられなくなったのか、ガストンは照れ隠しに咳払いをし、気を取り直して真剣な表情で問いかけた。
◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆
ここまで読んで頂きありがとうございました。
エリゼさんに踏まれたい!!
と思ってくださいましたら、
https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837
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