8.後宮の慌ただしい午後 ④
「それで、カタリナ、食材は足りそうですか?」
セリーヌが、ワイルドボアのそばで膝をつき、真剣な表情で鑑定作業に没頭するカタリナに声をかけた。
「はい、これだけあれば十分です。それに……まるでさっきまで生きていたかのような新鮮さです。こんな魔獣は、そうそうお目にかかれませんね」
カタリナは目を細めて感嘆の声を漏らしながらも、少し目が泳いでいる。
きっと、先ほどまでのユーリとセリーヌのやり取りが気になっているのだろう。
(ほんとうに申し訳ありません)
ユーリは心の中でそう謝罪した。
彼の気持ちに気づいているのかいないのか、カタリナはワイルドボアの厚い皮をそっとなぞりながら、再びユーリに向き直る。
「ただ、旦那様……解体には少し時間がかかりそうです。この大きさですし、血抜きもまだ終わっていませんから、すぐには調理できませんが……」
カタリナは申し訳なさそうに、ユーリに言った。
「そっか、そうだよね、解体が必要だよね……じゃあ、一旦ワイルドボアはしまっておくよ」
ユーリはすぐに納得し、ワイルドボアを異空間倉庫に戻すため手を伸ばした。
手をかざすと、空気が一瞬揺らめき、次の瞬間、巨大なワイルドボアがスッと空中に吸い込まれるように消えていった。
その光景に侍女たちは驚きの声を漏らし、周囲にざわめきが広がった。
「そんな簡単に異空間に出し入れできるなんて……本当に規格外の能力ですわね」
オフィーリアは半ば呆れたように言い、セリーヌも微笑んで頷く。
「だから言ったでしょう? 旦那様の能力については、決して口外しないようにね」
セリーヌは侍女たちを見渡し、一人一人に冷静な微笑みを向けた。
その視線は柔らかいながらも鋭く、侍女たちにもその重要性が強く伝わった。
「これ、絶対ヤバイやつだわ」
クロエは驚愕の表情を浮かべながら小声で呟いた。
それに同意するように、他の侍女たちも一言も発さず真剣に頷く。
「さて、では夕食はどうしましょうか?」
セリーヌが改めて問いかけると、ユーリが少し躊躇いながらも手を挙げて提案した。
「じゃあ……僕が料理をしようか?」
その言葉に、カタリナをはじめとする侍女たちは一斉に驚きの声を上げた。
「え、ええっ! 旦那様が料理を?」
カタリナが目を見開き、信じられない様子で問いかける。
「貴族が料理なんて……し、失礼ですが、料理のご経験がおありなのですか?」
「えーっと、かなり昔にちょっとだけ……」
ユーリは頭を掻きながら答えた。
その返答に、カタリナの表情に不安の色が浮かび、彼女の目が心配そうに揺れた。
(まずい、これじゃあ余計に心配させるだけだ……)
そう思ったユーリは、慌てて言葉を付け足した。
「でも、ちゃんと教わったことはあります。そこまでひどくはない……はずです」
もちろん、ユーリの「かなり昔」とは前世のことを指している。
さすがに今ここでそのことを話すわけにはいかないが、前世で「モテたい一心」で料理教室に通ったことが、今この場で役立つとは思ってもみなかった。
(今度こそ、その腕を試す時が来たんだ……たぶん)
「それではほとんど素人と同じではありませんか!」
カタリナは、やはり納得できない様子で強めの口調で答える。
侍女たちも、その声に小さく頷き合いながら、不安そうにユーリを見つめていた。
「火加減一つとっても、長年の経験が必要なんです! 火力の調整に、どの薪をどう使うか、香りづけのタイミングに、肉の部位ごとの焼き時間まで……どれも、すべてが重要なんです!」
カタリナは、料理に対するこだわりを熱心に語り続ける。
その瞳には強い信念が宿っていた。
「それに、焼いた後に肉を休ませる時間まで計算しないと、完璧な料理にはなりません! これらは一朝一夕でできるものではないんです!」
彼女の迫力に、ユーリは思わず後ろに後退る。
まさに料理のプロの厳しい目線だ。
「まぁまぁ、カタリナも落ち着いて」
セリーヌがやんわりと柔らかい笑みを浮かべながら、二人の間にすっと入った。
「王都のタウンハウスで旦那様の料理を頂いたけど、絶品だったわよ。ここは一度、旦那様にお任せしてみない?」
セリーヌが優雅に微笑みながら、やわらかな声で言うと、カタリナは少しずつ冷静さを取り戻し、ゆっくりと深呼吸をした。
(絶品と言っても、料理の腕前というよりは、前世の調味料のおかげなんだけどな……)
ユーリは内心で苦笑しつつ、セリーヌに感謝する。
「……ですが、食材はどうされるのですか?」
カタリナは眉をひそめながらも、依然として心配そうに尋ねる。
「ふふっ、それも心配しなくて大丈夫よ」
セリーヌがふとユーリに目を向け、期待に満ちた声で言った。
「旦那様、全員で鍋を楽しむことはできますか?」
ユーリは少し驚き、思わず眉を上げる。
「鍋って……この前みんなで食べた、しゃぶしゃぶのこと?」
彼の返答に、セリーヌは柔らかな微笑みを浮かべ、コクンと頷いた。
(そういえば……)
ユーリの脳裏に、王都のタウンハウスでの一幕がよみがえる。
あの時、セリーヌたちが真剣な顔で「この料理を食べる正式な作法はあるのですか?」と尋ねてきたので、ほんの出来心で「ノーパンで裸エプロンだよ」と返してしまったのだ。
セリーヌたちは「パンティ」を知らず、普段からノーパンだったらしい。
数年前から「ドロワーズ」と呼ばれる下着が上級貴族を中心に広まってきているようだが、それまではシュミーズと呼ばれる長い肌着を着たり、スカートを重ねて見えないように工夫していたそうだ。
まさか彼女たちが本当にその格好で現れるとは思いもしなかったが……。
ただ、しっかりロングスカートは履いていた、一枚だけだったけど。
男として勇気を振り絞って「スカートを短くしてほしい」とお願いしてみると、リーゼロッテは真顔で「では、世界を手に入れてください」ときっぱり。
「どんだけ?」と内心ツッコむしかなかったが、そういえばこの世界では短いスカートの女性を見たことがない、と納得するしかなかった。
もしかしたら、前世の記憶にだいぶ毒されているのかもしれない……。
『殿方の考えることは理解できませんわ。裸にエプロンを着せて、何が楽しいのかしら?』
と、オフィーリアが呆れ顔でこぼし、続けてリーゼロッテが、小声で言った。
『え、エプロンを着けてしまったら意味がない気がしますが……』
そして、セリーヌはどこか得意げに微笑んで、軽やかに言ってのけた。
『フィーちゃんもリーゼも、少しは男心を学ばなきゃね。前の旦那様も、透けるような薄いドレスで膝枕が好きだったのよ。ああいうシルエットの方が、いろいろと想像できて楽しいらしいわよ? それに、ほら、こうするとチラッと見えそうでしょ?』
もちろん、オフィーリアとリーゼロッテが『見せないで!』とすかさず突っ込みを入れていた。
『侍女にとって神聖なメイド服を……こんな下らないことで汚すとは……旦那様、殺しますよ』
アイナは感情を失ったような無表情で、冷たく言い放った。
その無機質な表情は、ロングスカートに裸エプロン姿の彼女たちよりも強烈に、ユーリの脳裏に恐怖を刻み込んだのだった。
そんなことを思い出していると、冷たい声が耳に入った。
「ユーリ様、まさかあの時と同じことはさせませんよね?」
振り向くと、リーゼロッテがジト目でこちらを見つめている。
「ま、まさか。しないよ、そんなこと」
ユーリがしどろもどろに答えると、セリーヌの顔が近づいてくる。
「今度、二人の時にしましょうね。なんだったら、私がお皿代わりになってもいいですわよ」
セリーヌの囁きに、ユーリは思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
頭の片隅に、前世で見た男性向けの映像がちらつき、妙に興奮してしまう。
「ぜ、ぜひおねが……いや、それより鍋の準備が先だよね!」
ユーリはあわてて視線をそらし、冷や汗を感じながら話題を切り替えた。
「皆で楽しく食べるのが一番だし、さっそく準備を始めよう!」
セリーヌは彼の焦りを楽しむように微笑み、リーゼロッテも呆れたようにため息をつく。
「はい、そうですわね。では、鍋の準備を進めましょうか」
そう言うと、セリーヌはマーガレットに振り返って問いかけた。
「マーガレット、何人いるのかしら?」
「住み込みは三十人ですね」
セリーヌはユーリに向き直り、にこやかに微笑んだ。
「旦那様、三十人でお願いしますわ」
ユーリは頷き、気持ちを切り替えて商人ギフトの能力「ネットショップオープン」を思い浮かべる。
すると、彼の視界に半透明のパネルが現れた。
他の人には見えないが、ユーリにはまるで前世のオンラインショップのように、はっきりと映っていた。
(三十人分か……八人ずつで鍋を囲むとしたら、鍋があと三つはいるな。カセットコンロとステンレス製の鍋、しゃぶしゃぶ用の肉も贅沢にして、野菜や薬味も揃えよう)
ユーリは画面上のカテゴリを開き、カセットコンロ、鍋セット、しゃぶしゃぶ用の肉、白菜、ニンジン、エノキ、豆腐、刻みネギ、もみじおろし、昆布だし鍋つゆなどを次々とカートに追加していく。
(やっぱり、ポン酢とゴマだれも欠かせないよね)
指がパネルを滑るたびに合計金額が画面に表示され、最終的には金貨十枚ほどに。
ユーリはちらりとセリーヌを見やり、確認を取った。
「金貨が十枚ぐらい必要っぽいけど……大丈夫?」
「クラウン金貨が十枚ですか……。では、旦那様、それでお願いできますか」
一瞬迷ったようだが、セリーヌは微笑んで頷いた。
その様子に、カタリナが驚きの表情で口を開く。
「せ、セリーヌ様! 侍女たちの食事に金貨十枚は分不相応かと……」
セリーヌは考え込むふりをしたあと、軽く肩をすくめて言った。
「うーん、どうせ借金は山ほどあるから、金貨十枚程度、大差ないわよ?」
「えっ……そんなに借金があるの?」
ユーリが驚いて声を上げると、セリーヌはにこやかに微笑んでさらりと答える。
「そうね……金貨五千枚、ぐらいかしら?」
一瞬で厨房が静まり返った。
ユーリを含め、全員が呆然とセリーヌを見つめている。
彼女は朗らかに両手を合わせ、微笑んで言った。
「だから、みんなで借金返済のために頑張りましょうね」
ちなみに、フィオナたちの年収はクラウン金貨で約四枚(月給はシリング銀貨七枚)。
一回の食事に金貨十枚というのがいかに大きいか分かるであろう。
「じゃあ、カタリナさんと……」
ユーリは厨房を見渡し、フィオナを見つけると声をかけた。
「フィオナも手伝ってもらっていいかな?」
「は、はい!」
急に話を振られたフィオナは驚きながらも元気に答える。
「私も手伝いますわ」
「わ、私も!」
フィオナに続くように、クロエとリリィもそれぞれ手を上げた。
その間にセリーヌはアイナに頼んだ。
「アイナ、旦那様に金貨を渡してもらえるかしら?」
アイナは「了解しました」と小さく頷くと、エプロンの端を持ち上げ、素早くスカートの内側に手を差し入れた。
隠されたポケットから小さな革製の財布を取り出し、中を確認して金貨を十枚手のひらに乗せると、静かにユーリの前に差し出した。
「どうぞ、旦那様」
「ありがとう」
ユーリは金貨を受け取ると、それを半透明のチャージボックスに押し当てた。
金貨は吸い込まれるように消え、残高表示に十が加算される。
「ポチっとな」
決済ボタンを押すと「お買い上げありがとうございます。商品は異空間倉庫に配送いたしました」とポップアップが表示された。
ユーリは軽く手を振ってパネルを消し、にっこりと笑う。
「それじゃ、準備するから手伝って」
そう言って異空間倉庫から次々と鍋や具材を取り出し、台の上に並べていく。
カタリナたちは驚きの表情を浮かべ、思わず口を開きかけたが、先ほどのセリーヌの「口外無用」という言葉が頭をよぎったのか、すぐに言葉を飲み込んで口を閉じた。
興味と好奇心が混じる視線をユーリに向けている。
ユーリは前世で覚えた調理の記憶を辿りながら、具材の切り方や鍋の温度調整をカタリナたちに指示し、鍋の準備を始めた。
静かだった厨房が次第に活気づき、やがて鍋から香ばしい香りが漂い始めるのだった。
◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆
ここまで読んで頂きありがとうございました。
セリーヌたちのしゃぶしゃぶシーンが見たい!
と思ってくださいましたら、
https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837
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