8.後宮の慌ただしい午後 ③

 ユーリは内心で小さく悲鳴を上げ、冷や汗を感じながらどう返答しようか迷っていた。

 その時、オフィーリアから容赦ない一撃が繰り出される。


「貴方様、領主の許可証を持たずに魔獣を狩るのは犯罪ではなかったかしら?」


 オフィーリアは腕を組み、頬に手を当てながら首をかしげた。

 その口調は穏やかだが、ユーリに冷たい現実を突きつける。


「えっ、そうなの? 犯罪なの?」


 ユーリは素っ頓狂な声を上げ、目を見開いた。

 想定外の展開に頭が真っ白になる。


「そうですね。魔獣も領地の資源ですから、領主の許可が必要ですよ。どこの領地で魔獣を狩られたのですか?」


 リーゼロッテが呆れたように問いかけ、その鋭い視線がユーリをじっと見つめる。


(まずい……まずすぎる……瞬間移動の能力を使って、あちこち飛び回ったよな……)

「えーっと……」


 言葉に詰まり、頭の中で狩りに行った場所の記憶を探る。


(そもそも冒険者登録してないから、許可証なんてもらえるはずがないんだけど……)


 冷や汗がじわじわと額に滲むのを感じながら、言葉を濁していると、セリーヌがふっと笑みを浮かべ、そっとユーリの耳元に顔を近づけた。


「旦那様、怒らないから……きちんと言いましょうね?」


 その声が優しいほど、逆に背筋が凍るような感覚が突き抜ける。


「えーっと……結構いろんなところで狩ってたから……王都の北の山とか、アララトス山脈とか……あと黒の森、シュヴァルツヴァルトとか……」


 ユーリが何気なくそう口にした瞬間、部屋の空気がひんやりと凍りついた気がした。

 彼は特に気に留めることもなく話し続けたが、ふと視線を向けると、セリーヌたちは驚愕の表情で固まっている。


「アララトス山脈も、シュヴァルツヴァルトも……Aランクどころか、Sランクの魔獣が出る場所ではありませんか!」


 オフィーリアは冷静を保とうとしたものの、声がかすかに震えていた。

 その目には隠しきれない恐怖が宿っている。

 セリーヌは青ざめた顔で目を大きく見開き、ユーリをじっと見つめた。

 唇がわずかに震え、彼女の動揺が伝わってくる。


「シュヴァルツヴァルトですって……? あそこは、瘴気が溜まっている最も危険な場所の一つじゃない……どうしてそんなところに……!」


 彼女の声にも緊張が滲み、息苦しさすら感じさせるほどに震えていた。


 黒の森、通称「シュヴァルツヴァルト」は、レーベルク男爵領の南、魔の森のさらに奥深くに広がる樹海である。

 そこは真昼でも薄暗く、地面に光が届かない世界だ。

 原因は不明であるが、瘴気と呼ばれるモヤが年中立ちこめ、森に足を踏み入れる者の体力を容赦なく蝕む。

 魔術を使える者にとって特に危険で、瘴気の影響により魔力が乱れ、呪文が制御不能に陥ることもある。

 さらに、瘴気によって多くの魔獣が変種化し、凶暴さが増している。

 魔術師ですら滅多に足を踏み入れないが、瘴気に耐える植物や変種の魔獣が多く棲み、希少な素材が眠る「宝の山」でもあった。


「瘴気の中に入れば、魔術の力が狂ってしまうことだってあるんですのよ! そんな場所に、あなた一人で……!」


 セリーヌはユーリの胸元に手を置き、震える指先で彼の服をぎゅっと握りしめた。

 彼女の瞳には、不安と恐怖が色濃く宿っており、その痛々しいまでの心配がユーリの胸に鋭く突き刺さる。


「お願いですわ……どうか、もっと自分を大切になさって。そんな、命を懸けて行くような場所に……どうして……」


 次第に彼女の声は震え、こらえきれない涙が瞳に浮かんでくる。

 その瞳が物語るのは、ユーリを失うかもしれないという強い恐怖であり、その想いが痛いほどに伝わってきた。


(やばい、どうしよう……。命を懸けるとか、そこまでのつもり全然なかったんだけど……)


 ユーリは内心焦りながらも、セリーヌの言葉の重さに動揺していた。

 彼女の悲しげな表情が胸に刺さり、居心地の悪さがじわじわと広がっていく。


(いや、実際はめちゃくちゃ余裕だったんだけど……コクヨウさんがワンパンで片付けたし……てか、そもそも無理やり連れて行かれただけだし)


 一方、リーゼロッテは冷静を装っていたが、その目には厳しい光が宿っていた。

 眉をひそめ、呆れと怒りが入り混じった視線でユーリを見つめる。


「ユーリ様、まさか黒の森の危険性を知らなかった……なんてことはありませんよね?」


 彼女の冷ややかな口調からは、ユーリが無謀な行動を取ったことへの怒りが隠しきれない。


「黒の森は、ただ魔獣が出没するだけの場所ではありません。あそこは王国でも最も危険とされる領域で、普通の冒険者なら足を踏み入れることさえ許されない場所です」


 さらに、険しい表情で続けた。


「それだけではありません。アララトス山脈まで行っていたんですか? あそこには竜が棲むと言われています。竜の住処に近づくなんて、命知らずにも程があります……!」


 リーゼロッテの声には、抑えきれない苛立ちがにじんでいた。


 レーベルク男爵領の東にそびえるアララトス山脈は、大陸を東西に分断する巨大な山脈であり、険しい地形と竜の存在によって人々から恐れられている。

 竜は強大な魔力を持ち、古くから伝説の存在として語り継がれてきた。

 この山脈には「勇者が竜の試練を乗り越え、その助力を得て大いなる災いを退けた」という伝承が残されている。

 レーベルク男爵領もまた、勇者が竜から山の麓に住むことを許された後に、保養地として築かれた都市であった。

 とはいえ、山脈の奥には今も竜の巣があるとされ、もし怒りを買えば周囲一帯が焼き尽くされるという噂が絶えない。


「アララトス山脈に竜がいると……知らなかったのかしら?」


 オフィーリアは少し呆れたように言ったが、その瞳にはユーリを案じる色が浮かんでいた。


「竜を下手に刺激するなんて、もしかして自殺願望でもお持ちなのかしら?」


 言葉を詰まらせた彼女の表情とかすかに震える声から、何を言わんとしているかは明白だった。


「貴方様、シュヴァルツヴァルトはただの危険地帯ではございませんのよ。時折、異界の門が開き、予測不能な事態が生じますわ。実際、三年前にも……」


 オフィーリアは言葉を飲み込み、視線を少し伏せたが、その目には隠しきれない不安が宿っていた。


「お願いだから、もう危険な場所には行かないで……もし何かあったら……私、もう耐えられない……」


 セリーヌの悲痛な声が、ユーリの胸に突き刺さる。

 その瞬間、ユーリは自分がどれほど危険なことをしていたのか、少しずつ実感し始めた。

 彼女たちの真剣な表情と涙に、胸が痛むのを感じながら、苦笑いを浮かべる。


「ごめん……次からは気をつけるよ。そんなに危ないとは、正直知らなかったんだ……」

「笑いごとではありませんわ」


 セリーヌが突然、鋭い声で言い放った。

 その声は普段の柔らかさとはかけ離れ、冷たく鋭い響きを帯びている。

 彼女の目は震え、その奥には恐怖と怒りが渦巻いていた。

 ユーリはセリーヌの異様な反応に驚き、戸惑いながらも彼女を見つめる。


「シュヴァルツヴァルトから現れた厄災……それと戦った前国王が、どれほどの重傷を負ったか、旦那様はご存じないでしょう……」


 彼女の言葉の端々には震えが感じられ、まるで恐ろしい記憶を思い出しているかのようだった。


(前国王って、セリアの前の旦那ってことだよね……まさか、病死じゃなかったの?)


 オルタニア王国で最強の魔術師と称された国王の死因は、貴妃による毒殺ではないか――そんな噂が巷では囁かれていたが、まさか魔獣討伐のせいで命を落としていたとは思いもしなかった。

 セリーヌは自分の手で顔を覆い、震える声を絞り出した。


「旦那様が……もしも、あそこに行って何かに襲われていたら……私は……旦那様まで失うなんて、考えたくもない……」

「ごめん……もう絶対に一人で行かない。それに、セリアたちを一人にしないから」


 ユーリはそう言って、セリーヌをそっと抱きしめ、背中を優しくさする。

 その様子を見ていたリーゼロッテも、涙を拭い、静かに前へと歩み出た。

 真剣な眼差しでユーリを見つめ、しばらく息を整えてから口を開く。


「ユーリ様……どんなことがあっても、お母様を泣かせるような真似だけは……しないでください」


 彼女の声はかすかに震えながらも、しっかりと続けられた。


「もし、貴方に何かあれば……私も後を追います。そのことだけは、どうか忘れないでください」


 その言葉を聞いて、ユーリは絶句する。


(えっ、そこまで?)


 そんな彼に、オフィーリアがふっと微笑みを浮かべながら、少し冗談めいた口調で割って入る。


「そうですわね、貴方様。私との約定を忘れていませんわよね。私の名誉の回復とクローディアス家の再興をさせないまま死ぬなんて、決して許しませんわよ」


 柔らかな微笑みとともに放たれたその言葉は、一見軽い冗談のようにも聞こえる。

 だが、瞳の奥には冷ややかな光が宿っていた。

 まるで笑顔の裏に隠された執念が、彼女の本心を語っているかのようである。

 その一瞬の表情に背筋が凍る思いを感じながらも、ユーリは彼女の強い意志に気圧され、言葉を詰まらせた。

 セリーヌの涙、リーゼロッテの揺れる瞳、そしてオフィーリアの冗談めいた言葉に秘められた本気……。

 それぞれの気持ちが、ユーリの心にじわじわと重くのしかかってきた。


(前世でも今世でも……こんなに本気で向き合ってくれた人はいなかったな……)

「みんな、心配かけてごめん。それに、こんな僕を心配してくれて、ありがとう」


 ユーリは軽く息をつき、彼女たちに微笑みを向けると、少し照れたように頬を掻いた。


 しばらくして、ユーリの腕の中でセリーヌも落ち着きを取り戻した。

 先ほど取り乱したのが恥ずかしいのか、頬を赤らめ、目を伏せながら小さく息を整えている。

 ちらりと周囲を見ると、カタリナは魔獣の傍に座り込み、真剣な表情で細かく観察しながら鑑定を進めていた。

 魔獣の毛並みや皮膚にそっと手を当て、その性質を探るように丁寧に撫でている。

 一方、マーガレットやフィオナたちも控えめに壁際に立ち、少し気を遣うように視線を下げながら、会話が終わるのを静かに待っていた。


(彼女たちには、申し訳ないことをしたな……)


 修羅場に居合わせた侍女たちの気苦労を察し、ユーリは心の中で感謝しつつも、少しばつの悪い気持ちを抱いていた。


「旦那様、全て魔の森で狩ったことにしておいてください。良いですか? 誰に何を言われても、レーベルク男爵領の魔の森で狩ったということにしてくださいまし」


 セリーヌが少し赤く染まった頬を上げ、上目遣いでお願いしてくる。

 その潤んだ瞳と、どこか甘えるような声に、ユーリの心臓が不意に跳ね上がった。

 デイドレス越しに彼女の柔らかな感触が伝わるたび、ユーリの鼓動は先ほどとは違う緊張感を帯び始める。

 ユーリは無意識にセリーヌをもう一度ぎゅっと抱きしめた。

 彼女の髪から漂う甘い香りが鼻をくすぐり、柔らかな体温が伝わってくるたびに、自然と抱きしめる力が強くなっていく。


「だ、旦那様……?」


 セリーヌが小さな声を漏らし、驚いたように目を見開く。

 その瞳には少し戸惑いの色が浮かびながらも、彼に身を委ねるようにそっと力を抜いた。

 ユーリは彼女の視線を感じながら、甘い香りと柔らかな感触に、ほんのひととき酔いしれる。

 どのくらい抱きしめていたのだろう。

 気づけば、ユーリの体も次第に熱を帯び始めている。

 慌てて少し身体を離すと、セリーヌが物足りなさそうに小さく声を漏らした。

 その声にもう一度抱きしめたくなる衝動が湧くのをぐっと堪え、ユーリは軽く咳払いをして気を落ち着ける。


「ちなみに、冒険者ギルドで魔獣狩猟の許可証をもらっていない場合って、どうなるの?」


 二人の甘い時間にあてられたのか、リーゼロッテも頬を赤らめつつ、少し視線を逸らしながら答えた。


「本来、無許可で魔獣狩猟をした場合、重い罰則が科せられます。罰金だけでは済まないこともありますし、最悪の場合……利き手の切断ですね」


 ユーリはその一言に、一瞬言葉を失い、顔が青ざめた。

 彼の背中に冷たい汗がじわりと滲み出す。

 リーゼロッテは、そんなユーリの様子を横目で見て、今度は冷静に微笑んだが、その瞳には冷たく鋭い光が宿っている。


「もし本当にそんなことになったら……次は容赦しませんからね、ユーリ様」


 その言葉が重く響き、ユーリは背筋が冷たくなるのをひしひしと感じた。


(これは……本気だな……)


 冷や汗が止まらないユーリは、なんとか場を和ませようと口を開きかけたが、リーゼロッテの重圧に押され、声を飲み込んだ。




◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆


ここまで読んで頂きありがとうございました。


セリーヌを次泣かせたらユーリ死なす!!

と思ってくださいましたら、

https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837

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