8.後宮の慌ただしい午後 ②
ユーリたちは天華の間を出て奥へと進み、突き当りを右折して調理場へと繋がる通路部屋の襖を開けた。
「あら、フィオナ、お帰りなさい。大丈夫だった?」
部屋の中にいたメイド姿の侍女が、入ってきたフィオナに優しく声をかけた。
「え、あ、うん……」
フィオナは少し戸惑った様子で答える。
「どうしたの?」
侍女が心配そうに尋ねると、フィオナは少し言いづらそうに言葉を続けた。
「旦那様が来られてて……厨房の鍵、開けてもらえる?」
「えっ、嘘?」
侍女は驚いたようにフィオナを見つめ、ユーリが部屋の中に足を踏み入れると、慌てて深々と頭を下げた。
部屋の中にはディッシュアップカウンターのような台があり、その上には豪勢なサラダが大皿に美しく盛り付けられていた。
フィオナに頼まれた侍女は、緊張した手で奥に備え付けられた重厚な扉の鍵を開け、ゆっくりとそれを両側に引いた。
「こ、ここからが厨房です……」
侍女は緊張した様子で言うと、フィオナが先に中へと入り、ユーリたちのサンダルを準備する。
「旦那様、どうぞこちらに」
フィオナに促され、ユーリたちは厨房の中へと足を進めた。
後ろから侍女がクロエにひそひそと話しかける声が聞こえる。
「ちょっと、どうして旦那様が厨房に? 何があったの?」
「さぁ、私にもわからないけど……まあ、何とかなるみたい」
クロエは少し肩をすくめて返答する。
「はぁ? なにそれ」
侍女は戸惑いの声を上げるが、クロエは気にせずサンダルを用意し、厨房へと入った。
ユーリたちが厨房の中へ入ると、おたまを右手に持って思案顔で唸っていた恰幅のよい女性が、こちらに気づいて声をかけてきた。
「あら、セリーヌ様……と旦那様でしょうか。ご挨拶ができておらず申し訳ありません。後宮御殿で料理長を任されているカタリナ・ロシュフォールです」
カタリナと名乗った女性は、コック帽を押さえながら深々と頭を下げた。
「あ、どうも、こちらこそよろしくお願いします」
ユーリは少し緊張しながら深く頭を下げる。
その瞬間、セリーヌが小さく咳をしたのが耳に入った。
ユーリはハッとして慌てて頭を上げた。
「……あ、えっと、すみません」
と、照れくさそうに後頭部を掻きながら、ユーリはセリーヌの方をちらりと見た。
セリーヌは小さく微笑んで、そっと顔を近づけると耳元で囁いた。
「もう少しお勉強が必要ですわね」
その瞬間、ユーリの顔が一気に熱くなり、言葉を飲み込むように「が、がんばります」と返すのが精一杯だった。
「それで、料理はどのくらい足りないの?」
セリーヌがカタリナに尋ねると、彼女は困ったような表情で答えた。
「マリネ中の鍋をひっくり返してしまいまして……肉料理とスープが全滅です。他の料理に変更しようにも、食材が足りない状況でして」
カタリナの悩ましげな声に、厨房全体の空気が一瞬重くなる。
フィオナが突然顔を伏せ、勢いよく頭を下げた。
「本当にごめんなさい! 私のせいで……全部台無しにしちゃって……」
彼女の声は震え、涙がこぼれそうだった。
カタリナがそれを軽く受け流すように笑い声を上げた。
「フィオナが怪我しなかっただけで良かったってもんだよ! 食料が不足するのも辛いが、それよりも人さね!」
カタリナは腹を抱えて豪快に笑い、フィオナの背中を軽く叩く。
彼女の豪快な笑い声に、フィオナも少しだけ安堵の表情を浮かべ、その場の空気が少し和らぐ。
カタリナは真剣な表情に戻ると、セリーヌに向き直った。
「それで、セリーヌ様はなぜ、ここに?」
セリーヌは周囲をぐるりと見回し、侍女たちを一人ひとり確認してから、口を開いた。
「マーガレット、ここにいるのは住み込みの侍女だけと思ってよいかしら?」
「はい、その通りでございます」
「そう、それではこちらに並んでちょうだい」
セリーヌがそう言うと、マーガレット、カタリナ、フィオナ、クロエ、リリィ、その後ろに五人の侍女たちも整列する。
セリーヌは彼女たちに厳しい目を向ける。
「これから言うことを、全員で復唱してもらえるかしら。もし復唱できない場合は、この厨房から出て行ってちょうだい」
その言葉に、侍女たちは緊張した面持ちで息をのんだ。
「大いなる慈愛の女神イデアに誓います。これから後宮内で見聞きするユーリ・フォン・シュトラウスに関する情報を一切口外いたしません」
セリーヌの厳粛な声に続き、マーガレットたちは一人ひとり、緊張した面持ちで復唱していった。
全員が復唱を終えると、セリーヌはさらに続けた。
「あとで魔術契約書にサインをしてもらうわ。そのつもりでいてね」
「分かりました。セリーヌ様がそこまでしなければならない理由があるのですね」
マーガレットはセリーヌに向かって静かに答えた。
「その通りよ。これから旦那様に驚かされることが多くなると思うけど、決して他言しないようにね。もし他言した場合は……領地からの追放があると思ってちょうだい」
セリーヌの言葉に、侍女たちの顔には一瞬の動揺が走った。
追放という厳しい現実に、彼女たちは思わず息をのむ。
すぐに全員が一斉に声を合わせた。
「はい、わかりました。決して他言はいたしません」
その声に満足したセリーヌは、ユーリの方に顔を向けて微笑み、柔らかく言った。
「では、旦那様、食材を出して頂いてもいいですか?」
ユーリは頷くと目を瞑り、異空間倉庫にある食材の目録を頭の中に思い浮かべた。
次々と浮かんでくるアイテムの中から「食べられる魔獣」を検索し、その中で最も適したもの――ワイルドボアを選択する。
意識を集中させると、空気が僅かに歪む感覚が広がり、その中に手をゆっくりと突っ込んだ。
目には見えないが、確かに存在する異空間の中を探るようにして、ユーリは何もない空間から巨大なワイルドボアを一体取り出し、床にどかっと置いた。
「……」
カタリナの手からおたまが落ち、フィオナやクロエ、リリィ、他の侍女たちは驚きで一瞬固まり、次第にざわざわと動揺が広がっていった。
ユーリはそんなことを気にせず、さらにワイルドボアを二体、三体、四体と取り出し始める。
「ちょ、ちょっと待ってください、旦那様! 一体何体出すつもりですか?」
カタリナは目の前の光景に愕然として、震える声でそう叫んだ。
驚きのあまり、敬意を忘れて主人に問い詰めるような口調になってしまうほどに。
顔は真っ青で、視線は次々と現れる巨大なワイルドボアから離れない。
彼女は、これが現実のものだとは思えないという表情を浮かべ、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
「えっ、あ、ごめん。そうだよね、何体いる?」
「まだ……あるのですか?」
カタリナが、かすれた声で震えながら問いかけると、ユーリは無邪気に頷いた。
「うん、あと五十体以上はあるんじゃないかな。他にも一角ウサギやファングウルフ、フレイムトード、ジャイアントワイパーもあるけど?」
彼の言葉に、カタリナたちは全身が固まり、まるで石像のように動けなくなった。
視線を交わすことさえ忘れ、ただ呆然と立ち尽くす。
「ふふ、どう? 旦那様は凄いのよ」
セリーヌが自信満々に腰に手を当て、胸を張った。
その瞬間、ドレスの布地が体に吸い付くように密着し、彼女の美しい曲線が一層際立つ。
わずかな仕草だけで、その柔らかなラインが揺れ、ユーリの目は無意識に吸い寄せられる。
甘くて優しいミルクのような香りがふわりと漂い、鼻腔をくすぐった。
思わず初めての夜のことが脳裏に浮かび、身体の奥からじわりと熱が広がる。
胸の高鳴りを必死に抑えようとするが、花の蜜に誘われる蝶のように、視線をセリーヌから外すことができない。
(まずい、落ち着け……!)
だが、体は言うことを聞かない。
まるで自分の理性が徐々に崩れていくように、ユーリの体は反応し始めた。
ついには、理性も完全に屈服し、焦りのあまり慌てて前屈みになる。
(お、落ち着け、俺……! こんなところで変なことになったら、大変だ……!)
何とか誤魔化そうと、咳払いしながら姿勢を正そうとしたが、心の中は完全にパニック状態。
顔にはじわじわと冷や汗がにじみ、視線を逸らそうとすればするほど、逆にセリーヌの存在がますます意識に入り込んでくる。
セリーヌはそんな彼の様子に気づくことなく、豊かに実った胸を張って誇らしげに笑っている。
「ふふ、私の旦那様はどうかしら? 頼もしいでしょ?」
(頼もしいのはいいけど、頼むからそんなに胸をアピールしないで……)
ユーリは心の中で悲鳴を上げつつ、必死に冷静さを保とうとするが、セリーヌの甘い香りと柔らかな曲線に完全に打ちのめされていた。
その様子に、リーゼロッテが深いため息をつき、首を横に振った。
「ユーリ様……なぜ前屈みになっているのですか?」
彼女は少しジト目になりながら、まるで冷や水を浴びせるかのように冷たく呟いた。
その一言がユーリの頭に鋭く突き刺さり、煩悩の波を一気に吹き飛ばした。
まるで雷に打たれたかのように背筋が伸び、理性が勝利を収める。
彼の心は再び清らかになり、冷や汗を拭うように内心の混乱が収まっていく。
ジト目で冷ややかに見つめられたその瞬間、ユーリはなぜかふと安堵を覚えた。
(……な、なんだ、この心地良さは?)
視線の厳しさと冷たい言葉が、意外にも彼の心に甘い喜びをもたらしたのだ。
リーゼロッテの視線を感じながら、表情が緩む。
(……やばい、ロッテの瞳……めっちゃいい……)
ユーリがそんな新たな境地に向かっていることなどつゆ知らず、オフィーリアは取り出された巨大なワイルドボアをしげしげと見つめ、眉をひそめながら静かに呟いた。
「本当に……常識では測れませんわね。貴方様、一体何体のワイルドボアを狩られたのですか?」
「さ、さぁ……正確には覚えてないけど、相方のほうが多かったような……」
ユーリは、星霊であるコクヨウが巨大化して、魔獣をワンパンチで倒していく様子を思い出していた。
「解体されていないのはなぜですか? 血抜きも終わっていないようですが……?」
オフィ―リアが首をかしげながら、淡々とした口調で尋ねた。
「いや、解体や血抜きはちょっと……」
ユーリが困った様子で頭を掻きながら答える。
「もしかして、リアは解体をやったことあるの?」
オフィーリアは少し微笑みながら、目を細めた。
「裕福な領地ではありませんでしたから」
その声は穏やかだったが、どこか遠い記憶を辿るかのように少し陰りを帯びていた。
「貴族で魔術師であれば、女であろうと戦う覚悟が必要ですわ。こう見えても、鳥やボアの解体にはそれなりに自信がありますのよ」
ユーリは目を見開いた。
オフィーリアのような美少女が血まみれになりながら狩りや解体をしている姿など、全く想像できなかった。
(マジか、解体できるんだ……。俺には絶対無理だ……。でも、すげぇな……)
思わず心の中で呟きながら、ユーリは彼女への驚きと尊敬を抑えきれず、苦笑いを浮かべて言った。
「さすがだね。いざって時は、ぜひ頼りにさせてもらうよ」
オフィーリアは軽く首を傾げながら、不思議そうな声を出す。
「私としては、あれだけ何でもできる貴方様が出来ない方がビックリですわ」
その後、可愛らしい花が咲いたような笑みを浮かべた。
まるで照れ隠しのような、その笑顔は彼女の冷静な外見からは想像できないほど柔らかい。
ユーリは、その笑顔に一瞬息を呑んだ。
「……でも、その方が人間らしいですわね」
その一言に、ユーリは思わず胸の奥が温かくなるのを感じた。
「それであれば、冒険者ギルドで解体して頂けばよかったのではないですか?」
オフィーリアは口元に手を当てながら、至極当然な指摘をする。
ユーリは一瞬言葉を失い、内心焦った。
(そうか、ギルドで解体してもらうって手があったのか……!)
思わず頭を掻きながら、笑みを浮かべた。
「えーっと、実は……冒険者登録してなくて……」
ユーリは目を逸らしながら、乾いた笑いを漏らした。
正直に言えば、ただ面倒で後回しにしていただけだったのだが。
「旦那様? もしかして許可証を貰っていなかった……なんてことはありませんわよね?」
セリーヌが引きつった笑顔を浮かべながら、ゆっくりとユーリの方へと振り向いた。
柔らかな微笑みとは裏腹に、その目には鋭い光が宿り、まるでドラゴンの尻尾を踏んだかのような恐ろしいプレッシャーが放たれている。
(あれ? オレ何かやっちゃいました?)
◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆
ここまで読んで頂きありがとうございました。
ユーリ君、もっとやらかして!!
と思ってくださいましたら、
https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837
から『レビュー』の★評価、フォロー、応援♥をお願いします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます