7.後宮侍女の奮闘記 その1 ②

 フィオナ、クロエ、リリィの三人が去っていくのを見送ったマーガレットは、ふぅ、と静かに息を吐き出した。

 ほんのわずかながら、玄関口の空気が落ち着きを取り戻す。


 彼女は土間で靴を脱ぎ、それを手に持つと、式台に上る。

 靴をきちんと靴置き場にしまいながら、誰にも聞こえないように小さくつぶやいた。


「さて、各部屋を見て回りましょうか」


 背筋を伸ばし、しっかりと身なりを整えると、御殿に入ってすぐの応接室である白露の間へと向かった。


 後宮御殿は、廊下が御殿全体を一周するように繋がっている。

 玄関を入ってすぐにあるのは、白露の間。

 そこから左に進めば、セリーヌの執務室である暁光の間や、来賓をもてなすためのサロン(光彩の間)、奥には子供部屋や礼拝堂が控えている。

 右の廊下を進むと、家族や親しい友人を歓待する春風の間、さらにその先には王侯貴族や高位聖職者をもてなす天華の間があり、その前にはユーリたちの食堂が並んでいる。

 その隣には、夜這いが推奨される来客用宿泊部屋の暁星の間が設けられていた。


 中央の庭園には舞台があり、天華の間や春風の間、光彩の間からその舞台を眺めることができる。

 天華の間のさらに奥へ進めば、調理場があり、さらにその奥には侍女たちの生活空間が広がっている。

 御殿の最も奥まった場所には、ユーリ専用の閉ざされた生活空間が存在する。

 この空間には、ユーリの寝室や私室以外にも、セリーヌの寝室や私室、そして側室が夜伽に利用する部屋(花鏡の間、夢幻花の間、花隠れの間)が備わっており、さらに専用の露天風呂や図書館、サロン(絢爛の間)など、贅を尽くした設備が揃っている。

 ここにたどり着くには、襖で仕切られた通路部屋を通り抜ける必要があり、その出入りは極めて限られた者しか許されない。

 後宮御殿の中でも特に厳重に管理されているこの区画は、まさにユーリにとっての安らぎ空間であり絶対的な聖域であった。


 現在、後宮で働く侍女は総勢五十三名。

 敷地面積に対して圧倒的に人手不足なのは、給金を払えないためでもある。

 その多くはレーベルク男爵領に住む女性たちで、朝早くから宮に通い、日が沈む頃には自宅へ帰る者もいれば、遠方の領地から奉公に来て後宮内に住み込んでいる者もいる。

 住み込みの侍女たちは、必要に応じて昼夜問わず対応できるよう常に待機している。

 特にセリーヌたちに仕える侍女は、男爵位や準男爵位、騎士爵位といった身分を持つ貴族の女性たちで、彼女たちは交代で昼夜の世話を担当している。

 一方、雑務を担う侍女たちは平民出身であり、定められた時間内で働き、日中の業務を終えると後宮を後にする。

 

 各部屋を一通り見て回ったマーガレットは、最後にユーリの私室へ足を運んだ。

 広々とした空間には、柔らかなカーペットが二枚敷かれている。

 片方には丸テーブルを中心に一人掛けの肘掛け椅子が並び、もう一方には、足の短い長机と三人掛けのソファが落ち着いた色合いで配置されていた。

 部屋全体が、どこか安らぎを与える空気に包まれている。

 暖炉にはまだ薪がくべられていないが、火を入れる準備は整っていた。


 窓辺では、リリィが軽やかな鼻歌を口ずさみながら、丁寧に格子状のガラス窓を水拭きしている。

 彼女の動きは軽やかで、窓越しに光が差し込み、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

 庭では、フィオナが花の手入れをしており、ふと気付いて窓のリリィに向かって元気よく手を振る。

 リリィもそれに応じ、笑顔で小さく手を振り返した。

 その一方、執務机の隣に置かれた補助机では、クロエが結婚式で贈られた献上品の目録の写しに目を通してた。

 真剣な顔つきで返礼の手紙を書きながら、彼女の筆は一度も止まることなく動いている。


 マーガレットは、夢想花の間に続く襖にそっと手をかけ、静かに開けた。

 襖を数回滑らせ、音や軋みがないかを確かめた後、ゆっくりと元に戻す。

 次にユーリの寝室への扉に手をかけ、開閉して中へ入る。

 ベッドのシーツに目をやり、端を指先で撫でながら皺を整える。

 ふっくらとした布団をそっと押してみると、十分な弾力が手に伝わる。

 それを感じたマーガレットは、わずかに肩の力を抜いて一息ついた。

 執務室に戻り、調度品に軽く触れ、位置をわずかに直しながら、全体のバランスを整えていく。

 その時、廊下側の襖が勢いよく開かれ、侍女が息を切らして入ってきた。


「た、た、た、大変です! マーガレット様! セリーヌ様と旦那様が到着されました!」


 そして顔を紅潮させ肩で息をしながら、なんとか報告を終える。

 マーガレットはその言葉に驚き、動きを止めた。


「何ですって……?」


 四日後の到着予定だったはずのセリーヌたちが突然現れたという報告に、彼女は信じられない思いで目を見開いた。

 クロエたちを見ると、彼女たちも同様に目を見開いている。


「それだけではありません。旦那様の隣に……女性が一人……」


 侍女の言葉に、部屋の空気が一瞬で張り詰めた。


「セリーヌ様、リーゼロッテ様、アイナ様の三名ではないの?」

「はい、四名です。見知らぬ方が一人……それと黒いネコが……」


 それを聞いたマーガレットは、一瞬天を仰いでから、手で目を覆い溜息をついた。

 だがすぐに表情を引き締め、凛とした顔で指示を出した。


「クロエさん、他の班長たちにすぐ連絡を。リリィさん、暁星の間か朝露の間で宿泊が可能か確認し、使える方の部屋を整えてちょうだい。フィオナさん、料理を一人分追加で用意して。私は玄関に向かいます。あなたも一緒に来なさい」


 クロエたちは素早く返事をし、急いでユーリの私室から飛び出していった。


「走らないで!」


 マーガレットが注意の声をかけると、彼女たちはスカートの裾を少し持ち上げ、急ぎ足でかけていった。


「それでは、私たちも旦那様をお迎えに上がりましょう」


 連絡に来た侍女を促しながら、マーガレットも玄関へと急いだ。


 マーガレットが玄関に到着すると、セリーヌが玄関の土間で珍しそうに周囲を見回していた。

 彼女がしっかりと腕を絡めているのは、見知らぬ男性。

 マーガレットはその男性に一瞬視線を留めた。

 後ろにはリーゼロッテとアイナ、さらに見知らぬ女性がもう一人加わっている。

 そして、その男性の足元には真っ黒なネコが静かに座っていた。


(あの男性が、旦那様のユーリ様……でしょうか?)


 心の中でそう推測するしかない。

 セリーヌはその男性に腕を絡めて親しげに寄り添っているが、マーガレットに対して紹介する素振りすら見せない。

 まるで、当然のようにその場に立っている彼女に、マーガレットは内心でため息をつきたくなった。


(珍しく浮かれていらっしゃるようですね……私はまだ旦那様の顔を知らないのですが……)


 セリーヌの無邪気な振る舞いには慣れているものの、こうして段取りを無視されると、職務上見逃すわけにはいかない。


「セリーヌ様、お早いお着きですね」


 抑えきれない気持ちを胸の内に秘めつつ、丁寧に一礼しながら言葉を口にする。


(到着は四日後の予定だったはずですが……)


 言えない言葉を、心の中で呟く。


「来ちゃった」


 セリーヌが茶目っ気たっぷりに微笑みながら返事をする。

 それを聞いて、マーガレットは心の中で深くため息を吐いた。


(本当に、この方は……)

「セリーヌ様、あれほど淑妃時代に申し上げましたのに……淑妃を降嫁されたからといって、もうお忘れになったのですか?」


 マーガレットは、静かに声を落としながらも、その中に少しだけ呆れを込めて問いかけた。

 段取りを無視することが、これで何度目になるだろうか。

 あえて本気で叱るつもりはないが、このままではセリーヌが好き放題に振る舞いかねない。


「ま、マーガレット?」


 セリーヌが驚いたようにマーガレットを見つめる。

 その顔にはほんの少しだけ焦りが浮かんでいる。


「毎度毎度毎度毎度、段取りを無視しないように、とあれだけ注意しましたよね?」


 マーガレットの声は静かで、怒りというよりも長年の付き合いから来る呆れと諦めがにじんでいた。

 セリーヌが無邪気に振る舞うたびに、彼女の背後で段取りを整えてきた日々が思い出される。


「ご、ごめんなさい……」


 セリーヌは少ししおれた声で謝罪するが、その瞬間、彼女は素早くユーリの後ろに隠れ、まるで彼を盾にするように振る舞った。

 マーガレットは、その様子に再び小さくため息をついた。


(やれやれ、旦那様まで巻き込むとは……)


 マーガレットは内心で呆れつつも、表情にはそれを出さない。

 すぐに冷静さを取り戻し、深く一礼する。


「これは申し訳ございません。私は、マーガレット・フォン・プレディでございます。お出迎えもできず、大変失礼いたしました」


 彼女は丁寧に謝罪した。

 とはいえ、この状況がセリーヌの予測外の行動によるものであることは明白だった。


「いえいえ、こちらこそ予定より早く到着してしまい、申し訳ありません。ユーリ・フォン・シュトラウスです」


 ユーリが少し戸惑いながらも礼儀正しく返答する。


(やはり、この方が旦那様ですね……)


 マーガレットはその確信を持ちながら、視線をセリーヌに向けた。

 彼女の振る舞いが、今回の出来事のすべての発端であることは間違いない。

 きっとマーガレットを驚かせようとしたのだろう――そう察しながら、彼女は軽く目を閉じ、冷静な口調で言葉を続けた。


「旦那様に謝罪を頂くなど、滅相もありません。どうせ、どこかの誰かが『早く着いて驚かせましょう』などとおっしゃったのでしょう?」


 マーガレットの言葉には、長年の経験に裏打ちされた確信が滲んでいた。

 ユーリは驚いたように目を見開き、息を飲んでいる。


「よく、一言一句分かりましたね……」


 その驚きを聞きながら、マーガレットは内心で苦笑する。


「長い付き合いですので」


 しかし、今日は少し事情が違う。

 マーガレットは見知らぬ女性に視線を移した。

 そして一段トーンを下げて、問いかけた。


「で、セリーヌ様。お聞きしていたより多いようですが?」


 その言葉にはわずかに鋭さが含まれていた。

 セリーヌの肩がピクリと震えるのが見え、マーガレットはその反応に気付きながらも表情を崩さない。


「ひぇっ……」


 ユーリの後ろからかわいらしい声が聞こえた。

 マーガレットは内心でまた呆れを感じたが、外見にはそれを表さず冷静を保っていた。

 怯えた声で何を隠そうというのだろうか。


「彼女は、私の妻で、オフィーリアと言います」


 ユーリが黒髪の美少女を紹介した。


「初めまして、オフィーリアですわ。これからよろしくお願いしますわね」


 オフィーリアが軽く目を下げて挨拶すると、マーガレットも丁寧に頭を下げた。


「はい、こちらこそよろしくお願いします」


 その後、マーガレットは再びセリーヌに視線を戻し、問いかけた。


「それで、セリーヌ様、ご連絡を頂けなかったのは何故ですか?」


 マーガレットの声は穏やかだが、その中にはわずかに鋭さが含まれていた。


「ち、違うのよ、これは私も想定外で、あの王太后陛下が無理やりねじ込んで来たんだから!」


 セリーヌが慌てて弁明し始める。

 マーガレットは一瞬目を閉じて、その説明を静かに受け入れた。

 彼女はすぐに納得した――これまでも何度となく、王太后である前貴妃の強引なやり口に悩まされてきたからだ。


「はぁ……ぎりぎりまで言わないとは、貴妃様らしい嫌がらせですね」


 マーガレットはため息をつきながら、セリーヌの弁明に応じた。

 その声には、どうしても拭いきれない疲れと諦めが滲んでいた。

 何度注意しても変わらない、彼女の振る舞いには、昔から苦労してきたのだ。


「後宮時代から何度も経験してきたのですから、貴妃様の考えそうなことぐらい分かったのではないのですか?」


 マーガレットが少し鋭い口調で問いかけると、セリーヌがユーリの肩越しに顔を出し、笑顔を浮かべながら自分の頭を軽く叩いた。

 まるで子供のような仕草で、舌をちょこんと出している。


「ちょっと、浮かれちゃってて、てへっ」


(やれやれ……本当に昔から変わらないですね)


 マーガレットは内心でため息をつきたくなる衝動を抑えたが、外には出さなかった。

 冷静に、しかし厳しく、セリーヌに一言だけ告げる。


「ご領主様」


 厳しいその一言に、セリーヌは急に縮こまった。


「ご、ごめんなさい。もうしません……」


 セリーヌはしおらしく謝罪しながらも、再びユーリの後ろに隠れる。


「はぁ、淑女が殿方の前で舌を出すものではありませんよ」


 マーガレットは、疲れを感じながらも、しっかりと注意をする。

 このように言わなければ、セリーヌがまた調子に乗ることは目に見えている。


「は~い、ごめんなさ~い」


 セリーヌが軽い声で返事をすると、マーガレットは一瞬、顔をしかめた。


「返事は伸ばさない」


 毅然とした口調で注意を促すと、セリーヌは今度こそ少しだけ真剣な表情に変わり、言い直した。


「はい、申し訳ありませんでした」


 その返事を聞いて、マーガレットは少しだけ肩の力を抜いた。

 しかし、内心では、またいつか同じことが起こるだろうと、ため息をつきたくなる気持ちを押し殺す。

 ふと、マーガレットはユーリの反応に気づいた。

 彼が驚きの表情を浮かべたまま、セリーヌと自分のやり取りをじっと見ている。


「どうかされましたか?」


 マーガレットが落ち着いた声で尋ねると、ユーリは少し戸惑いながら答えた。


「いや、セリアがこんなに怒られてるのって初めて見たから」


 彼の声には、予想外の光景を目の当たりにした戸惑いが混じっている。

 その言葉に、マーガレットは内心で苦笑した。


(確かに、セリーヌ様は淑妃でしたからね。厳しく接することができたのは、同じくらい高位の側妃ぐらいでしょう)


 彼女にとって、セリーヌを叱るのは日常茶飯事だったが、他の者にとっては新鮮な光景なのだろう。

 すると、オフィーリアが軽く肩をすくめ、どこか満足げに言った。


「あの夜の恐怖のことを考えたら、いい気味ですわ」


 その言葉に、リーゼロッテも静かに笑みを浮かべ、優雅に頷いた。


「ふふ、そうですね。このやり取り、なんだか王都の後宮で生活していた時のようですね」


 リーゼロッテの言葉に、マーガレットの記憶も自然と淑妃時代へと戻っていく。

 セリーヌが自由に振る舞い、注意を受けるたびに同じようなやり取りを繰り返していたあの頃――思い返せば、今の状況とほとんど変わっていないことに、マーガレットは少しだけ呆れを感じた。


(まったく、本当に昔から成長しませんね……でも、こうしてセリーヌ様の反応を楽しんでいるのは……私だけの秘密ですね)


 セリーヌが変わらないことを嬉しく思い、これからも彼女を諭す日々が続くのだろうと考えると、自然と笑みが浮かんだ。

 どうやら、後宮ここでの生活はこれからも楽しくなりそうだ――そんな予感を抱きながら、マーガレットはユーリたちを部屋へと案内した。



◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆


ここまで読んで頂きありがとうございました。


もっと三人娘に活躍して欲しい!!

と思ってくださいましたら、

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