7.後宮侍女の奮闘記 その1 ①

「予定ではもうそろそろ王都を出発される頃ですね。水路でイシュリアス辺境伯領都まで行き、陸路で二日。ここに到着されるのは四日後のお昼ごろでしょうか……」


 侍女長のマーガレットは、レーベルク男爵領の城館がある高台から跳ね橋で渓谷を渡り、後宮門の重厚な扉をくぐり、後宮御殿へと続く静寂に包まれた回廊を進みながら、静かに独り言をつぶやいた。

 城館のある領地の政治が行われる場所を『表』、領主や側室が生活する後宮御殿や離宮がある場所を『奥』と呼んでいる。

 湖から流れる川が、高台を分かつ渓谷を作り出しており、その地形を活かして、『表』は市街地から坂道を登り歩いて行ける高台に、『奥』は領主が出入りする際にのみ下ろされる跳ね橋で渓谷を越えた先に配置されている。


 『奥』はさらに湖から運河を引いて六つの区画に分かれている。

 ①後宮区画:領主の住居となる御殿と見張り台になる天守がある区画

 ②離宮区画:側室が住む大きな離宮が六つと庭園がある区画

 ③里村区画:疑似的な農村があり農作物や家畜を育てている区画

 ④公園区画:観葉植物や馬上槍試合などの競技、大きな祭事を行うための区画

 ⑤狩猟区画:領主が狩猟を楽しむための区画

 ⑥果樹園区画:様々な果実や薪や木材のための樹木を育てている区画

 あまりにも広大なため、果樹園区画や狩猟区画に行くには、小船を使って移動しなければならない。


 後宮門を通ってすぐ右手に見える後宮区画の後宮御殿は、南方の皇国で一般的な木造の平屋建て。

 三ヵ月前にここへ来た時は、屋根瓦が崩れ、苔や蔓が壁に絡みつき、雨漏りの痕が天井に広がっていた。

 床板は腐って軋み、住むには到底適さない状態だった。

 セリーヌが赴任してくるまでに、屋根は新しい瓦で葺き直され、腐った床もすべて張り替えられている。

 まだかつての美しさを取り戻せたわけではないが、少なくとも日常生活を送るには十分な状態にまで修繕されていた。


「なんとか間に合いましたね……」


 限られた資金の中で、セリーヌたちを迎え入れられることに、少しホッとしていた。

 最悪の場合、御殿の奥に天を突くようにそびえる緑瓦の白い建物――天守で寝泊まりしてもらわなければならなかっただろう。

 理由は不明だが、天守だけはまるで時間が止まったかのように、その美しさを保っていた。


 後宮門を通ってすぐ左手には離宮区画があり、本来であれば美しい庭園が広がっているはずだった。

 だが、雑草が無造作に茂り、枯れた植物が交じり合い、かつての面影をほとんど残していない。

 錆びついた東屋の装飾は風化し、柱や屋根に蔓が絡みついている。


「ふぅ……とにかく時間も人手も、お金も足りませんね」


 マーガレットはつぶやいた。

 小川も完全に干上がり、ただ石ころが転がるだけの溝となっている。

 これだけの荒れ果てた庭園を復旧させるには、一体どれほどの時間がかかるのだろうか。


 最も酷いのは、その先に見える側室たちの住む離宮だ。

 帝国の初代皇帝が建てたとされる六つの離宮――風雅ふうが宮、月華げっか宮、花苑かえん宮、翆嶺すいれい宮、星耀せいよう宮、陽明ようめい宮――は、かつてはその名にふさわしい気品を誇っていたらしい。


「リーゼロッテ様の住まわれる風雅宮だけでも、なんとか修繕したかったのですが……」


 その願いは叶わなかった。

 瓦屋根は色褪せ、割れた部分やずれた箇所には苔が広がり、修繕の手が入っていないのが一目でわかる。

 後宮御殿から各離宮を繋ぐ回廊の柱にはひびが走り、今にも崩れ落ちそうな気配だ。

 外壁の塗装も剥がれ、埃と雨垢にまみれている。

 かつての優雅な姿を知る者は、ここには誰もいない。


「優先すべきは……旦那様の希望で、まずは畑や果樹園の整備ですね……」


 セリーヌからの指示を思い出しながら、マーガレットは小さく呟いた。

 元淑妃の侍女長として、後宮全体が荒れたままというのは、彼女の矜持が許さない。

 しかし、先立つ物がないため、出せるのはため息だけである。

 眉間に寄った皺を指で揉みながら、マーガレットは静かに後宮御殿へ足を踏み入れた。


「どいてどいてどいて~!」


 明るい金髪をふわふわと揺らしながら、青いリボンで飾られたメイド服を身にまとった美少女が、手に持った雑巾で床を拭きつつ、勢いよく廊下を駆け抜けてくる。

 そのまま勢い余って――次の瞬間、盛大な衝突音が響いた。

 水の入った桶が宙を舞い、キラリと光る水滴が廊下中に飛び散った。


「水もしたたるいい女……なんちゃって」


 大きな青い瞳を輝かせ、笑顔のまま水浸しになった自分をまったく気にしていない様子である。


「フィオナ、貴女は本当に、仕事を増やす才能があるみたいね。次は何を壊すつもりかしら? まさか、壁でも突き破る気?」


 紫のリボンで飾られたメイド服の美少女が、冷ややかな紫の瞳でフィオナをじっと見つめる。

 艶やかな深紅の髪が静かに揺れ、彼女の落ち着いた雰囲気を一層際立たせている。


「あはは~、クロエ~、ごめんね~」


 フィオナの大きな笑い声が廊下に響く。

 クロエはそんな彼女を見て、ほんのわずかに口角を上げた。


「まあ、せめて次にやらかすときは、もう少し計画的にお願いね」


 クロエは深紅の髪を優雅に一振りしながら、フィオナに軽く肩をすくめて言った。


「あの~、フィオナちゃんもクロエちゃんも……」


 ピンクのリボンで飾られたメイド服の美少女が、控えめに二人に声をかけた。

 彼女の柔らかなピンクの髪が微かに揺れ、その澄んだ青い瞳にはどこかおどおどした様子が漂っている。


「リリィ、どうかしたの?」


 フィオナが元気よくリリィの方を振り向くと、リリィは小さな声で震えながら答える。


「玄関に……マーガレット侍女長が……」


 リリィが恐る恐る指をさすと、クロエとフィオナがゆっくりとその方に顔を向けた。


「あら、侍女長、ごきげんよう」


 クロエは冷静に、優雅な笑みを浮かべて誤魔化すように挨拶する。


「あはは、マーガレットさん、おひさ~」


 一方のフィオナは、大きく手を振りながら元気いっぱいに声をかける。

 彼女の無邪気な笑顔とリボンが跳ねるように揺れ、まるで自分が騒動の原因であることをすっかり忘れているかのようだった。

 マーガレットはしばらく三人を見つめた後、静かにため息をつく。


「貴方たちを旦那様専属にしたのは失敗だったかしら……」


 その言葉に、クロエは不満げな表情をして答える。


「それはちょっと早計ではないかしら、私が光り輝くのはこの田舎しかないというのに」

「そうだよ! 旦那様がどんな人かも見てないのに、酷いよ~!」


 フィオナは元気よく反論するが、その笑顔はあまり深く考えていないようだ。


「わ、私もこの静かな場所が好きですから、追い出されるのは困ります……」


 リリィが控えめな声で続け、二人の間に入るようにマーガレットを見上げる。


「はぁ……」


 三人が皆訳アリで王都からこの地にやって来ていることを知っているマーガレットは、またため息をつき、眉間に寄った皺を指で揉みほぐした。


「そんなにため息ばかりついてると、幸せが逃げちゃうよ~」


 フィオナは無邪気に笑いながら軽口を叩く。


「貴女のせいでこうなっているのですけどね」


 マーガレットは冷静な口調で返しながら、フィオナを一瞥する。


「ところで、旦那様の寝室と私室の準備は済んでいるのですか?」


 彼女はため息をつきつつ、次の指示に話を戻した。


「はーい、全部終わってます! ただ、旦那様の『連れ込み部屋』のベッドのシーツが新調できてません」


 フィオナは明るく手を挙げ、軽やかに答える。

 その言葉に、マーガレットの眉が一瞬ピクリと動いたが、フィオナはまったく気にしていない。


「フィオナ、一応準男爵家のお嬢様なんだから、もう少し上品に『ご休憩所』くらいは覚えてちょうだい」


 クロエが冷ややかな瞳でフィオナを見つめながら、少しだけ眉をひそめる。

 彼女の声には、ほんのわずかにフィオナを心配する響きが混ざっている。


「夢想花の間という立派な名前がついてますよ。側室様をお迎えする、大切なお部屋ですよ!」


 リリィが慌ててフォローに入り、控えめに両手を胸の前で握りしめる。


「それで、なぜシーツが新調できていないのかしら?」


 マーガレットは冷静に話を戻した。


「だって、あのサイズのベッドで円形なんて普通はないですよ~」


 フィオナは手を大きく広げ、まるでベッドの巨大さを示すかのように身体で表した。

 夢想花の間に置かれるベッドは巨大な円形をしていて珍しく、シーツも他のものを流用するのが難しい。


「ホントよ。いったい何人と一緒に寝るつもりなのかしら。旦那様って、もしかして底なしなのかしら……」


 クロエは少し冷ややかな口調で言いながらも、どこか楽しげに微笑んだ。

 リリィはクロエの言葉を聞くと、一瞬で顔を真っ赤にしてしまった。


「そ、そんないけないこと……旦那様は底なし……」


 彼女はおどおどとしながらも、小さな声でつぶやき、クロエの冗談を真に受けてしまったようだ。


「で、でも……旦那様はそんなに沢山の方を一度に愛せるなんて、それだけ皆さんを大事にしてるのですね」


 リリィは突然、自然と温かい笑顔を浮かべながら続ける。


「きっと、旦那様ってすごく優しい方なんだと思います!」


 彼女の天然な発言に、周りの二人は一瞬言葉を失った。

 フィオナは口をパクパクさせ、クロエはため息をつきながらも、微かに微笑んだ。


「……本当に、貴方たちは騒がしいですね」


 マーガレットは再び眉間に皺を寄せるが、その表情にはどこか諦めと優しさが混ざっている。


(セリーヌ様も、この三人を旦那様専属にするなんて……)


 そう心の中でつぶやき、ため息をついて続けた。


「ベッドの件はわかりました。どんな理由があっても、旦那様が到着する前に準備を整えるのが私たちの仕事です。職人には急ぐように伝えてちょうだい。それから、フィオナ、あなたの無邪気な性格は魅力的ですが……もう少し計画性を持ちなさい。クロエ、冗談はほどほどにして、仕事の合間にお願いしますね。リリィ、あなたの天然なところは微笑ましいですが、もっとしっかりしてもらわないと困りますよ」


 マーガレットは、それぞれの名前を呼びながら視線を送り、軽く注意を与えていく。


「えー、計画性ですか?」


 フィオナは少し困った顔をしながら、頭をかいた。


「細かいことはクロエの方が得意だし……でも、マーガレットさんが言うなら、頑張ってみます!」


 彼女は無邪気な表情で、明るく返事をする。


「冗談だなんて、むしろその方が冗談じゃありませんわ。私はいつだって本気です」


 クロエは悪戯っぽい笑みを浮かべ、肩をすくめて見せた。

 マーガレットは一瞬、雷を落とそうかと思ったが、この三人の中で一番事務仕事ができるのはクロエであり、彼女の力がなければ自分の負担が増えることを考え、ぐっと息を飲み込んだ。

 それに比べて、リリィはマーガレットの指摘を受け、驚いたように瞬きをしてから呟いた。


「えっ……私、そんなに天然ですか?」


 不安そうな顔をして少し考え込んだ後、背中を伸ばしてしっかりと言う。


「もっと頑張らなきゃ……ですね」

「さあ、無駄話はここまでです。旦那様をお迎えする準備は完璧に仕上げなければなりません。分かりましたね? フィオナ、まずはお風呂に入りなさい」


 マーガレットは微笑みながらも、しっかりと仕事に戻るよう促した。


「えっ、もしかして花雫の湯を使っていいの?」


 フィオナの目がキラキラと輝く。


「貴方はアホな子なの? アホなの? アホね! アホに違いないわ」


 クロエは軽く肩をすくめてため息をつく。


「クロエちゃん、アホアホ言い過ぎだよ。フィオナちゃん、私たちが使えるのは清流の湯だけだよ」


 リリィが控えめにフィオナをフォローしながら、クロエをたしなめるように優しく笑った。


「ちぇっ、つまんないの」


 フィオナは肩を落とし、少し不満げな表情を浮かべる。


「ふっ、大丈夫よ。底なしなら、そのうちお声が掛かって花雫の湯も使わせて頂けるわ」


 クロエが自信満々にそう言い放ち、片眉を上げて微笑んだ。


「……わ、私たちも? だ、男性に裸を見せるなんて……」


 リリィは顔を真っ赤にして、小さな声でつぶやいた。

 思わずぼうっとしてしまい、顔を伏せる。


「リリィ、大丈夫? 顔が赤いよ~」


 フィオナがリリィの顔を覗き込みニンマリしながら言う。

 ククロエはそんな二人を見て、小さくため息をつきつつも、微かに笑みを浮かべた。


「無駄話はここまで、と言ったはずですよ!」


 マーガレットが鋭く言い放ち、再び三人を仕事に戻らせるように促した。

 蜘蛛の子を散らすように三人は慌てて後宮御殿の奥へと歩いていく。

 マーガレットは三人の背中を見送りながら、心の中で再びため息をついた。


「セリーヌ様がこの三人を旦那様専属にされた理由……本当に分かる日が来るのかしら……」


 それでも、彼女の口元には微かな笑みが浮かんでいた。




◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆


侍女三人娘、頑張れ! 応援しているぞ!

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https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837

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