6.淑妃の降嫁 ⑩

 まったく気配に気づかなかったことに、ユーリの心臓が一瞬ドキリとする。


(いつのまに、こんな近くに……!?)


「あら、アイナ。もう準備が整ったの?」


 セリーヌが軽く微笑みながら、控えめに立つアイナに声をかけた。


「はい、すべて完了しております。馬車の方もご用意できましたので」

「そう、じゃあ向かいましょうか」


 セリーヌがそう答えると、アイナは丁寧に一礼してから、控えめに司儀の方へ目配せを送った。

 すぐにそれを察した司儀が動き始め、壇上へと進む。


 司儀は壇上に立ち、会場全体に響く声で話し始めた。


「皆さま、本日は献上の儀にご参列いただき、誠にありがとうございます」


 司儀の低く堂々とした声が広間に響き渡り、会場が徐々に静まり返った。


「それでは、これよりセリーヌ様とユーリ様は新居にて、初夜の儀を執り行います。皆さま、盛大な拍手でお見送りください」


 その言葉と同時に、来賓たちから大きな拍手が沸き起こり、二人を祝福する音が広間を包んだ。


(えっ、皆の前で宣言しちゃうの!?)


 ユーリが困惑していると、セリーヌは軽やかに立ち上がり、優雅にユーリの腕に手を添えた。

 彼の戸惑いを見透かしたかのような、落ち着いた微笑みを浮かべている。

 拍手に包まれながら、二人は一礼し、ゆっくりと退場を始めた。

 セリーヌとユーリの後に、リーゼロッテ、オフィーリア、アイナが続く。

 外には馬車が待っており、使用人たちが整然と並び、出発の準備が整っていた。

 馬車の扉が開くと、セリーヌが先に静かに乗り込み、ユーリもその隣に座る。

 前には、リーゼロッテとオフィーリアが座り、二人とも外の景色を静かに見つめていたが、どこか落ち着かない様子が見て取れた。

 リーゼロッテは小さくため息をつき、オフィーリアはぎこちなく髪を整えている。


(みんな、緊張してるんだな……)


 とユーリは心の中でつぶやいた。

 扉が閉まると、馬車の車輪がゆっくりと動き出す。


「ふぅ……」


 ユーリは外の景色を眺めながら、胸の奥にある期待と不安を少しずつ整理しようと息を吐いた。


「大丈夫ですよ、旦那様。きっと素敵な夜になりますわ」


 セリーヌがそっと優しい声で囁いた。


「元淑妃が伊達でないことを堪能くださいまし」


 彼女は微笑みを浮かべながら、まるでからかうようにそう言った。

 その言葉に、ユーリは胸の内で燻っていた期待と不安が一気に吹き出し、頭が茹だって顔から火を噴くような感覚に襲われた。

 馬車の中に漂うセリーヌの甘い香りが、彼の意識にじんわりと染み込み、頭がぼんやりと痺れ始める。


「は、初めてなもので、お手柔らかにお願いします」

「えっ?」


 セリーヌは軽く首をかしげた。


「旦那様はレオニダス家の嫡男でしたよね、閨に関する教導師はいなかったのですか?」


 驚いたように彼女が微笑みながら問いかけてくる。


「え?」


 ユーリは内心激しく動揺した。


(教導師? そんなものが当然いるものなのか?)

「そ、そんな教導師が普通はいるものなのですか?」


 ユーリは、なんとか声を絞り出す。

 セリーヌは軽く息をついてから、真剣な表情で彼を見つめた。


「旦那様……教導師は、ただ知識や技術を教えるだけの存在ではありませんのよ。それ以上に大切なのは、精神や道徳、そして相手への敬意を学ぶことなんです。もし、何も知らずにただ本能のまま行動すれば、傷つけてしまうこともあるでしょうし、信頼を壊すことだってあります」


 彼女の言葉に驚いたユーリは、目の前に座っている二人にも確認する。


「ロッテとリアにも、教導師がいるの?」

「もちろんです」

「もちろんですわ」


 二人は恥ずかしげもなく首を縦に振った。

 リーゼロッテは軽く微笑みながら、真剣な表情に戻る。


「教導師は、愛情の大切さ、自分の意思の伝え方、他人の気持ちの尊重を学ぶのです」


 オフィーリアも頷きながら付け加えた。


「そうですわね。特に男性貴族は初夜での失敗が許されませんの。技術も大切ですが、何より慣れておくことが重要ですわ」


 ユーリは目を見開いて困惑した。


「え、慣れるって……?」


 セリーヌが少し笑いを含んだ声で答える。


「精神的な緊張で失敗したら大変よ。特に貴族階級の結婚では、子孫を残すことが重要ですから、不妊だと見なされれば、それを理由に婚姻が破棄できるのよ」

「しかも、名誉棄損で訴えられて、多額の賠償金を支払った貴族もおりますから」


 リーゼロッテが冷静な声で付け加える。

 オフィーリアが一瞬言葉を飲み込み、声を落ち着けて続けた。


「それに、失敗は社交界で噂になりやすいですわ……。貴族たちは、他人の失敗を誇張して優位に立とうとするもの。一度広まった噂は、どれだけ弁明しても消えません。そのせいで家の評判にまで傷がついてしまいますわ」


 彼女の瞳には、静かな怒りと悔しさが浮かんでいた。


(貴族って……めっちゃ面倒臭いな……)


 その様子を見てユーリは内心でため息をつく。

 セリーヌは優雅に微笑んでから、そっとユーリの膝に手を乗せ、柔らかい目で見つめる。


「旦那様、安心してください。私が教導師として、しっかりと教育してさしあげますから。全て私にお任せください」


 膝に広がるセリーヌの温もりを感じ、ユーリの心臓が一気に跳ね上がった。


(えっ、教育って……? 本当に何を教えるつもりなんだ!?)


 頭の中が真っ白になり、言葉を選ぶ余裕すらない。


「えっ……あ、うん……」


 ユーリは、頭から蒸気を吹き出しそうな熱にうなされながらも、なんとか言葉を絞り出した。

 セリーヌは彼の反応を楽しんでいるかのように、微笑みを深めた。


「ふふ、でも旦那様の初めての女性になれるのね。嬉しいわ」

「えっ? 本番は無いんだよね?」


 彼の言葉にセリーヌは小さく笑いながら、囁くように答えた。


「うふふ、今日は安全な日ですし、ティアからアプローゼの秘薬も貰っていますわよ」

「いやいやいや、それって星導教会が禁止してる堕胎の薬でしょ。ダメでしょ、絶対ダメでしょ!」


 ユーリは何とか冷静さを取り戻そうとしたが、セリーヌは自信に満ちた笑みを浮かべて言った。


「旦那様にとって特別になれるのでしたら、異端なんて恐れるに足らずです!」


 その言葉にユーリは一瞬言葉を失った。


(教会の戒律を破ってまで……?)


 と、混乱するユーリの前で、リーゼロッテが呆れたように口を開いた。


「お母様、さすがに星導教会を敵に回すのは如何なものかと」


 オフィーリアも頷き、


「そうですわ。危険すぎますわ」


 と静かに諫める。

 セリーヌは肩をすくめて微笑み、さらにユーリに密着した。


「そ、そう。そこまで言うなら、少しだけ味わうことにするわ」


 ユーリの体温は上がる一方で、冷静さを保つ余裕はまったくなかった。

 セリーヌの熱が全身を通して伝わるたび、彼の頭はフワフワとぼんやりしていき、現実感が薄れていくような感覚に包まれていく。


 馬車は祝福の声に包まれながら、静かに進んでいく。

 外では、王都の人々が道の両脇に集まり、セリーヌたちに手を振りながら歓声を上げていた。

 ユーリは深く息を整え、これから訪れる試練に向けて高ぶる気持ちを何とか鎮めようとする。

 夕暮れ時の黄金色の光が柔らかく広がり、馬車全体を祝福するかのように包み込む。

 その光が彼の顔を照らすと、少しだけ緊張が和らぐように思えた。


 ようやく目的地であるレーベルク女男爵のタウンハウスに到着し、入居の儀が終わると、ユーリは控えの間で一人待つことになった。


「少しお待ちくださいね、旦那様」


 セリーヌが名残惜しそうに微笑むが、彼女の言葉はまるで、これからの試練の始まりを告げるかのように重く感じられた。

 控えの間に一人になると、ユーリの心は一層落ち着かなくなった。

 頭の中で妄想が次々と膨らみ、手のひらにはじんわりと汗が滲んでくる。


(ああ、だめだ……一人になると余計に考えちゃう……もし失敗したらどうなるんだ?)


 彼は深呼吸をするが、緊張はまったく解けなかった。


(セリアの方が経験が豊富なんだし、大丈夫……。でも、前国王と比べて満足させられなかったらどうしよう……)


 考えれば考えるほど、焦りは募るばかりだった。

 ユーリは自らに言い聞かせるように、再び深く息を吐いた。

 だが、部屋の静けさは彼の焦りをさらに強めるだけだった。


「やばい、やばい、やばい……緊張で窒息死しそう」


 耐えられなくなったユーリは立ち上がり、部屋をぐるぐると歩き回る。


「主様よ、少しは落ち着くニャ」


 いつの間にか現れたコクヨウが、落ち着いた声で話しかけてきた。


「いやいやいや、落ち着けって無理でしょ。だって、これから……だよ。初めてなんだから、失敗したらどうしよう」

「安心するニャ。失敗しったって良いじゃニャいかニャ。それで嫌われるなんてことはニャいニャ」


 コクヨウは、欠伸をしながら答えたが、ユーリの不安は収まらない。


「いや、そうかもだけどさ。でも、上手くできなかったら残念な男って思われない?」

「本番は無しと言ってニャかったかニャ?」

「いやそうだけどさ。それでも心配になるじゃん。早撃ちユーリなんて言われたらどうしよう」

「大丈夫ニャ。その時は、何度でもやり直せばいいニャ。ニャんたって主様の精は無尽蔵ニャ」

「えっ……なんで? なんで、そんな特異体質になってるの?」


 ユーリは驚いて立ち止まり、コクヨウを見つめた。


「神霊桃を覚えてるかニャ?」

「神霊桃? ああ、あの美味しかった桃ね」


 ユーリは魔獣討伐中に、何度も死にかけながら神霊桃を大量に食べたことを思い出した。


「あれを食べ過ぎたせいで、主様は神格を得てるニャ。吾輩も上位星霊として鼻が高いニャ」

「ぶふぅ」


 ユーリは思わず吹き出してしまった。

 信じがたい話だが、コクヨウは得意げにドヤ顔を決めている。


「主様の権能は、愛し合った女性の成長限界突破と身体能力向上だニャ。世界のバランスを崩しかねないニャ」

「ま、マジですか?」

「マジニャ。羽目を外し過ぎて世界のバランスを壊すと、天使に狙われるニャ。まぁ、主様ニャら返り討ちニャ」

「いやいやいや、平穏に暮らしたいんだけど……」


 ユーリは大きくため息をつき、力なく笑った。


「それは無理ニャ。主様はもう人の枠に収まらないニャ」

「……いつの間にか人間を辞めていた件について……」


 ユーリは呆然とその場に立ち尽くし、頭の中がぐるぐると混乱していた。

 部屋へと迎えに来たアイナの静かな声が、そんな思考を切り裂いた。


「旦那様、準備が整いましたので、どうぞお部屋へ」


 彼女に促され、ユーリはぎこちなく頷き、初夜の儀が行われる部屋へと向かう。


「吾輩は出来るケットシーだから、ここで大人しく待ってるニャ。覗かニャいから存分に甘えてくるといいニャ」


 コクヨウは部屋を出て行くユーリに、「頑張れニャ」と告げながら尻尾を振った。



◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆


ここまでお読み頂き有難うございます。


ユーリ君、人間なんて些細な事に囚われず、世界のバランスなんて壊してしまえ!!

と思ってくださいましたら、

https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837

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