6.淑妃の降嫁 ⑧
「黙って、俺のそばにいればいいんだ――」
ギデオンの言葉が終わるよりも早く、リーゼロッテを掴もうとするその手が彼女の肩に届こうとした瞬間、空間が一瞬、揺れた。
「――っ!」
突然、目の前に現れた影にギデオンは驚愕し、次の瞬間、その手首ががっしりと掴まれていた。
ユーリは、まるで時を越えたかのような素早さでギデオンの前に立ち、彼の手を止めた。
「彼女は大切な家族です。手を出さないで頂けますか?」
ユーリの声は、冷静な表情とは裏腹に、燃え上がる怒りを押し殺したかのような冷たさを帯びていた。
オフィーリアは、今の状況を飲み込めず、息を呑んだ。
さっきまで確かに彼女の隣で座っていたはずのユーリが、いつの間にかリーゼロッテとギデオンの間に立っている。
(……どうして? ユーリ様は……いつの間にそこへ?)
オフィーリアの目は驚きに見開かれ、心臓が早鐘を打つ。
彼女は、まだユーリの手の温もりが残る自分の手を見つめ、理解が追いつかないままに混乱していた。
一方、リーゼロッテは、その場面に一瞬だけ驚きの色を浮かべたものの、すぐに冷静さを取り戻した。
(さすが、旦那様ですね……)
彼が時空間を操り、瞬間移動のような動きをできることを知っていたため、慌てることはなかった。
むしろ、その背中を見つめながら、胸の奥に熱い感情が込み上げてくるのを感じた。
ユーリは常に、目立たないように魔術が使えないふりをすると言っていた。
それでも――自分を守るために、その禁を破ってまで動いてくれた。
リーゼロッテは、心の中で静かに感謝する。
(私のために、ここまでしてくださるなんて……)
セリーヌもまた、動揺を見せることなく、ただ静かにその様子を見守っていた。
彼女は何度かこの能力を目の当たりにしているため、驚きはしない。
ただ、今のユーリから漂う冷徹な怒りの気配を敏感に感じ取り、内心で彼の行動を評価していた。
(さすが旦那様……でも、不味いわね。こんなに注目されると厄介なことになるわ)
セリーヌの瞳が鋭く光る。
彼女は、机に置かれていたワイングラスをそっと手に取り、自然な動作でその中身を床にぶちまけた。
グラスの中の赤ワインが床に広がり、鮮やかな赤色が視線を引く。
その音に反応して、周囲の視線が一瞬そちらに向き、空気が変わった。
セリーヌは何事もなかったかのように、優雅に微笑む。
(これで、少しは時間が稼げるかしら)
セリーヌはワイングラスを床にぶちまけた後、周囲の注目が集まっているのを感じながらも、何事もなかったかのように優雅に微笑んだ。
「あら、ごめんなさい。旦那様が机を飛び越えた時に当たってしまったのかしら?」
彼女は涼しい顔で、わざとらしさを感じさせない自然な口調で言い放つ。
「申し訳ないけど、そこの貴女、床を拭いてくださるかしら?」
近くにいた給仕に優雅に指示を出すと、給仕はすぐに頭を下げ、掃除に取りかかった。
セリーヌは立ち上がり、軽やかにリーゼロッテの側へと歩み寄る。
「子爵様からお見合いのお話をいただくことは、まさにこの上ない名誉でございます。しかし、娘はまだ、自分にとってどのような方が本当にふさわしいのか、見定めている最中でございます。何卒、ご理解いただければと存じますわ」
セリーヌは笑みを顔に張り付けて、ピシャリと言い切った。
ギデオンの顔が怒りに染まり、反論しようと口を開いた。
「ふざけるな! そんな――」
その瞬間、ユーリは無意識のうちにギデオンの手を強く握りしめていた。
彼の怒鳴り声が途切れ、息を詰まらせる音が広間に響く。
「ぐっ……!」
ユーリの手は見かけ以上に強く、ギデオンの顔が痛みに歪んだ。
ギデオンが激しく振り払おうとするが、ユーリの手が微動だにしない。
「な、なんだ、全く動かんぞ、どうなっておる」
まるで子供が大人に逆らおうとするかのようで、ギデオンの顔が歪み、腕を動かそうと必死に力を込めているのが伝わってきた。
ユーリは少しの力を籠めるだけ、びくともしない。
軽く手を握っただけで、ここまで簡単に相手を抑え込めるのかと驚いていた。
ギデオンの動きが激しくなるほど、その抵抗は滑稽に見えた。
それを見かねたセリーヌが声をかけてきた。
「旦那様、手をお放し頂いてもよいですか?」
ユーリはその言葉に目を向け、少し戸惑いながらも問いかけた。
「いいの?」
「はい、大丈夫です。お任せください」
彼女の自信に満ちた言葉を信じ、ユーリは手を緩める。
それを感じ取ったのか、ギデオンが腕を慌てて引き抜いた。
額には汗が滲んでおり、顔は怒りで真っ赤に染まっている。
彼はユーリを一瞬睨みつけた後、冷静を装おうと必死に呼吸を整えている。
「……まあ、それよりですぞ」
声は震えていたが、ギデオンはなんとか平静を保ちつつリーゼロッテに向き直る。
手を震わせながら、ユーリに掴まれていた腕をさすっている。
「リーゼロッテ姫。最終的に予が選ばれるべき者であることは変わらぬですぞ。誰よりもお前にふさわしいのは、この予なのですぞ」
(この男……自分のことしか見えていないな)
ユーリは内心で呆れつつも、ギデオンの態度にさらに警戒を強める。
「結婚というものは、急ぎすぎると後々お互いの間に溝を生むこともございます。娘にはそのような悲しい未来を歩ませたくはございませんの。何事も時が熟すことを待つのが最善かと存じますわ」
セリーヌの言葉は、まるで鋭い刃のようにギデオンに突き付けられた。
「グフフ……予はもう十分に待ったですぞ。今こそがその時だと思うのですぞ。予が選んでやったのだから、それで良いではないかですぞ」
ギデオンはセリーヌの言葉を無視するかのように、強引に話を進めようとする。
だが、セリーヌも微笑みを浮かべたまま冷静に反撃した。
「いいえ、貴方様にご迷惑をおかけするわけには行かないのです。レーベルク男爵領の再興が上手く行かなかった場合、領地管理怠慢罪、耕地整理放棄罪、不当苛政罪、王命背信罪が適用される可能性がありましてよ」
その瞬間、ギデオンの顔が一瞬恐怖におびえたのをユーリは見逃さなかった。
セリーヌはさらに追い打ちをかけるように言葉を続けた。
「ご存じの通り、領地管理怠慢罪だけであれば領地没収で済みますが、耕地整理放棄罪は王国からの追放、不当苛政罪は領主の死刑、王命背信罪は連座による死刑です。さすがに寄親であるリリアーナ辺境女伯の叔父にあたる方を巻き込むのは忍びありません」
セリーヌの言葉に、ギデオンは一瞬黙り込み、冷静を取り戻そうと大きく息を吐いた。
「そ、そこまで言うなら、レーベルク男爵領が復興するまで待ってやるですぞ……」
焦りが露骨に表れており、ギデオンの声はしどろもどろになっている。
「だが、覚えておくがいいですぞ。予に楯突いたこと、後悔させてやるですぞ! 予を侮ったことがどれほどの愚行だったか、思い知るがいいですぞ!」
ギデオンは顔を真っ赤にしながら、捨て台詞を吐いて大広間から足早に退場した。
その背後を、取り巻きたちが「閣下~」と慌てて追いかけていった。
「ふっ、他愛もありませんね。所詮は小物貴族」
セリーヌは誇らしげに大きな胸を張り、小さく息をつきながら勝利宣言をした。
その顔には、悪漢を成敗したことへの自信と満足感が溢れていた。
彼女の瞳は鋭く光り、どこか得意げな笑みを浮かべている。
「お母様……であれば、ユーリ様が飛び出してくる前に追い払って頂きたかったです」
リーゼロッテが肩をすくめながら、少し冗談めかして言った。
「そう言っても、物事には順番というものがあるじゃない。それに旦那様のかっこよいところも見れたのですし」
セリーヌは微笑みながら答える。
「……そうですね」
リーゼロッテも、わずかに笑みを浮かべて応じた。
「さて、皆様、少々不穏な雰囲気が漂いましたが、これも長い結婚生活の一つの試練ということでしょう。どうかお気を楽に、宴をお楽しみくださいませ」
セリーヌの柔らかな声に、戸惑っていた貴族たちは、ぎこちなく頷いて再び会話を再開し始めた。
まだ先ほどの緊張感がかすかに残っていたが、雰囲気は次第に和らぎ、笑い声が少しずつ戻っていく。
◆◇◆ お礼・お願い ◆◇◆
ここまで読んで頂きありがとうございました。
ようやく悪役っぽいキャラを登場させられました。
ユーリ君、頑張れ! 応援しているぞ!
ギデオンの悪役っぷりが見たい!
と思ってくださいましたら、
https://kakuyomu.jp/works/16818093086711317837
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