4.旦那様はインチキ商人①

 紅茶の準備が整い、部屋には仄かにバニラのような甘い香りが広がっている。

 いつもであれば、アイナは紅茶を淹れ終えると壁際で控えているのだが、今日はセリーヌの提案で彼女も一緒に席に着いている。

 セリーヌは紅茶を一口飲むと、まるで軽い世間話でもするかのように気軽に言い放つ。


「アイナ、あなたも旦那様の後宮(ハレム)に加わりなさいな」

「ぶふっ!」


 思わぬ発言にユーリが飲みかけの紅茶を噴き出し、すぐさまテーブルにあった布巾で口を拭う。


「うニャ、汚いニャ」


 彼の足元でミルクを飲んでいたコクヨウが、不満そうに顔を上げる。

 ユーリが慌てて謝ろうとする間、アイナは素早く動いて床に膝をつき、こぼれた紅茶を拭き始めた。


「アイナさん、すみません。ありがとうございます」

「いえ、大丈夫です。これは私の仕事ですから」


 ユーリは申し訳なさそうに声をかけたが、アイナは淡々とした表情で答えた。


(紅茶を口にしてなくて良かったわ……)


 リーゼロッテは静かに手元のカップをソーサーに戻し、ニコニコとユーリの慌てた様子を楽しむセリーヌを少しジト目で見やった。


(こんな状況でも、楽しそうにしてるんだから……お母様らしいわね)

「お母様、冗談が過ぎますよ」


 軽く非難を込めて言ってみたが、セリーヌは全く気にする様子もなく、楽しそうに笑っている。


「ふふ、ごめんなさいね。でも、まさかここまで驚くとは思わなかったのよ」


 彼女の笑顔には一片の悪気も感じられない。

 リーゼロッテはため息をつきながら、母のしたたかさに感心せざるを得なかった。


(はぁ、さすがですね……お母様、後宮で生き抜いただけのことはあります)


 セリーヌの笑顔と軽妙な言葉は、後宮で絶えず揚げ足を取ろうとする女性たちを巧みに揺さぶり、攻撃をかわしながら自分の優位を確立するための最強の武器だった。

 どんな場面でも、彼女は自分のペースで相手を翻弄し、場の空気を支配してしまう。

 リーゼロッテはその姿に感心しつつも、もう一度ため息をついた。


 そのとき、ふいにユーリの声が耳に届いた。


「えっ、もうガンガンいこうぜ、発動してるの?」


 リーゼロッテはそんな彼の困惑した表情を見ると、胸の奥で密かに共感が湧き上がってきた。


(無理もないわ……今日の今日で、二人目だもの。誰だって驚くわ)


 セリーヌに振り回され続けてきた自分を思い返しながら、リーゼロッテは心の中でユーリにそっと同情の手を合わせた。

 彼も、今後はお母様のペースに慣れざるを得ないだろう。

 そんなことを思いつつも、ユーリの困惑ぶりが少し微笑ましく感じられた。


「アイナももう私たちの家族同然だもの。彼女自身も了承しているわ」


 セリーヌが微笑みながら言葉を続けると、自席に戻っていたアイナはゆっくりと立ち上がり、まっすぐユーリを見つめた。

 その瞳には、まっすぐで一切の迷いを感じさせない、強い真剣さが宿っている。


「私でよろしければ、旦那様のお力になりたいと存じます」


 彼女は控えめに一礼し、スッと体を少し傾けた。

 淡い水色の髪はふわりと広がり、ツインテールに結ばれていることで彼女の可愛らしさを際立たせている。

 リーゼロッテはその姿をじっと見つめ、アイナの美しさを改めて感じていた。


(やっぱり綺麗ね……)


 肌は陶器のように滑らかで、白く輝いている。

 同じ女性として見ても羨ましいほどの端正さだ。

 エメラルドグリーンの大きな瞳はまるで静かな湖面のように澄んでいて、見る者に安心感を与える。

 着ているメイド服はフリルがたっぷりと施されており、胸元のリボンとエプロンの黒いリボンがアクセントとなっている。

 ウエストを引き締めるデザインが彼女の清楚さをさらに引き立てている。


「いや……その……」


 ユーリは視線をあちこちに彷徨わせ、困ったように何度も目を瞬かせていた。

 断りたいのか、困惑しているのか、どちらにしても彼が迷っているのは明らかだ。

 だが、最終的にアイナの真剣な眼差しを受け止めると、結局彼は小さく頷いてしまった。


(領主の命令だから、断れるわけないのに……)


 リーゼロッテは内心でため息をつきながら、彼の優柔不断さにわずかな苛立ちを覚える。

 しかし、それと同時に、彼の誠実さに心が温かくなるのも感じていた。


「……ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、無理はしないでね」


 ユーリが優しく微笑みながらアイナにそう告げた瞬間、リーゼロッテの胸の奥がドキリと跳ね、その後ぎゅっと締め付けられる感覚が広がっていった。


(どうして……こんな気持ちになるのかしら)


 自分の感情が分からないまま、リーゼロッテはそっと視線を下げ、静かに紅茶のカップに手を伸ばす。

 王国の北西、山間部の限られた場所でしか取れない貴重な香花草(こうかそう)の茶葉。

 紅茶を口に含むと、甘く柔らかなバニラの香りが、じんわりと胸に広がり、彼女の不安と戸惑いをそっと包み込む。

 紅茶の温かさが、リーゼロッテの心を静かに落ち着けていった。


「旦那様のギフトについて、もう少し教えて頂けないかしら? コクヨウちゃんを見る限り、普通の商人ギフトではなさそうですし」


 まさに疑問に思っていたことを、セリーヌが軽い調子でユーリに尋ねた。

 商人のギフトといえば、暗算や記憶力の向上が関の山。

 それが、星霊と契約できるなど、到底考えられない。


(商人が星霊と契約するなんて、聞いたことがないわ……それに、コクヨウさんはただの星霊じゃない。上級の星霊だわ。普通の商人ギフトでは考えられないことよね)


 リーゼロッテは、ユーリの隣で美味しそうにミルクを飲んでいるコクヨウに目をやった。

 その姿は一見、無害で愛らしい。

 しかし、星霊という存在自体が異常である。

 それも、上級星霊。


(旦那様のギフトは、いったいどれほどの力を秘めているのかしら……)


 ふと、ユーリを見つめると、彼はまだ無邪気な表情で紅茶を飲んでいた。

 そのあまりに普通の様子が、逆にリーゼロッテの不安をかき立てる。


「そうですね、正直に言うと、僕のギフトはちょっとインチキなんです」

「インチキ? 普通の商人のギフトとは違う、ということかしら?」


 セリーヌが目を細めて問いかけると、ユーリは静かに頷いた。


「お金さえあれば、どんなことでもできてしまうんです」


 ユーリの言葉が静かに部屋に響くと、まるで時間が止まったかのように全員が凍りついた。

 リーゼロッテもその一人である。

 その言葉の意味をどうにか理解しようとしたが、頭の中は混乱するばかりだった。


(お金さえあれば……どんなことでも……? どういうこと?)


 何度もユーリの言葉を頭の中で繰り返したが、答えは出てこない。

 対面に座っているセリーヌも同じく、困惑の色を隠せないでいる。


「えーっと……それは、どういう意味かしら……?」


 セリーヌはいつものように微笑みながら、穏やかな声でユーリに尋ねた。

 ただ、わずかに緊張した声色が、その微笑みの裏に潜む戸惑いを物語っていた。

 彼女もまた、ユーリのギフトが常識外れの力であることを感じ取っているのだろう。


「すみません、分かりづらいですよね。簡単に言うと、食料品でも武器でも、雑貨や洋服なんかも自由に仕入れられます。それだけじゃなく、魔術も使えますし、畑や工房といった施設も、欲しければ建てられるんです」


 ユーリがさらりと言い切ったが、その内容は信じられないほど突拍子もなく、理解の範囲を超えていた。


(え? 何それ、どういうこと?)


 それが本当なら、一体どれだけの力があるのだろうか。

 さすがのセリーヌも、こればかりはどうしようもなかったようで、いつもの笑顔が消えた。

 深く息を吐き、背もたれに寄りかかりながら、眉間を静かに揉んでいる。

 その表情には明らかな困惑が浮かんでいた。

 後宮でどんな権力争いにも笑顔で応じてきた母が、ここまで動揺する姿は滅多に見られない。


(お母様でも、これにはさすがに戸惑っているわね)

「魔術適正のギフトを持たない人間が魔術を使えるだなんて……本当にそんなことが可能なのですか?」


 リーゼロッテは、自分でも信じられないという気持ちを抑えきれず尋ねた。

 すると、それを聞き逃さなかったコクヨウが、軽快な調子で答えた。


「本当ニャ。信じられニャいかもしれないが、お金さえあれば、魔術も使えるし、神の力を宿すこともできるニャ。それに、空間転移や異空間収納はお金を使わニャくてもできるニャ」


 リーゼロッテは耳を疑った。

 星霊であるコクヨウが嘘をつくとは思えないが、その言葉はあまりにも非常識すぎる。


(お金さえあれば、神の力まで……? そんなこと、あり得るの?)


 言葉が喉の奥で詰まり、何も言えなかった。

 セリーヌもその場で動きを止め、顔に驚愕の色を浮かべている。


「空間魔術は、上位属性のギフトが必要ですし、膨大な魔力を有していないと扱えないはずですが……」


 アイナが驚きの声を漏らす。

 彼女もまた、現実離れしたユーリの能力に困惑しているのが見て取れた。


「商人のギフトですから、行商用に便利な能力でしょうね。手ぶらで一瞬で町に行けて、荷物も持ち運べますよ」


 ユーリは軽く笑みを浮かべ、何でもないかのように答えた。


(行商に便利……それって、そんな単純な話なの?)


 どう考えても「便利」どころではない――これは商人のギフトの域をはるかに超えている力だ。

 アイナも、どう返答すべきか迷っているようだ。


「それは……行商人からすれば、確かにインチキですね」


 困惑した表情を浮かべながら、やっとのことでその一言を呟いたが、その声には明らかな戸惑いが滲んでいた。

 リーゼロッテはアイナの反応を横目で見つつ、心の中で大きく叫びたくなった。


(インチキどころの話じゃないわよ!)


 ユーリがまるで軽々しく「便利」だと説明している力は、常識をはるかに逸脱している。


(旦那様……本当にこの力をどう使うつもりなのかしら)


 リーゼロッテはふと、ユーリの無邪気な表情を見つめた。

 彼はまるで自分の持つ力が特別でないかのように振る舞っている。

 それがまた彼女の不安を搔き立てた。

 この計り知れない力が、彼自身の手に余るものになりはしないか、と。

 彼のその無邪気な笑顔に、胸がぎゅっと締め付けられる。

 言いたいことがうまくまとまらない。

 けれど、このまま何も言わずにはいられない気がした。


「旦那様……その力、どうやって使うおつもりですか?」


 それは疑問というより、警戒の混じった問いだった。

 ユーリがこの力を領地のために使ってくれるなら、彼の力はまさに救世主となる。

 だが、もしその力が悪い方向に向かえば、誰にも止められない破滅の種になりかねない。

 ユーリは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。


「できれば、商売かなにかして領地を豊かにしたいです」


 その言葉を聞いて、リーゼロッテは胸の中で何かが少しだけ緩んだような気がした。

 コクヨウが横から軽快な声で口を挟む。


「心配いらニャいニャ。ちょっと抜けてる残念な主様だけど、三人を想う気持ちは本物ニャ」

「ちょ、コクヨウさん、残念はないでしょ」


 ユーリが慌てて訂正しようとするが、コクヨウは涼しい顔をしている。

 リーゼロッテはそのやり取りを見て、自然と肩の力が抜けていくのを感じた。

 張り詰めていた緊張が少し和らぎ、場の空気が軽くなる。

 彼の力に対する不安はまだ残っていたが、少なくとも今は――彼を信じてもいいかもしれない。


「そ、それじゃあ……聞きたいことがあるのだけど」


 突然、セリーヌが静かに口を開いた。

 普段の軽やかな母とは違い、どこか神妙な様子に、リーゼロッテは違和感を覚える。


(お母様……何を聞こうとしているの?)


 リーゼロッテが視線を向けた瞬間、部屋の空気が張り詰める。

 まるでこれから重大な話が始まるかのように、紅茶の甘い香りがかき消えるほど、静かな緊張感が部屋を満たしていった。

 誰もが次に語られる言葉を待ち、息を詰める――まさに嵐の前の静けさのように。

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