3.旦那様のお仕事 ①

「落ち着かれましたか?」


 コクヨウを撫でて安堵するユーリに、セリーヌが優しく話しかけてきた。


「申し訳ありません。あまりに動揺してしまって……」

「もう撫でるのは十分ニャ。これ以上は毛が抜けてしまうニャ」


 コクヨウはため息をつきながら、撫で続けるユーリに軽く抗議する。


「アイナ、紅茶を用意してくださる?」


 セリーヌが入り口で控えていた侍女に声をかけると、アイナは一礼して紅茶の準備に向かった。


「……どこからお話しすればよいかしら。そうね、私がもう淑妃ではないことから説明しましょうか」

「はい、ぜひお願い申し上げます」

「そんなに緊張しないでくださいな。これから私たちは夫婦になるのですから」


 夫婦になる――その言葉が甘く響き、ユーリの頭がショートする。


「は、はい、全力で頑張ります」


 無意識にそう口にすると、セリーヌは優雅に微笑み、話を続けた。


「新国王が戴冠されたのはご存じかしら?」

「はい、一年前に前国王が亡くなられてから、喪の期間が終わり、第一王子が正式に新国王に即位されたと聞いております。……その、大丈夫ですか?」

「ふふ、ユーリ様はお優しいのですね。ありがとうございます。もう一年経ちましたから、大丈夫ですわ」


 セリーヌは穏やかな笑みを浮かべて答えた。

 その言葉には悲壮感はなく、むしろ悲しみを乗り越えた女の強さが滲んでいる。

 前世の自分なんて、失恋の傷を何年も癒せずにいたというのに……。


(大丈夫って言ってるけど、一年で忘れられるはずないよね……。これからは、自分が守ってあげないと……)


 ユーリはそう決意しながら、セリーヌとリーゼロッテの二人に目を向けた。


「オルタニア王国では、前国王の側室がどうなるか、ご存じですか?」


 セリーヌが静かに問いかけると、ユーリは少し考えた後、首を横に振った。


「いいえ、特に気にしたことはありませんでしたが、どうなるのでしょうか?」

「王子を産んだ妃は離宮に移りますが、それ以外の側妃は修道院に入るか、自分の領地に戻るか、新しい領地を与えられるかを選ぶことができるのです」


 セリーヌの説明に、ユーリの胸が「ここでも不要になった者は追放されるのか」と、チクリと痛む。


「新国王となった第一王子の母は貴妃様ですよね。王妃陛下には子がいなかったと聞いていますが、その場合はどうなるのですか?」


 ユーリが尋ねると、セリーヌは穏やかに微笑んで答えた。


「王妃陛下はこれからも政治を補佐されるので、前王太后陛下と共に同じ離宮に移られますわ」

「なるほど。そうすると、セリーヌ様がレーベルク女男爵になられたのは、新しい領地を選ばれたということですか?」


(まさか、自分からあの借金だらけの領地を望んだのだろうか?)


 ユーリはセリーヌを見つめながら、少し緊張した様子で尋ねる。

 セリーヌは一瞬視線を外し、そして再び微笑んだ。


「ええ、リーゼと離れたくなかったので。でも、与えられたのは以前の領主が処罰された後、空白のままになっていたレーベルク男爵領でした。多額の借金を抱えた領地ですが、何とかしてみせますわ」

 セリーヌの言葉に、ユーリは驚きを隠せなかった。

「そうだったのですね……。ですが、陛下からそのような領地を与えられるなんて、少し厳しい処遇のように思えますが……」

「ふふ、陛下ではなく、王太后様からのご配慮でしょうね。王妃教育で領地経営は学んでいますし、ユーリ様と一緒なら、きっと乗り越えられると信じていますわ」


 セリーヌは優しく微笑みながらも、その声には確かな決意が込められている。


(ご配慮というより、嫌がらせだよね……)


「でも、前領主は借金を返済できずに厳しい処分を受けたと聞いていますが、大丈夫ですか?」

「そうですね。税収は赤字、人口は前代官の厳しい徴税で減少、魔獣被害で食料不足と防衛施設の修繕費、騎士団の軍事費の増加、そして初代勇者の後宮施設の運営費……。この中で一番の金食い虫は後宮ですのよ」


 セリーヌは困ったように呟いた。


(いやいやいや、お金がない、人がいない、食料が足りない、なのに魔獣被害が多くて、固定資産が多いって、無理じゃん……)


 ユーリは頭の中で、キャッシュが流出するだけで、流入の要素がないことに絶望する。



「お母様、税収や魔獣の問題は仕方ないとして、まだあの初代勇者様の遺産を保管しなければならないのですか?」


 手を上げて疑問を口にするリーゼロッテに、ユーリも耳を傾ける。


「帝国と教会から、あの遺産の保全を命じられているからよ」


 セリーヌは少し苦笑しながら答えた。


「それは、初代勇者様が魔神を討伐し、帝国の初代皇帝になったからですか?」


 リーゼロッテがさらに問いかけると、セリーヌはゆっくりと頷いた。


「そうなのよ。帝国と教会からの厳命だから、どうしようもないわ……」

「帝国と教会ですか……確かに、それは無下にできませんね……」


 ユーリは考え込む。

 帝国はこの大陸の西の大部分を治める巨大な国家であり、オルタニア王国は多くの物資を帝国に依存しているため、頭が上がらない。

 もう一つの星導教会も、貴族のギフトを管理し、大陸全体で絶大な勢力を持つ存在である。


(これは……一筋縄ではいかない問題だな……)


 ユーリは眉間に皺を寄せながら、深く考え込んだ。


「ユーリ様、大丈夫ですよ」


 セリーヌが優しく微笑みながら、ユーリの頬にそっと手を添えた。


「せ、セリーヌ様……」


 驚いて彼女を見つめるユーリ。

 その戸惑いを無視して、セリーヌは穏やかな声で促す。


「じっとしていてくださいね」


 セリーヌの柔らかな声に導かれるように、ユーリは目を閉じ、彼女の手の温もりに身を委ねた。

 心が落ち着いていくのを感じる。


「ふふ、ユーリ様の頬はとても柔らかくて、撫でると気持ちが安らぎますわ」


 その言葉を聞いた瞬間、ユーリは顔が熱くなり、羞恥心が一気にこみ上げてきた。


「お、お母様、それぐらいになさってください。ユーリ様も困っているようです」

「ふふ、そうね、ごめんなさいね。話を続けましょうか」


 セリーヌは名残惜しそうに手を離し、話を再開した。

 ユーリはセリーヌの手が離れた瞬間、ほっとする一方で、一抹の寂しさが胸を吹き抜ける。

 異性の女性に顔を撫でられるなど、前世を含めても初めての経験である。

 もう少しあの温もりが続けばと思いつつも、これ以上は耐えられなかっただろう。


「どこまで話しましたかしら……。ああ、そうそう、領地を賜ったのはよいのですが、領地が領地ですので、陛下にご相談したところ、巡り巡って王太后陛下からユーリ様を婿に迎えるように、という命が下されたのです」

「王太后陛下が、ですか?」


 ユーリは驚きの声を上げた。

 自分がそんな高位の人物の関心を引いていたとは思ってもみなかった。


「はい、ユーリ様が社交界で評判になっておりましたので、王太后陛下がレオニダス卿にお声をかけられたとお聞きしております」

「なるほど、それで私のような残念貴族が選ばれたのですね。本当に申し訳ありません」


 セリーヌとリーゼロッテが、驚いた表情でユーリを見つめた。


「? どうかされましたか?」


 その視線に気づいて首をかしげる。


「いえ、普通なら怒るのではないかと思っていたのですが……」


 セリーヌの言葉に、ユーリは一瞬考え込み、そして静かに答えた。


「そうですか? 貴族なのに商人のギフトしか授からなかったと言われれば、そう思われても仕方ないかなと思いますよ」


 その落ち着いた態度に、セリーヌは感心したように頷く。


「随分と達観していらっしゃるのね……」

「あはは、そ、そうですかね。リーゼロッテ王女も、私には十分に大人びて見えますが」


 ユーリはリーゼロッテに目を向け、彼女の穏やかな表情を見ながら、ふと義妹のことを思い出した。

 義妹も同じ年頃だったが、まだ子供っぽく、よくユーリに甘えてきては無邪気にちょっかいを出していた気がする。

 それに比べて、リーゼロッテは驚くほど大人びて見える。


(星辰の儀の後、義妹と会うことを禁じられているけど、彼女は元気に過ごしているだろうか……)


 ふとそんな思いが頭をよぎり、ユーリは遠い目をした。

 セリーヌはそんな彼の様子に気づきながら、優しく声をかける。


「リーゼは一応、王女でしたから」

「お母様、“一応”は余計ですわ」


 リーゼロッテが少しムッとした表情で母をたしなめる。

 セリーヌは軽く笑って肩をすくめた。


「そうね、でも、申し訳ないと言えば、私こそ申し訳ないわ」

「? なぜですか?」


 ユーリはその言葉に首をかしげた。

 セリーヌは少し目を伏せながら、控えめに答える。


「だって、ユーリ様は初婚でしょう? 私は前国王の側室で、こんなに大きな娘もいて、もう若くもない中古の女ですから……」


 その言葉に、ユーリの胸がチクリと痛んだ。


「何を仰るんです。セリーヌ妃は女神のように美しいじゃありませんか。全然申し訳なくなんて思いませんよ。ぜひ、僕と結婚してください」


 ユーリの言葉に、セリーヌは驚き瞳を潤ませ、一筋の涙が静かに流れる。


「本当に? 私でいいの?」


 その微笑みの中、その唇がわずかに震えていた。


「はい。一緒にレーベルク男爵領を発展させ、シュトラウス家を盛り立てましょう。僕も力を惜しみません。何でも言ってください」


 安心させるように言うと、セリーヌの頬がほんのりと赤く染まる。


「ありがとうございます。では、旦那様とお呼びしても?」


 ユーリが「もちろん」と答えると、不安な気持ちはどこかへ飛んでいったのか、彼女は女神のように微笑んだ。

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