2.レーベルク女男爵

 準備を終えたユーリは、数人の使用人に見送られながら迎えの馬車に乗り込んだ。

 ふと、母の声が聞こえたような気がして振り返ったが、家族の姿はどこにも見当たらない。

 父はすでに仕事に出ているので当然としても、仲が良かった義妹と実の母親の姿が見えないことに、ユーリの胸は締め付けられる。


(本当に家から追い出されるんだな……)


 胸がチクリと痛み、鼻の奥がツンとした感覚に、涙をこぼさぬよう歯をぎゅっと噛みしめた。


 馬車に揺られること数分、ふと気が付くと、王宮の巨大なシルエットが徐々に近づいてくる。


(あれ? 女男爵の館なのに、王宮側なの?)


 オルタニア王国では、爵位に応じて王宮から離れた場所に邸宅があるはずなのに、宮中伯であるレオニダス家から離れるどころか、王宮へ向かっていることに、ユーリの心にじわじわと不安が広がっていった。

 ユーリの不安をよそに、馬車はそのまま進み、王宮の城門をくぐって中へと入っていく。


(えっ? まじ? 何で王宮?)


 馬車が止まり、扉が開くと、迎えに来ていた侍女に促されるまま、王宮の中へと足を踏み入れた。

 ピカピカに磨かれた床、レオニダス家では見たこともないような豪華な装飾品の数々。

 前世で訪れたベルサイユ宮殿を思い出すが、まさにそれと同じである。

 しかし、貴重品がむき出しのまま置かれており、手を伸ばせば触れられるその近さに、小心者のユーリは思わず身を硬くした。


(こんな所に居ていいのかな……)


 迷路のように入り組んだ通路を抜けると、侍女が一つの扉の前で足を止めた。


「こちらの部屋でお待ちください」


 部屋に案内されると、侍女は無言で一礼し、静かにドアを閉めて立ち去った。


 部屋に一人残されたユーリは、広がる静寂の中で、妙な不安に包まれていた。

 豪華な調度品の華やかさが、かえって心の落ち着きを奪っていく。


「やばい、どうしよう……」


 落ち着かない気持ちで部屋の中を見回した後、中央に置かれた丸テーブルの椅子に、ためらいがちに腰を下ろした。

 前世ならスマートフォンで時間を潰せたが、この世界にはそんな便利なものは存在しない。

 手持無沙汰になったユーリは、部屋の静けさに耐えかねて、自分の影に向かって話しかけた。


「コクヨウさん、すみませんが、淋しいので出てきていただけますか」


 その言葉に応えるように、影からぬるりと動物の前足が伸びてきて、黒猫が静かに姿を現すと、そのまま二足で立ち上がった。


「淋しいくらいで吾輩を呼び出すとは、ほんとに星霊使いが荒い残念な主様ですニャ」

「そんなこと言わないでよ。いきなり王宮に連れてこられて、こんな部屋に監禁されて、ほんと困ってるんだから」


 ユーリがそう言うと、コクヨウは「仕方ないニャ」と呟きながら、机に飛び乗った。

 香座座りをするコクヨウの頭をそっと撫でると、気持ちよさそうに目を細め、静かに喉を鳴らす。


「あ~、癒される~」


 ユーリは頬を緩ませて呟いた。

 思っていた以上に緊張していたようで、コクヨウを撫でるたびに、幸せな気持ちがじんわりと沸き上がってきた。


 二本足で人のように動け、言葉を話すこの黒猫は、普通の猫ではない。

 この世界では星霊と呼ばれ、自然の精霊や魔獣、または強い想いが神化した存在であると考えられている。

 普段は人の前に姿を現すことはないが、契約を交わすことで召喚が可能になるのだ。

 商人ギフトしか持たないユーリが、なぜ超自然の星霊と契約ができたのかと言うと、それこそ『インチキ商人』の力である。


 ユーリは『インチキ商人』というギフトを授かって以来、その能力を自分なりに探ってきた。

 調べた結果、端的に言えば、金さえあれば、ほぼ何でも実現できる力だということがわかった。

 チートと呼ぶ方が分かりやすいかもしれないが、まさに『インチキ』と叫びたくなるほどの力である。


 一つは、万能商品と呼ばれる能力で、前世で見覚えのある商品だけでなく、建築物や農園などの施設、さらにはファンタジー世界の魔法アイテムや武器、そしてこの世界では用途不明の宇宙戦艦まで、あらゆる世界の商品が購入できる能力である。

 他にも、瞬間移動や異空間倉庫、ポータブルショップに瞬間配送、全言語理解など、商人としてはもちろん、戦闘でも有用な能力が目白押しであった。

 さらに驚くべきは、魔力を必要とせず、お金さえあればあらゆる神の力を一時的に借りることができる能力、どんなニーズにも応える商品を創り出す能力、あらゆるモノを元の状態に修復する万能修理、さらにはあらゆるモノを改造できる魔改造の能力まで備わっていることだ。


 とはいえ、強力な能力ほど金額が高騰するため、今の自分が使える力には限りがある。

 貯めていた貯金でケットシーと呼ばれるネコ型星霊と契約したため、持っているお金と言えばクラウン金貨四枚(シリング銀貨八十枚分、日本円で約三万五千円)だけである。

 小麦の白パンが一個で五オボル銅貨であり、クラウン金貨四枚だと百九十二個買うことができる。

 そんなお金では、できることは殆どなく、万能商品で日本の商品を懐かしむぐらいしかできない。


 瞬間移動や異空間倉庫の能力は無料であったことから、過去に訓練で行った森に瞬間移動して、ひたすら魔獣を狩って倉庫に貯めていた。

 異空間倉庫に女神からの転生特典として、神霊桃という美味しい黄金の桃があったので、魔獣討伐の間に小腹が空いては食べていたら、今では疲れ知らずの健康体になってしまった。

 コクヨウ曰く、食べ過ぎだそうである。


 ユーリがコクヨウに癒されていると、扉をノックする音が響き、メイド服を着た侍女が部屋に入ってきた。


「えっ、黒ネコ?」


 侍女が立ち止まり、驚いた声を上げる。

 その声に反応して、後ろから上品なドレスをまとった、まるで女神のような美しい女性が現れ、興味深げに部屋の中を覗き込んだ。


「まぁ、なんて可愛らしいネコちゃん」

「お母様、ネコさんがいるのですか? 私にも見せてください」


 続いて、その後ろから妖精のような美少女が顔を出した。


「真っ黒なネコさんがいますね。驚きました」


 美少女は口に手を当て、驚きの表情を浮かべた。


「奥様、お嬢様、他の方々に見つかると面倒なことになります。どうぞお早くお部屋の中へ」

「そ、そうね」


 二人が急いで部屋に入ると、侍女は急いで扉を閉めた。

 女神と妖精に見とれていると、女神が微笑みながら近づいてきて、美しい声で話しかけてきた。


「そのネコちゃんは、ユーリ様のペットですか?」


「は、はい。黒曜石のように美しかったので、コクヨウと名付けました」


 ユーリは、名乗ってもいないのに自分の名前を呼ばれたことに気づかないほど、緊張しながら答えた。


「吾輩はペットではないニャ。契約星霊ニャ」


 ユーリがコクヨウの頭をガクガクと撫でていると、「痛いニャ」と不満げに言ってユーリの手を払いのけ、憮然とした表情で訂正した。


「「「えっ」」」


 見事に三人の驚いた声が重なった。


「ユ、ユーリ様は、星霊様と契約されているのですか?」

「あ、まぁ、はい、いろいろと事情がありまして……」


 ユーリは照れ隠しに頬を掻きながら、女神に答えた。


「あ、あの、コクヨウ様、撫でさせていただいてもいいですか?」


 妖精のような美少女が、興奮を抑えきれない様子で尋ねてくる。


「許すニャ。優しく頼むニャ」


 そう言って、コクヨウはゴロンとお腹を見せて横になった。

 美少女がそっと近づきお腹を優しく撫でると、コクヨウは気持ち良さそうに喉を鳴らした。


「わ、すごく気持ちよくて、可愛いです!」


 羽ばたいて飛んでいってしまいそうなほど、美少女が喜んでいる。


(いいな~。自分も膝枕されて頭を撫でてもらいたい……)


 ユーリは、幸せそうなコクヨウの姿を見ながら心の中で呟くのだった。


「あの、奥様、お嬢様、お楽しみのところ恐れ入りますが、ユーリ様にご挨拶をされるのがよろしいかと存じます……」


 後ろで見守っていた侍女が、申し訳なさそうに声をかけてくる。


「あら、そういえばまだご挨拶しておりませんでしたわね。あまりにもネコちゃんが可愛くて、すっかり忘れてしまいました。私はセリーヌ・フォン・シュトラウスと申します。よろしくお願いいたします」


 セリーヌが優雅なカーテシーをしながら軽く頭を下げた。


(ん? セリーヌ? どこかで聞いたことがある名前だな……)


 セリーヌといえば、前国王ジークハルト・フォン・オルタニアの側妃の一人であり、最も寵愛を受けた女性である。

 淑妃の位を授かった彼女は、一児の母でありながら、若々しく、まるで慈愛の女神のように美しい。

 黄金色に輝く長い髪は柔らかなウェーブを描き、瞳はサファイアのように美しい蒼色をしている。

 その淑やかで麗しい姿は、二つの果実がたわわに実ることでさらに強調され、まさにオルタニア王国の至宝である。


「私もネコさんに夢中になってしまい、失礼いたしました。私はリーゼロッテ・フォン・シュトラウスと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」


 先ほどまでコクヨウを撫でていた美少女も、美しいカーテシーをしながら軽く頭を下げた。


(げっ、ということはこの妖精が王女殿下?)


 彼女もまた非常に有名な人物だ。

 何と言ってもセリーヌ妃の娘であり、オルタニア王国の第一王女なのだから。

 リーゼロッテは、母親譲りの黄金色の長い髪をサイドでまとめ、琥珀色の瞳は宝石のように美しく輝いている。

 その姿は妖精姫と称されるほど清楚で可憐であり、少女から大人へと成長しつつある彼女の身体は、淡いピンクのドレスに包まれている。

 豊かに膨らんだ胸元はレースで縁取られ、雪のように白い肌がその美しさを一層際立たせている。



「ユーリと申します。家名を名乗ることが許されておらず、失礼いたします。私はレーベルク女男爵様に婿入りするため、ここで待たせていただいているのですが、お二人はどのようなご用件でこの部屋にいらっしゃったのでしょうか?」


 ユーリは、なぜ目の前に淑妃と王女殿下がいるのか理解できず、混乱した頭で何とか言葉を紡いだ。


「ふふふ、そのレーベルク女男爵が私ですよ、旦那様」

「え?」


 セリーヌの言葉が理解できず、ユーリは目をぱちぱちさせながら、間の抜けた返事をした。


「うふふ、驚かせてしまったかしら?」


 セリーヌは口元を手で隠し、優雅に微笑んだ。


「お母様……お戯れが過ぎますよ。驚くに決まっているではありませんか」


 リーゼロッテはため息をつきながら、セリーヌに向かって言った。

 二人のやり取りを耳にしながら、ユーリは夢を見ているのではないかと、自分の頬をつねってみた。


「痛い……じゃあ、これが現実? 本物の淑妃様と王女殿下?」

「もう淑妃ではありませんが、本物ですよ」

「私ももう王女ではありませんが、本物ですよ」


 笑顔で答える二人の顔を交互に見つめながら、ユーリは信じられない思いで、もう一度自分の頬を抓るのであった。

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