第68話 トキト対ヘクトアダー
ふいに、アスミチの顔にバノの手が近づいてきました。
「すごい汗だな、アスミチ。髪の毛が張りついている」
先ほどのバノと同じで緊張や使命感が、アスミチに汗をかかせたのでした。
バノは指先でアスミチの髪の毛を持ち上げて汗を指の腹でぬぐってくれました。ハンカチを使うでもなく、魔法で汗を消し去ります。
魔法の光がバノの細い指先にふわりと生じました。汗が細かい無数の球体となって、空気に溶けて消えました。
――バノの魔法、すごくきれいだ。
そんなこと一瞬だけ思ったアスミチですが、すぐに我に返ります。
「ミッケンは?
バノが、笑顔でアスミチを見ています。そのバノの顔が、目だけで下の方を示してきたので、アスミチがそちらを見ると、奇跡が実現していました。
ミッケンはうっすらと呼吸を取り戻していました。
苦労が報われたのでした。
「ピッチュのほうもだいぶ意識が戻ってきたようだ。私たちは
「逃げるっていう意味だね、逐電」
「君はほんとうに賢いな、アスミチ」
頭を手のひらでぽんぽんとされました。
かなりの子どもあつかいでした。見た目に年が近いバノにそうされるのはアスミチにとって本来は嫌なことかもしれませんでした。が、実際には大人顔負けのバノにそうされても、少しも嫌ではない自分がいました。
――この女の子は、ほんとうにすごく、たくさんのことができる。いろいろなことを知っていて、しかも決意を行動に移すのにためらわない。
ずっと年上のようにも
それから自分を振り返ってしまうアスミチです。
――あまりにもかけ離れていて、ぼくじゃ釣り合わないや。
このときは、なぜそんなふうに思ったのか、アスミチは自分でもわかっていませんでした。
バノはその瞬間に心のスイッチを切り替え、
「気密モードに設定しておく」
と言い、なんらかの操作をしました。それからミッケンに語りかけをしていきます。すでに何度目かになりますが、今度は彼の意識に届く可能性が高いでしょう。
「ミッケン、目を覚ませ。同意しろ。お前は蘇生する。目覚めたら任務を果たせ。ウィルミーダを操縦して目の前のヘクトアダーを打ち倒す。お前の任務だ。いいな」
ミッケンの意識が戻ってきたようでした。
彼は小さな声を出しました。枯れ葉がこすれるような弱々しい声でした。
「あえ? デンテファーグさま……? 任務、了解です……」
「バノ、ぼくたちは戻っていいんだね?」
とアスミチが小声で問うと、バノはうなずいて即座に身を
「ああ、元の隠れ場所に戻ろう」
二人がパイロットキャビンから身を乗り出します。アスミチは、バノの前に出て地面に下りました。ここくらいは自分が先に、と思ったのです。
シャツでごしごしと手をぬぐって差し出すと、バノはおかしそうに笑いながら、その手を取って下りてきました。
――笑ったけど、なにか作法と違うことをしちゃったのかな。
とアスミチは不安になりながらも、走り出すバノの背中を追いかけます。
――バノに引き離されるもんか。背中をぼくは追いかけていく。
ウインの言葉が思念となって跳んできたのはそのときでした。
「気をつけて、バノちゃん、アスミチ!」
パルミとカヒの声も続きます。
「頭下げて、早く早く!」
「飛んでいくから、当たらないで!」
三人はなにかを必死に訴えているようです。頭を下げろ、飛んでいくなにかに気をつけろ、ということを言いたいのはわかりました。
バノが前かがみになり、頭を両手で覆いました。アスミチも同じ姿勢を取ります。
「いったいなんだ?」
とバノがウインたちに言うが早いか、答えよりも先に物体が二人の頭上を飛んでいきました。
――ドンは動けないはず。
――それに空も飛ばないはず。
――ドンより小さい何かが飛んでいった。
それだけわかりました。
巨大な質量が、宙をほとんど真横に近い軌道で飛び去っていったように思われました。アスミチは大型トラックの高速で行き交うそばに立っていたような感覚をおぼえます。風圧で髪の毛が引っこ抜かれるかと思うほどの質量が通過していったのです。
「ぎゃああ、なんなの、今の!」
アスミチが見たものの答えは――
トキトがそのときどうしていたか、先に話しておきましょう。
バノとアスミチが、命を停止してしまったミッケンの蘇生を始めたころ、トキトは大きな
茂みの中でアダーの大きな口と、鋭い尻尾にはさまれて、厳しい戦いを強いられていたのです。
もしも仲間のうち、トキトではない人間が同じ立場だったとしたら、一分とたたずにやられてしまっていたのに違いありません。
仲間のうちでも群を抜く敏捷性の持ち主、トキトだからこそ、ぎりぎり攻撃を受けずに逃げ続けることができたのでした。
しかし、敵は六十メートルのヘビの姿をした怪物です。
トキトとの体格差は四十倍以上。
そればかりか、ヘクトアダーは頭と同じくらい尻尾をうまく使います。二対一で戦うようなものでした。
ヘクトアダーは尻尾で地面を整地するような攻撃を何度か交えてきました。
ヘクトアダーは頭や尻尾を直線で前に出す、「突き」の攻撃をくり返しています。
これまでは大きな樹木を周りこんでアダーの視界を
よく見えなかった地面のくぼみに脚を取られて、トキトは転びはしなかったものの、動きを止めてしまいました。
アダーは尻尾と頭とで十字になるような角度からトキトを襲います。
トキトは絶対に逃れることができないタイミングだとわかりました。そこで、
――俺が、逃げようとすると思ってるだろ。まさか、そっちに飛びかかっていくとは思ってもいないだろ、ヘビ!
心で強く叫んで、トキトは襲いかかりました。ヘクトアダーの頭部に向かって。
金属棒をわざと太陽の光に当たるように高く掲げて、それをいかにも顔面に突き刺すという姿勢で、体ごと跳ねてアダーの目の前に飛び出します。
アダーは、大口を開けてトキトを食ってやろうとしているところに、トキトのほうから出てきた形になりました。
もしもウインやカヒが見ていたら悲鳴を挙げて止めたことでしょう。止めても間に合わなかっただろうことは別にして、必死に止めようとしたに違いありません。
トキトが食べられてしまう、と誰もが思う状況でした。
しかし、ヘクトアダーはこの予想もしなかったトキトの襲撃に、口を閉じて頭をパッと引っこめました。
――賭けは成功したぜ。ヘビのやつ、さっきの金属棒をくらった痛みを思い出したな?
予想外の反撃を受けて、ヘクトアダーはとっさにトキトを避けてしまったのでした。先ほど口の中で暴れられて、牙まで折られた痛みが、瞬間よみがえったのに違いありません。
ドラゴンに近い生き物とはいえ、下劣な種です。自分の中にある恐れに、このときまで気づいていなかったのでしょう。
しかし、ヘクトアダーは本来トキトを恐れる必要などなかったのです。刺されるのが嫌なら毒のブレスもあり、または丸呑みにするのではなく頭をぶつけて押しつぶしてもよかったのです。あるいは半身でトキトの攻撃を受け止めてから尻尾でとどめを刺すのでもよかったはずでした。
とっさのことに、ヘクトアダーは判断ができなかったのです。
ふたたびトキトが茂みに飛びこみ、視界から消えました。
ヘクトアダーは怒り、今度は口を開かずに頭と尻尾で押しつぶす動きでトキトを追い詰め始めます。
トキトの頭の中に、バノとアスミチの会話が思念で伝わってきます。
どうやら、ミッケンの心臓が動き、呼吸が戻ったようでした。
あと少しで、もしかしたらウィルミーダにバトンタッチして、この厄介な亜竜の相手をしてもらえるかもしれません。
――それにしても、俺の体力がまだ
トキトはどこか冷静な頭の隅で、そんなことを考えてもいました。
地球では、こんなに体を動かしたら、とっくにスタミナ切れを起こして動けなくなっていたはず。それが、まだ、機敏に動いて逃げ続けることができています。
――魔法があるわ、体は頑丈になるわ、すごい世界に来ちゃったんだな。
じわっと感慨に胸が熱くなるトキトに、ヘクトアダーの尻尾が襲いかかります。すんででよけると、ゴッと地面がえぐれて木の根が何本か持ち上がってしまいました。
――おまけに、こんなにでっかいヘビと戦うハメになってるし!
トキトは、今は引き返すタイミングを考えています。ミッケンが復活したからです。ここから逆方向に動いて、ヘクトアダーがウィルミーダに近づくほうが、助かる可能性が高い。そう思えたのです。
ウィルミーダの内部での会話では、ミッケンがたしかに任務を了解したと言っていました。ハートタマが伝えてくれていました。
――走るなら、茂みから出て、岩の多いところだよな。
岩の露出が多いところを走り、攻撃を避けるときに茂みに飛び込む。こんなのがうまくいくかどうかわかりません。けれど、トキトは茂みから飛び出して走りました。
ヘクトアダーは全力で走り出したトキトに尻尾と頭との二面攻撃をやめ、自分も頭を前にして追いかけ始めます。
「トキトも、避けて、頭、低く!」
ウインの思念が流れ込んできました。
バノとアスミチへの呼びかけの直後でした。
巨大な質量が、湖のほうから飛んできました。
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