第67話 がぶり ぎゃん

 ミッケンの体は、力なくうなだれたままでした。

 そして、アスミチの解毒げどく魔法の力を素通しにしています。


 ――つまり、ミッケンは、命を失っているということを意味しているのじゃ……。

 ――ミッケンはもう死んで……いる?


 アスミチはまだ九歳で、身近な人の死を経験したことがありません。突然、目の前に迫ってきた本物の“死”に、激しく動揺どうようします。

 ――バノは、ミッケンが死んでいることに気づいていないの? いや、気づいていないわけがない。

 嫌なねばつく汗が吹き出してきた感じがしました。虫が背筋を上下に何度も往復おうふくする心地がしました。

 アスミチの懸念けねんは、あっさりと肯定こうていされます。バノの次の言葉によって。

「さて、次はミッケンの蘇生そせいだな……やるよ、アスミチ」

 バノは、ふだんどおりの口調くちょうでアスミチに告げました。

 ――蘇生、って言った。生き返らせるっていう意味だ。

 覚悟だけが強く感じられます。その言葉はハートタマの思念伝達で、仲間にも共有されました。

 近くでヘクトアダーの追跡ついせきのがれているトキトは衝撃しょうげきを受けた声を返します。

「おう、蘇生を頼むぜ、二人とも……って、蘇生? ミッケン、死んでるのか?」

 声の調子がたちまち暗くなるのがわかりました。

 トキトが今、おとりとなって走っているのはミッケンを救い出すためです。メルヴァトールの戦闘力でヘクトアダーと戦ってもらうためです。もしミッケンが生きていなかったら、じきにトキトがヘクトアダーの餌食えじきにされてしまうでしょう。残りの仲間も、逃げられないことは疑いようもありません。

 バノは冷静に答えます。

「トキト、無事だな。よかった。ここまで想定通りだ。ミッケンは、心肺しんぱい停止ていししている。だが、地球の医学でも短時間の心肺停止から蘇生した例はいくらでもある」

「できるのか、さすがだぜ、バノ!」

 トキトの声色は、もう衝撃から立ち直って明るさを取りもどしています。

 アスミチは心の中で、まだ事態の恐ろしさにれつつも、べつの気持ちがさらに強まっているのを自覚しました。

 魔法の不思議さに、心を強くきつけられていたのです。

 バノが「始める。よく見て聞いているんだぞ、アスミチ」と告げて魔法を使います。 

 毒を分解します。そうしながら、バノはミッケンに呼びかけます。

 アスミチはこのとき優秀な生徒でした。バノの説明を完全に理解して、「呼びかけ」という行動の意味がわかったのです。

「ミッケン、聞こえるか、返事しなくてもいい。ミッケン、私だ、デンテファーグだ。治療に同意しろ。毒を分解して心臓と横隔膜おうかくまくを動かしたい。お前を生きさせたい。意識がわずかでもあるなら同意しろ」

 ミッケンからの返事はなく、指先ひとつ、まぶたのまたたきすら反応が返ってくることもありませんでした。つらいことですが予想通りです。

 けれど、バノは今の言葉を繰り返すことを忘れませんでした。魔法治療を少し進めるたびに呼びかけています。

 ――呼びかけは必要だ。ミッケンの意識がもしも戻ったらレット魔法として作用するようになる。

 アスミチは正確に、バノの意図を読み取ることができました。

 ――バノが、ウインのあしを治したときと同じだ。本人が望むことを補助するなら、バノやぼくの魔法がずっと効果を高めるはずだ。

 ちらりと、自分の顔のすぐ近くにあるバノの横顔を見ました。

 くすんだ金色のくせっ毛が、バノのせまいひたいにはりついています。走ったための汗ではありません。意識の集中と、彼女の本気の心臓の鼓動こどうが、全身にエネルギーを送りこみ、額に汗を浮かばせているのです。

解毒げどくはできたと思う。私は人工呼吸に入る」

 そう言うと、バノはミッケンの鼻を指でぐいっとはさみ、つまみます。その動作にもためらいはありません。鼻孔びこうをふさいでおいてから、物言わぬ紫色のくちびるに自分の口を当てました。唇ですき間なくミッケンの口をぴったりとふさぎます。

 二回、息をミッケンの肺に送りこむ人工呼吸をしました。つぎにふたたび先ほどの言葉をミッケンに聞かせます。返事を待たずに、解毒と蘇生のための魔法をほどこし始めます。

「ぼくは、バノが呼びかけているあいだ、手足の解毒をしたほうがいいのかな」

 アスミチが言うと、

「いや、そっちはあとからでいい。男と見込んでアスミチに頼みがある」

 バノと視線が合いました。

 知的な両のひとみが、まっすぐアスミチを見つめていました。

「なんでもするよ、バノ。言って」

 アスミチはその真剣さに答えたい思いでした。ミッケンの死に受けた動揺も、バノの顔を見たら、遠い過去のことのように引っこんでいきました。

 バノがむずかしい用語を使いました。

胸骨きょうこつ圧迫あっぱくを、頼みたいんだ、アスミチ」

「それって……」

 アスミチは聞いた覚えがありますが、具体的に胸骨圧迫がどういうものか、きちんとした知識はありませんでした。

「心臓マッサージとも言う。魔法ではなく、君の肉体の力を使う。胸の骨を押しこんで心臓を動かすんだ」

 その言葉はパイロットキャビン内でエコーとなったようでした。

 ――「胸の骨」を「押しこむ」?

 ――「心臓」を「動かす」?

 意味はわかるはずなのに、飲みこめないままアスミチは頭の中で反射する言葉に気を取られています。

 ――ぼくが、誰の、心臓を動かすんだ、って?

 わけがわからないことを言われていると感じました。現実のこととはとても思えず、言葉がアスミチの理解力の表面をすべって消え去っていきます。

 バノが怖いくらいににらんできています。そしてもう一度言いました。

「心臓を、動かす、んだ」

 意味もなく、アスミチは言われた言葉を口で反芻はんすうしました。

「心臓、動か、す……」

 バノがまぶたをカッと見開き、獲物を襲う肉食獣のような目になりました。恐ろしい黄色い光を放っているようにアスミチには見えました。そう思ったとたんにバノはアスミチの額に自分の頭をぶつけてきました。ごちんとおでこ同士が衝突しょうとつします。

「いたっ」

 さらにアスミチの鼻の頭に歯の先でかみついてきました。

 がぶり。

「ぎゃん」

「目が覚めたか、アスミチ。今、君がやるんだ」

 獣がうなるときのように歯をむき出したバノがいました。

 バノは魔法を使っているので、手が空いておらず、アスミチに頭突きとかみつきをしてきたもののようでした。手が使えたらデコピンやビンタが飛んできたのかもしれません。

 ――怖い、バノの顔。

 ――じゃない! 真剣なんだ。命がけなんだ!

 たしかに、目が覚めました。今度は意味をかみしめながら、しっかりと口に出します。

「なんでもする。するよ、胸骨圧迫する」

 バノが恐ろしい顔をすっと引っこめ、笑顔を返してきました。

「教える。まずはミッケンの腹に、腰を浮かせてまたがる姿勢に……」

 アスミチはバノの指示にしたがいます。 狭いパイロットキャビンの中ですから、体を移動させるスペースもほとんどありません。かろうじて、ミッケンをまたぐように膝立ちして、動かないミッケンの心臓の上に両手を乗せることができました。

 両手をしっかり伸ばして筋肉を張り詰め、体重を込めて心臓を骨の上から押します。

 アスミチは、願いました。

「どうかぼくの力がミッケンの心臓に到達しますように」

 何度も、押します。

 指示を出すバノの眼差しには成功への決意が宿っています。揺るぎはありません。アスミチに教える一方で、魔法でミッケンの肉体を蘇生しようとしています。

 この少女はふたつの動作を混乱せず並行して行うことができるようです。アスミチもここまで見る機会がありましたが、何度見ても器用なことでした。

 またミッケンに呼びかけました。

 アスミチに指示を追加します。

「リズミカルに三十回やってくれ。胸骨圧迫を終えたら、また人工呼吸する。蘇生するまでくり返すんだ」

「蘇生しなかったら……?」

 ふたたびバノの視線がけわしいものになりました。

「蘇生するまで、やるんだ!」

 バノは怒っているわけではありません。

 アスミチにはわかりました。

 ――蘇生しなかったら、ぼくたち全員が助からない。そういう意味なんだ。

 アスミチは、もうおしゃべりすることなく、ミッケンのかたくなに動かない胸部に手を置きました。

 ――きっと、この年上の女の子は、ぼくが想像できないような、こんな場面をほかにも体験してきたんだ。ぼくがぬくぬくと気楽に生きているあいだ、まったく違う人生を。

 アスミチの肩と手が上下するたびに、彼とあまり年の変わらない少年の薄い胸がわずかにわななき動くように感じます。押した反動かもしれません。けれども、アスミチは信じます。ミッケン自身が、心臓を動かそうとしている手応えなのだと。

 アスミチは気合いを入れて圧迫を続けました。

肋骨ろっこつにヒビが入るくらいの力で頼む」

 とバノは力をこめて言いました。

 その一方で、バノ自身はミッケンに呼びかけながら魔法の言葉を唱え続けています。

 アスミチの動作は今やバノと呼吸をぴったり合わせたものになっていました。リズムを保ち、衝撃しょうげきを加えます。

 命を手放したミッケンの心臓に、願いをこめて。

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