第58話 復活の前に、北へ逃げろ
「ヘクトアダーが死んでいるといいが……」
バノの声には確信がこもっていませんでした。巨大なヘクトアダーが、目の前に倒れています。完全に無力化したとは言い切れません。
「ひとまず致死毒のブレスは封じられたようだな」
バノは
紫色の煙が少しずつ薄くなりつつありました。パルミがつぶやきます。
「あれ、致死毒なん……? 危なすぎるっしょ」
バノは短く返事をしました。
「あの紫色の煙が完全に消えるまでは油断できない。それにどうもヘクトアダーは……」
バノが言葉を切ると、トキトが続けました。
「あいつ、気絶しただけだろう。ここから逃げよう」
その言葉に、全員の顔が緊張で引き締まります。
トキトの提案は現実的なものでした。状況は変わったのです。
ドンキー・タンディリーは誰も予想しなかった力を発揮し、ヘクトアダーに大ダメージを与えてくれました。けれどもその代償に、彼自身も大きく破損し、今は完全に動けない状態です。ドンのそばが安全だとは言い切れなくなっていました。
トキトは湖の反対側を振り返りながら、落ち着いた声で言います。
「逆側、つまり野営地のほうに逃げるしかねえよな」
全員がうなずきました。状況が変わった今、近い避難場所として再び野営地を目指すしかありません。
「ヘクトアダーを
トキトの声で、一行は動き始めます。
年下の三人――カヒ、ウイン、パルミ――をトキトは自分の前に立たせました。しんがりには、バノとウインが位置取りました。
樹木が少なくて石畳のようになった地面を、六人とハートタマはこれまでで最大の急ぎ足で戻ります。
パルミが息をつきながら言います。
「この道、何回も歩いたけど、こんなに急ぐのは初めてかもだにゃー」
「足かけ四日、歩いたよね」
アスミチも同意しつつ足を速めました。カヒも会話に参加します。
「うん、急がないとね。今回は命がかかってるから」
赤い岩肌が見えるところに来ました。慣れ親しんだ安心感のある風景が目に入ります。岩が削れて生まれた赤い砂と
早足で岩山に近づきながら、カヒが声を上げます。
「ウイン、足は痛くない?」
振り返らずに問いかけるカヒの声には、心配がにじんでいます。
「まだ大丈夫、なんなら走れるよ」
ウインの声は強がりのようにも聞こえました。
その言葉を聞いて、バノが前をいくウインに向かって声をかけます。
「私とアスミチで、もう一度ウインに
パルミはアスミチの名前が入っていることにおどろきました。
「アスっちは治療の魔法も使えるようになったのん?」
アスミチは首を小さく振りながら答えます。
「治療の魔法はまだ使えるようになっていないよ。でも、今、バノが教えてくれるんだよね?」
「そうだ。アスミチなら、すぐにレット魔法の基本を覚えるだろう」
カヒがその言葉で気づきました。
「そっか。アスミチがさっき使っていたのはむずかしいハヴ魔法だから、レット魔法も使えるはずだよね」
アスミチは「そうだといいけど……」とまだ自信はなさそうでしたが、「でも、やってみたい」と言いました。
二人の治療魔法の申し出に、ウインは一度は遠慮して「まだ歩けるから」と言ったのですが、すぐに思い直してます。
「でもバノちゃんに治療してもらったのは朝だから、魔法が途切れたら、みんなに迷惑なんだよね……」
考えをあらためて、ウインは「お願い」と二人に頭を下げました。トレードマークのポニーテールがぴょこっとはねました。
「今はそれが正解だと思うぜ」
トキトがにっこり笑ってウインを見ました。ウインはかえって恥ずかしさが増してしまいました。前を向いて歩きはじめたトキトの背中を思わずぽこぽこと軽く叩くそぶりをします。
バノとアスミチが治療魔法をかけている間、一行は速度を少し落としました。ふたりの魔法はしっかりとウインの脚に届きました。
アスミチの心の中には新しい希望が生まれていました。
――ぼくも魔法が使える。バノに教えてもらえれば、きっともっとたくさん使えるようになる。
魔法の効果が現れ、ウインの足はだいぶ楽になりました。
「ありがとう、バノちゃん、アスミチ。またよく動くようになったよ」
とウインが言う同時に、トキトが急に振り向きました。
「えっ!」
ウインはおどろいてうしろに身を引きました。トキトの鼻に頭がぶつかりそうになったからです。
「おっと悪い、ウイン。ちょっと後ろが気になった」
――そういえば、トキトはハートタマでも感知できないヘクトアダーの気配をとらえようとしてた。
ウインの記憶がよみがえります。トキトがとらえようとしているものは、おそらくヘクトアダーが放つかすかな振動や音なのでしょう。地球での野山を駆け回って鍛えた感覚が、ここでも役立っているようです。
――助けてもらったお礼、今言うべきなのかな?
ウインは迷いました。しかし、まだ安全になったわけではありません。もっと後にすべきだ、と思い直します。
ヘクトアダーが倒れたあたりで、音が発生していました。トキトはいち早く察知していました。
――センパイの野営地は、安全だろうか?
ウインの心に浮かぶ疑問。実際、全員がその可能性を気にしていました。野営地は一度、ヘクトアダーがすぐそばを通り抜けた場所です。次はもっと
「ねえ、バノちゃん、トキト」
ウインは考えを口にしました。
「センパイの野営地はヘクトアダーがやってくる範囲だよね。もっと遠く、いっそ岩山の北側まで抜けて少し離れたところまで進んだほうが……」
トキトがすぐに返答しました。
「それは俺も思ってた。けど、ウイン、足は大丈夫か?」
ウインは立ち止まり、自分の足に力をこめて確認してから答えます。
「ほとんど健康に戻ったよ。大丈夫」
バノもうなずきます。
「それなら、ウインとトキトの言うとおり、遠くまで移動したほうがより安全と言えるだろう」
カヒ、アスミチ、パルミもうなずき、意見は一致しました。岩山を越え、ダッハ荒野の平地まで向かうことが決まります。
荒野で
そのとき、ハートタマがドンに呼びかけます。
「おい、ドンよ、ドンの字よ、聞こえたら返事しろ。まだ立てないのかよ」
しばらくして、ハートタマにだけ聞こえる弱い思念が返ってきました。
「まだっていうか……さっきのが限界みたい……」
「ドンの声、聞こえたぜ」
ハートタマが一行に知らせると、カヒが胸をなでおろします。
壊れ方を思い出すと、ここまで回復が遅いことも無理もないように思えます。しかしハートタマはスパルタ式に言うのでした。
「おめえも男だろ、気合入れろ」
ドンは機械なので男も女もないはずです。でもそんなことは関係ないのでしょう。
「うん、気合、入れる。がんばる」
ハートタマの
アスミチは心の中で考えます。
――もしもごくたちが全滅してしまったら、ドンに食べ物を与えて助けてくれる存在もいなくなる。
――すでにぼくたちとドンとは
ウインが質問します。
「ハートタマ、この距離だと私たちにドンの声が聞こえないんだけど、なんか言ってる?」
「動くのは無理らしいが気合を入れているところだってさ」
とハートタマが伝えました。ドンの心の声を中継することもできるのですが、今はそうしていません。きっとハートタマも疲れているのでしょう。
「ドンが生きてたあ。よかったー」
とカヒはひと安心しました。
ハートタマが口をクイクイと動かして、
「あいつ何百年も生きてたんだ、しぶとい野郎だぜ」
とまるで昔からドンのことを知っているような口調で言いました。じっさいには子どもたちよりあとにドンと知り合って、何百年もというのも、みんなで推測したことに過ぎなかったのですが。でもきっと当たっているのでしょう。
アスミチが眉をひそめて問いかけました。
「ハートタマ、ドンは野郎なの? 女とか無性とかじゃなくて?」
疑問に思ったことをがまんできないのでした。パルミも不思議そうに首をかしげます。
「つかさー、ロボなのに気合とか男とか女とか、そもそも全部が変なんだけど。違和感バリバリつーか」
バノが二人に答えます。
「ん? 私のコメントが必要かな? ロボとは言うが、おそらくドンキー・タンディリーにも一部分に生物の組織が使われていると私は思っているぞ」
「生物なん? じゃあ違和感消えたー」
パルミがあっさりと受け入れる一方で、アスミチはさらに疑問を深めます。
「生物組織があるって? 逆にそれで数百年とか生きているほうが不思議じゃない?」
生き物で、しかも動物だったら、百年以上も生きるものは
バノが慎重に考えつつ、言いました。
「生き物であるのに数百年生きる……たしかに私の推測まじりの説明が必要かもだね。ただ、その話は長くなる。生き延びたら必ず聞かせよう」
「約束だよ、バノ」
とアスミチが念を押します。
永遠に生きるドラゴンとエルフの話に、その疑問はつながっていくことになるのです。
そしてまたそのことは、このオアシスにやってくるという超兵器メルヴァトールの秘密にも関わってくるのでした。
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