Ⅶ Confessional Viridian
ミューシェの沈んだ顔を心配げに覗き込む。そして去っていく一人の男性の背中を見つめた。
「知り合い? なんていないか」
変わらない笑顔を向けてもなお、ミューシェは口を噤んでいる。いつもと様子が違うことなどすぐに気づいた。
「大丈夫?」
「その、道を、聞かれただけで。でも、僕はよく知らないって返して」
「そっか」
息をしづらそうなミューシェに、あえていつもの調子で返事をする。それ以上訳を聞けばミューシェが一層辛くなるような気がした。
「そういえば、セドリックが後で店に寄れって。絵の情報が入ったのかも」
今の空気を変えるにはもってこいの話題だった。
「一緒に行ってみようか」
話題を変えたことが吉と出たのか、ミューシェの顔がようやく明るくなる。
「うん!」と期待に胸を膨らませるミューシェにセオドアは胸をなでおろした。
「テオ、荷物持つよ。貸して」
「ありがとう」
セオドアが素直に荷物を渡す。自分から言いだしたはずのミューシェが驚く。いつもなら一言「いいよ」「大丈夫」と拒んでいた言葉がなかった。渡された荷物を腕に抱くと、ミューシェの頬がゆるむ。踏み出す一歩が軽かった。
「テオ! 早く」
「早くは無理だって。ミューシェ、待って」
大通りへと延びるイチョウの絨毯の上を二人が急く気持ちを抑えながら歩いて行った。
「セドリックが気になるのはその子どもが持っている絵画ってことか?」
セドリックの店の中、作業台に寄りかかりながらセオドアが問う。
「そうだ。でも何の絵なのか、どんな絵なのか、まるで情報がない」
セドリックは義手を組み立てる手を休める事無く答える。
「何の絵なのかも分からないって。なにその中途半端な情報」
相変わらず楯突くような態度のミューシェだが、すっかりセドリックとの言い合いも馴染んでいる。セオドアも最近ではそんな二人を微笑ましく思っているほどだ。
セドリックが作業する手を止めると顔を上げる。その顔はどうしたものかと困っているようだった。
「しょうがねえんだよ。喋れねーんだよ、その子どもは」
どういうことかとセオドアたちが首をかしげる。
「普段は路上で靴磨きをしている少年でな。噂だとその子を残して親はどっかにいっちまったらしい。まあ今の時代よくある話だ。だが家は残されたまま。しかしその子が家に帰っている様子はない。だがそこに立派な絵画があるんだってよ」
子どもの境遇を考えてか、セドリックは眉間に皺を寄せ辛そうな表情になりながらも話しを続ける。
「以前はその絵画を観ながら茶を飲んだって話してくれた人がいてな。なんでこんな暗い絵を飾ってるのか不思議だったってんだ。ミューシェの探してるっていう、罪を描いた絵ってのに当てはまりそうだろ?」
「その子に絵を見せてくれるよう頼んでみよう」
セオドアの提案にセドリックが首を横に振る。
「だから、その子どもは言葉を発っさねえ。誰とも喋らねえ。心を開かねえんだ」
心当たりがあるかのようにセオドアが目を伏せる。悲痛な状況のとき、心を閉じてしまうのは当たり前だ。こちらの話を聞き入れてもらえる望みは薄いだろう。
しかしそんな気持ちを振り切るように一度大きく頷くと顔を上げた。
「でも心の扉を開けてくれるきっかけはあるはずだよ。辛いことがあっても人は前を向けるって俺は知ってる。絶望の中では自分一人じゃダメかもしれない。でも俺は独りじゃなかっただろ? その子だって、独りじゃない」
熱いセオドアの視線がセドリックを刺す。セドリックがふと昔の事を思い出すと顔をほころばせた。
「ああ、そうだったな。今じゃあ別嬪さんも世話焼いてくれるしな」
ニヤつく顔でミューシェを見遣ると、いつも通りキッと牙をむき睨み返される。
「僕は世話を焼いてるんじゃない」
セドリックが「分かってるさ」と豪快に笑う。
「あまりミューシェをからかわないで」とセオドアが間に割って入る。それでもミューシェとセドリックはやいのやいのと言い合いを続けている。その光景は一見いつもと変わらない。いつも通り明るく元気に見えるミューシェの横顔。
いつもと変わらないミューシェ。けれどもセオドアにはミューシェが変わらないフリをしているように見えていた。
三人が話していると店のドアのベルが鳴った。カランカランと来客を知らせる音にみなが振り返る。
「いらっしゃ――なんだ、クラリスか」
「なんだじゃないわよ」
買い出しをしていたのか、クラリスが入り口の台に大きな紙袋をどさりと置いた。
「クラリス、こんにちは」
ミューシェが立ち上がり丁寧にお辞儀をするとクラリスもそれにならう。突然店内が貴族の社交場のようになり、セドリックがあんぐりと口を開ける。
「クラリスがこの辺りに買い物なんて、どうしたの?」
「ああ、キッチンの道具を揃えたくて。この辺りは道具屋が多いから。そしたらあなた達が集まっているのが見えたからつい寄っちゃった」
「会えてうれしい」とミューシェが伝えるとクラリスがふふっと笑った。
「それで、なんの悪だくみかしら?」
そう言われてセオドアが「違うよ」と慌てて否定する。
「セドリックが絵の情報を教えてくれたんだ」
「ミューシェちゃんが探してるっていう?」
「まだその絵かどうかは見てみないと分からないんだけど……」
嬉しそうにするどころか困ったようなセオドアにクラリスが首をかしげる。
「靴磨きの子どもが絵を持っているって。でも、その子は言葉が話せないらしいんだ」
「喋れない? それとも喋らないのかしら」
セドリックが腕をくみううんと唸る。
「さあ、分からんねえ。もしかしたら今の境遇が原因かもしれねえな」
クラリスとセオドアがどうしたものかと悩んでいると、ぽつりと漏れたミューシェの声が聞こえた。
「やっぱり、難しいのかな」
気を落としたようなミューシェの背中をセドリックがバシバシと叩く。
「なあに、見せてもらう方法考えようぜ」
重くなってしまった空気をセドリックが払拭っする。
――いや、違う。
セオドアが肩を落とすミューシェを見つめた。今ミューシェが悩んでいる事はそうではない。「一体何を」とセオドアが心の奥を窺っていた。
「ここで悩んでいても仕方ないし、とりあえずその子に会ってみたら?」
クラリスが提案すると「そうだな」とセドリックが同調する。
「うん、そうだね。行ってみようミューシェ」
セオドアがミューシェを呼ぶと浮かない表情が顔を上げる。
「うん。行こう」
にこりと笑ったその顔は、やはり晴れやかとは言い難かった。
次の日の朝、セオドアとミューシェはセドリックが教えてくれた通りに向かっていた。
大通りに出れば通勤の人々がせわしなく行き交う。道の脇では新聞売りや行商人、演説で人々を集める集団もいる。そんな喧噪から隔たれた公園の道を二人がゆっくりと歩く。
さきほどからいやに静かなのは公園の中だからではない。元気な声が、笑い声が聞こえてこないからだった。セオドアがミューシェを横目に見遣った。
「なんで元気ないの?」
唐突な質問にミューシェが驚く。
「俺は元気なミューシェが好きなのに」
ふっと表情を緩めたセオドアは前を向いたまま、やはりゆっくりと歩く。
セオドアの質問に答えが返って来ないまま、静寂が流れる。音がないかと言えばそうではない。小鳥が枝葉から羽ばたく音。紳士淑女が挨拶を交わしお喋りする声。犬の鳴き声、子どもの笑い声。様々な音がするのに、二人の間に流れる空気は静かだった。
「僕の罪は」
幾分かしてミューシェが口を開いた。
「僕の罪はどんなものなのか分からない。誰かを悲しませた。何かを奪った。もしかしたら凶悪なものかも。人を殺めた可能性だって――」
そこまで話すとセオドアの方へ顔を上げる。怯えた目がセオドアを見つめていた。
「僕は自分の罪から逃れることだけを考えて、罪を知る事について考えていなかった。もし人として最悪の事をしていたら……それを知った時、テオは僕の事を嫌いになるかもしれない。今みたいに、優しく笑ってくれなくなるかもしれない」
怯えた目の縁が次第に赤くなると、うっすらと濡れていく。
「それにこれは償いを放棄し、罪から逃れる行為。僕がしていることは――」
ミューシェの頭に温かい手のひらが置かれる。そのままぽんぽんと頭が撫でられた。
「確かにミューシェの罪は分からない。でも俺が知っているミューシェは今目の前にいるミューシェだ。明るくて、暖かくて、美しくて、太陽の匂いのする天使」
濡れた目が丸く見開かれる。
「誰にどんな前世があるのか俺は知る由もない。その時どんな人間だったかなんてこの世に生きる者は誰も分からない。だから今見えているモノ、それが俺の全てだよ」
驚いた目がだんだんと落ち着きを戻していくと、セオドアもようやくほっと息を付く。
「それにミューシェは罪から逃れているんじゃない。知ることを考えてなかったわけでもない。知ろうとしているんだ。知ったうえでどうするかは、ミューシェ次第なんじゃない?」
再びセオドアが歩きだす。その背中を見て、ミューシェがしっかりと思い出した。
――そうだ、テオは僕を信じてくれた人。ルノーの言葉なんかに惑わされない。僕は僕の罪を知って償う。
セオドアに追いついたミューシェがにかっと笑う。すっかり元気になったミューシェにセオドアが吹きだした。
いつの間にか公園を抜け大通りに出ていた。馬車が通り過ぎた先、道端に一人の少年がうずくまり座っている。
靴磨きの少年。セドリックが教えてくれた子どもだった。
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