Ⅵ Blunt Warning
昼間の賑わう大通り。商店が並ぶ道をセオドアとミューシェが並んで歩く。ミューシェが両手いっぱいに紙袋を抱える。半分以上はメアリー夫人に頼まれていた食料や日用品だった。それでも今までならセオドアが都度買い出しにいくくらいで済んでいたのだが。
「思ったより買っちゃったね」
「二人分だとこんなに増えるのか」
肩にかけた荷物袋を持ち直したセオドアにミューシェが気付く。
「ごめんなさい、僕の分が増えちゃったから」
しょぼくれ下を向くミューシェにセオドアが眉をひそめる。
「テオ、貧乏なのに……」
「な、なんだよ落ち込んでるかと思えば、失礼だな。本当の事だけど!」
俯いたままのミューシェがくすくすと笑う。呆れたセオドアが肩を落とした。しかしその顔は楽し気だった。
冗談を言い合いながら歩いていると、いい匂いが道に漂い始めて来た。
木材を白塗りしたオシャレな外観に大きな窓。そのショーウィンドウにはこちらにアピールするように美味しそうなパンが並べられている。その隙間から店内を覗けば、ショーケースに色とりどりのケーキが並んでいる。中では流行りの装いに身を包んだ夫人たちがお喋りに花を咲かせている。
ミューシェが窓の前に立ち止まった。
目の前にフランスパンやブリオッシュ、ホワイトブレッドなどキラキラしたパンが並ぶ。どれもミューシェが始めて見るパンだった。
「ここのパンは少し高いよ?」
セオドアが困った様にミューシェに声を掛ける。それでもミューシェの輝く瞳が窓から離れない。
店から少し離れた場所、二人を遠巻きに見ながら夫人たちがお喋りをしている。セオドアが耳をすませば、どうやらミューシェについて話しているらしい。
「まあなんて美しい」「どちらの家の方かしら」「あそこのパンがお気に入りなのかしら」どうやらミューシェがどこかの貴族と間違われているらしい。この柔らかそうな白い肌や艶めくブロンドヘアを見れば、そう思うのもうなずける。
ミューシェが未だパンに見惚れていると、店のドアが開く。一人の大柄な男が顔を出した。
「買うのかい?」
訝し気に声を掛けて来たのはパン屋の店主だろう。威圧感たっぷりの風貌に、ミューシェが畏縮しふるふると首を振る。するとミューシェの後ろからセオドアの手が伸びた。
「じゃあ、これを一つください」
セオドアが大きなブリオッシュを指さす。
「はいよ」と言い残し店主が店の中へと入っていく。驚いた顔でミューシェがセオドアに振り返る。その横を先ほど噂話をしていた夫人たちが通り過ぎ、店のドアを開けた。
「やっぱりここのパンは美味しいんだわ」「まあ、中ではケーキと紅茶もいただけるみたい」「ティータイムしていきましょ」うきうきとした声が店の中へと消えていく。
「半分こしようか」
セオドアが眉を下げて笑う。ミューシェのパンを見つめる熱い視線に降参したと言っているようだった。
「本当はメアリー夫人にも買って行ってあげたいけど。今日は内緒にしておこうか」
セオドアの脳裏に「お金ないんだから無駄遣いしない!」と怒るメアリーの顔が浮かぶ。ミューシェと言えば背中をむずむずさせながらパンを待っている。
「おい、そこの別嬪さんと杖の兄ちゃん。4ペンスだ」
再び店から顔を出した店主が紙袋を差し出す。紙袋を受け取ったミューシェが不思議そうな顔を店主に向けた。その視線に気づいた店主がしたり顔で笑う。
「あんたがそこに立ってるだけでお客が入ってくれて繁盛よ。それはおまけだ。持って行ってくれ」
店の中からは夫人たちがミューシェに目配せをしたり囁き合っているのが見える。
ミューシェが袋の中をのぞくとブリオッシュの他にバターがたっぷりと入ったほわほわのパンが一つ。「ありがとう」とミューシェが伝えると、店主は満足げに店へと戻っていった。
ミューシェとセオドアが顔を見合わせる。するとどちらからともなく「ふふ」っと笑いがこぼれる。
「これはメアリー夫人にあげよう」とセオドアが提案すると、ミューシェが大きく頷いた。
パン屋を後にしてすぐに、セオドアがミューシェに声を掛ける。
「そうだ、寄るところがあったんだった。ここで少し待っててくれる?」
「うん、いいよ」
セオドアを見送るとパンの袋を抱えたままその辺りをぶらぶらと歩く。立ち止まり脇に生えていたイチョウの木を見上げた。そろそろ葉っぱも落ち切ってしまいそうな枝葉。足元に出来た黄色い絨毯はとても綺麗だ。
イチョウに見惚れていたミューシェが、突然背後に気配を感じた。
「やあ、お嬢さん」
ぴたりと背中に張り付いた人影に声を掛けられる。ミューシェの背筋がぞくりと凍る。
治安が悪い区域ではないが、人通りが途切れていた。背後の気配は離れる様子がない。ミューシェが意を決し、威嚇する様な目でおもむろに振り返った。
「……え」
振り返った視線の先には想定外のにこにことした顔が現れた。ひょろりと背が高く上品に髪を一つに結び、細い銀縁の眼鏡をかけた男。両手を上げ、怪しいものではないとジェスチャーで示している。
「やあ、お嬢さん。お久しぶり」
「ル、ルノー!?」
ルノーがさらに目を細めて笑う。ルノーと呼ばれたその男。透き通る白い肌は光をまとう。その人が天使であるという事実は、天使を見たことがある人なら分かるだろう。
「どうして君がここに!?」
「どうしてって。様子を見に来た、それだけだよ。おっと、そんな目を向けないで」
疑うように向けられた視線に苦笑する。
「ふん、本当さ。だけど警戒してくれてもいい」
ルノーの真意が分からずミューシェがますます怪訝な表情になる。
「だって、私は君を連れ戻したいと思っているからね」
その言葉にミューシェの目が見開かれる。薄いブルーの瞳が小刻みに揺れる。緊張と恐れが心臓を締め付け血管を収縮させる。口を開くも上手く言葉を発せられない。
「な、連れ戻すって、なんで……」
脅えるミューシェの目を見るとルノーは鼻を鳴らし皮肉な目で見返す。
「なんでって。驚いたな。分からないとは」
「うーん」と考える振りをしながらルノーがミューシェの周りをうろうろと歩き出す。
「だって、君は罪から逃れるためにここへ来たんでしょ?」
視線だけでルノーを追う。ミューシェの体はさきほどから強張ったままだ。
「自分の罪を見つけるためだとか言って飛び出したはいいけど。要は死をもって償いを終わらせたい。償いから逃げたいんでしょ?」
「だって、それは……」
そう言って押し黙るとルノーが憐れむように、しかし楽しむようにミューシェの様子を伺っている。ルノーの頭には昨晩パブで皆と手を取り合い笑顔で踊るミューシェが思い出されていた。
「ねえ、君は忘れていない?」
顔をのぞき込むルノーのその目にぞっとした。
「君ってば、罪人なんだよ?」
はっと顔を上げたミューシェを、今度はルノーがつまらなそうにする。コロコロと変わるルノーの態度や表情で真意がつかめない。
「私はね、別にいいんだよ。でも心配なんだ」
「心配?」
「だって、セオドアという人はどう思うんだろうね? 君の
俯くミューシェに追い打ちをかける様にルノーが続ける。
「強盗? 強姦? 傷害? それとも、殺した?」
どんどんとミューシェの顔が恐怖に染まっていく。考えてなかったわけではない。忘れていた。その可能性に蓋をしていた。セオドアとの時間を守る為に――。
「セオドアは全部を知っても、君に笑顔を向けてくれるのかい? ねえ、ミューシェ」
ミューシェがぎゅっと目を瞑る。
「悪あがきをやめて天界へ戻って来たらどうだい? 私は君が傷つくかもしれないと心配しているんだ」
ルノーが手を差しだす。しかしミューシェは目を瞑ったまま首をふるふると振った。頑ななミューシェの態度にルノーがため息をつく。
「まあ、また会いに来るさ」
手をひっこめると踵を返す。不敵な笑みを残したままルノーが去っていった。
「ごめん。待たせたね」
瞼で閉じられた暗闇の世界に優しい声が届いた。セオドアの声だった。ようやくミューシェが静かにゆっくりと、強く閉ざしたまぶたを緩めた。
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