Ⅴ Delightful Indigo

 セオドアが部屋の真ん中に置かれた丸テーブルに花瓶を用意する。置いてみれば机の半分を占領してしまい、食事もままならない程大きな花瓶。その中に花束を差し込んだ。

 大きすぎるのではないかと思いつつ、嬉しそうなセオドアの横顔にミューシェも指摘する事を諦める。

「花なんて買ったのはいつぶりだろう。クラリスにプレゼントした時以来かな」

 鼻歌交じりに部屋の片づけまで始め出す始末。セオドアがソファーに腰掛けるミューシェに視線を向けた。花束越しにミューシェもこちらを見つめていた。

「ミューシェがいると部屋が明るくなるんだ。片づけも楽しい。ここに来てくれてありがとう」

 ミューシェがセオドアと出会って以来、初めて躊躇うことなくすらりと発せられた「ありがとう」だった。機嫌よく片づけをするセオドアは、誰が見ても疑う余地がないほどに心が晴れている。それがミューシェには嬉しかった。

 ソファーにうずめた体がうずうずとする。すると――。

 ばさあと翼が空気を含み、風を起こし、羽が広がり開く音がした。

 思わずセオドアが振り返ると、数枚の羽根が部屋の中に舞い落ちていく。

 ミューシェの背中に生えた大きな羽が部屋には収まりきらず、ミューシェの体を包み込む。

「心がうずうずしたら開いちゃった」

 目を細めたミューシェの笑顔がはじける。つられるようにセオドアが吹きだした。

「びっくりした。でもやっぱりミューシェの羽は太陽の匂いがする。部屋の中なのに花畑にいるみたいだ」

 セオドアが鼻をふくらませ、大きく息を吸い込む。そして思い出したような顔をミューシェに向けた。

「そうだ。今日はクラリスの店で仕事なんだけど、ミューシェも来る?」

「行きたい! ヴァイオリンを弾くの? テオのヴァイオリンが聴きたい」

 セオドアがもちろんと頷く。

「ところでその羽は仕舞えるの?」とセオドアが心配げに聞くと、「当然」とミューシェが自慢げに返す。次に瞬きをした時にはミューシェの羽は消えていた。


 クラリスが経営するパブ「ブランチェ」では、一角に作られたスペースでセオドアがヴァイオリンの準備をしている。他にもアコーディオンやギターを携える演奏者が集まる。いつものメンバーなのか、セオドアも打ち解けた様子で話しをしていた。

 その様子を離れたテーブルから見ていたミューシェの前にぶどうジュースが差し出される。ミューシェの向かいの椅子にクラリスが腰を下ろした。

「ミューシェちゃん来てくれたのね」

 あの日以来に会ったクラリスは、やはり柔らかい雰囲気が素敵な女性だった。しかしセオドアと変わらない歳でパブをまとめ上げられる手腕となれば、一本芯の通ったたくましい人なのだろう。そんなクラリスが仲間たちと楽しそうにするセオドアを見つめる。

「テオのヴァイオリンはね、街のみんなが大好きなの。どうしてかしらね、みんな引き込まれちゃう。心から楽しめる音を奏でるのよ、あの人は」

 その瞳の先を追うようにミューシェもセオドアに視線を向けた。

 セオドアの演奏を聴くのは二度目だった。しかしまだ忘れていない。それどころか耳から離れない。天使の梯子よりも街を照らすセオドアの音を。導きのしるしかのように聴こえて来た音を。

「うん。僕もね、テオのヴァイオリンの音色に誘われてテオの元に降り立ったんだ」

?」

 ミューシェの言葉に首をひねるクラリスだったが、さほど気に留める事はなく「ゆっくりしていってね」と仕事へと戻っていく。一人になったミューシェはセオドアの音を待っていた。

 そうする内にセオドアの演奏が始まった。他の楽器と共にゆったりとした曲がパブの中に流れる。客たちはヴァイオリンの音に聞き惚れながら酒を飲み交わす。酒の肴になるほどセオドアの奏でる音は労働の疲れを癒し、酒を美味くする。みんなとても楽しそうだった。

 客たちに酒が回り出した頃。ほろ酔いの男たちが頬を赤くまあるく染める。鼻先まで赤くした中年の男性客がジンの入ったグラスを片手に立ち上がる。大きく「かんぱーい」と叫ぶと次々と客たちが椅子から立ち上がり始めた。それを見たセオドアが曲調を変える。さきほどのゆったりとした音楽から一転、愉快で軽快な曲が流れ出す。

 アップテンポの曲に気分を良くした客たちがジンやビールを片手に、人によってはグラスを手放し横の客と手を取り合い踊り出す。男も女も関係ない。みなが陽気に足を踏み鳴らし、スカートをたくし上げ、跳ねる様にダンスする。

 始めて見る踊りにミューシェの胸も躍った。ワクワクとした目で店の様子を眺めていると、一人の酔っ払いがミューシェに近づいて来る。目の前までやってきて視界を塞いだかと思うと手を差しだした。

「お嬢さんも踊ろうや!」

「お、おじょうさ――」

 訂正しようとするも酔っ払いは聞こうともしない。男だって女だって、人間だって天使だってかまわない。彼らはただここにいるみなと楽しみたいだけなのだ。

 腕を引かれたミューシェが半ば強引に店の中央へと誘われる。

「ま、まって。僕はダンスなんて」

「いいからいいから。楽しもうや」

 あっという間に客たちに囲まれると、手を取られくるくるとまわされる。その光景をみたクラリスが「まあまあ」と笑う。

 戸惑っていたミューシェも明るい笑顔に囲まれると、次第に気持ちが高ぶっていく。気が付くと満面の笑みで客の輪の中にいた。見よう見まねでステップを踏む。上手い下手を気にする者はいない。ここでは楽しんだもの勝ちなのだ。

 ふとミューシェがセオドアを見る。視線に気づいたのかセオドアが顔を上げるとミューシェと視線が合う。セオドアがくしゃっと顔をほころばせる。その優しい笑顔にミューシェの頬が思わずぽっと赤くなった。

 パブにいる客たちが笑う。クラリスが笑う。セオドアが笑っている。

 きっとそれぞれに辛い事やしんどい事があるだろう。嬉しい事や楽しい事があるだろう。過去も未来も忘れて、ここでは皆がただを楽しんでいる。


 その中にいれば自然と笑顔が溢れてくる。しかし、だからこそミューシェは思い返していた。

 ――罪を探しに来たはずの僕が許されるはずはない。

  だけど、このままもう少し。もう少しだけ、この世界にいたいな。

  

 この日は夜遅くまでセオドアのヴァイオリンが響いていた。


 ブランチェの外は暗がりが広がり、仄かな街灯の灯りがともり出す。外から見れば、夢のような時間が光となり煌々と窓から漏れているよう。

 その光を、外から一つの人影が見つめていた。

 ひょろりと背が高く、髪を上品にひとつに結った男。理知的な眼鏡の奥からじっと店の中を見つめていた。

 中ではミューシェが楽し気にダンスを踊っている。

 向けられたその視線に気づくことはない。


 踊りながらミューシェは祈っていた。

 ――このままここにいることなど叶わないのに。

  僕は、忘れてはいけないことを、忘れてしまいそうだった。

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