Ⅳ Light blue curtesey
「まあ!」
しわの寄ったメアリーの眉間がぱっと明るくなる。
「天使のようなお方」
さらにはその目が輝きだし、頬がぽっと赤くなる。
「ミューシェといいます。今住む場所がなくて、テオの言葉に甘えてしまって。突然の事ですみません」
目を伏せたミューシェが右足を引くと丁寧にお辞儀した。そのなんとも美しく可愛らしい姿にメアリーから「ふふ」っと笑いがこぼれる。
「下宿宿は老人の暇つぶしですよ。若い子が増えるのは賑やかになっていいじゃない。じゃあ今日から二人分の食事が必要かしらね」
「宿代は二人分お支払いいたしますので」と聞こえて来たセオドアの言葉をツンとした態度で受ける。
「あなたにそんな稼ぎがあって? 気持ちだけ頂いておくわ」
「い、いえ。それは……」
押し通そうとするセオドアの言葉をメアリーが受け流す。目の前の麗人に向き直ると、ミューシェにならうように右足を引き柔らかく膝を折った。再び背筋を伸ばしたメアリーが微笑むとミューシェもにっこりと笑い返す。そのまま静かにドアが閉められた。
「メアリー夫人には敵わないな」
それでもどうにか家賃は支払わなければと頭を抱える。
頭を搔きながら難しい顔をしているセオドアをじっとミューシェが見つめていた。ようやく視線に気づいたセオドアが顔を上げる。
「ごめん、ミューシェ」
お盆を受け取ろうとセオドアが手を伸ばす。しかしミューシェがひょいとお盆を遠ざけた。予想外の行動にセオドアが目を瞬かせる。
「ミューシェ?」
「『ごめん』を『ありがとう』に変えないとこれ渡さない」
どうしてミューシェがむくれているのか、セオドアには分からなかった。分かっていない様子のセオドアにさらにミューシェが頬を膨らませる。
「テオはいつも謝ってばかり。テオが僕の力になりたいと思ってくれたみたいに、僕もテオの力になりたいの。みんな迷惑がってるわけじゃないんだよ。助け合いたいんだ」
言葉として伝えられて初めて気付く。
ミューシェの意地を張った態度も、セオドアに向けた不機嫌な顔も。
自分一人でやらなければ。迷惑をかけないように、心配をかけないように。平静で、平気なふりを、いつも――。
セオドアが降参したと眉をひそめる。
「ミューシェ、ごめ――ありがとう」
不満げだったミューシェが眉を上げ、満足げな表情になる。
――やっぱり咎める顔よりも、こういう顔がミューシェには似合う。
うねり出していた心が静かになっていく。ミューシェがようやくテーブルの上にお盆を置いた。
その日の朝は、一人分の朝食を二人で分け合って食べた。
朝食を食べ終わるころ、セオドアが思い出したように提案する。
「そうだ、今日はセドリックの店に義足を取りに行って、ついでに行きたいところがあるんだけど。ミューシェも来る?」
「行く! 今から?」
セオドアが頷くとミューシェが慌てて立ち上がり身なりを整える。「そんなに急がなくても」とセオドアが笑う。
ナプキンで口元を拭ったセオドアが立ち上がるとミューシェが壁に立てかけてあった松葉杖を抱えて持ってくる。
「ああ、ごめ……ありがとう」
照れくさいのか、セオドアが伏し目がちのまま伝える。それでもミューシェは上機嫌に鼻をならす。
「ほら、僕がいた方がいいでしょ?」
ミューシェの言葉は悪気がなく前向きで、自信に満ちている。その存在がセオドアの伏目がちな視線を上げさせる。観念したようにセオドアが「そうだね」と相槌を口にした。
セドリックの店へ赴くとあいかわらずミューシェは毛を逆立てた猫のようにセオドアの背後から警戒心をむき出しにしている。しかし苦手意識はあれどそれ以上の嫌な感情を表さないのは、ミューシェには見えているからだろう。その能力が彼が悪ではないことを告げている。それを一番分かっているのはミューシェ本人だった。
懐いてくれないミューシェを嫌な顔せずセドリックが笑いとばす。その光景をむしろ微笑ましくセオドアが見守っていた。
セドリックに見送られ、二人が店を後にする。義足を嵌め、すっかりいつも通りの調子を戻したセオドアがミューシェに振り返った。
「これから市場に行こう」
「市場?」
「そう」とだけ返すと嬉しそうにミューシェの手を取る。あまりにも楽しそうなセオドアにミューシェもそれ以上聞かずその背中についていった。
本来なら20分足らずで着く道も、セオドアが歩けば近い距離ではない。それでもロンドンの伝統的な建物、新しく出来たカフェ、たまにセオドアに声を掛けてくる人たち、ゆっくりと歩けば見たことのない景色が次々と流れていく。一つ一つを楽しむミューシェの横顔にセオドアの表情も和らいでいた。
「ここだよ」と立ち止まったセオドアの前に広がるのは大きな市場。まだ入口前にも関わらず、かごや手押し車いっぱいに品物を積む路上商
「ここってコヴェント・ガーデン?」
ミューシェが問うと、「そうだよ」とセオドアが首をひねる。
「ミューシェは知らない?」
「うん。この辺りは農地じゃなかったっけ」
戸惑うミューシェにセオドアがくすりと笑う。
「ミューシェって、いつの人なんだろうね?」
その言葉にはっとする。そうだ、自分は罪を探しにやってきたのに。そんな思いがもやもやとミューシェの胸にうずまいた。こんなにも楽しくて、こんなにも安らかな時間を過ごしてはいけない。そんな戒めが心をぎゅっと縛る感覚を覚えた。
市場の中へと入るとずらりと花屋が並び、一面が花畑のようだった。おもわずミューシェが「わあ」と声を漏らす。セオドアが感嘆の声に嬉しそうにする。
「こっちだよ」と誘った先にある一軒の花屋であれやこれやと花を選び出す。次第にその花束がどんどんと大きくなっていく。
「そんなに花を買ってどうするのさ」
呆れながらもミューシェがその光景を面白そうに見ている。
「分からない。だけど昨日ミューシェがいる部屋を見ていたら飾りたくなった。きっととても綺麗だ」
目を丸くするミューシェを余所に、セオドアが会計を終わらせる。「ありがとね」と店主の元気な挨拶に見送られ店を後にした。
狭い市場内を人を避けながら歩いていく。すると市場の奥がなんだか騒がしい。騒々しいと感じたのは思い違いではなく、ざわついた声がだんだんと近づいて来る。
「おい! 物盗りだ! 誰か捕まえてくれ!」
奥から叫び声が聞こえた。盗っ人が狭い市場内を走る。押しのけられた人々の悲鳴が上がる。
騒然となる市場内にセオドアの声が響いた。
「ミューシェ! 危ない、避けて!」
盗っ人がこちらへ向かって来ていた。しかしミューシェは道の真ん中に立ち尽くしたままぽかんとしている。
どん――。鈍い衝撃音とともにミューシェがよろめく。体当たりした盗っ人は体勢を崩しながらもそのまま走り抜けていく。
セオドアが花束を放り、ミューシェに手を伸ばす。しかし義足の足では素早く駆け寄ることが出来なかった。
「わあ」と声を上げ、どさりとミューシェがその場に倒れ込む。
「ミューシェ! 大丈夫!?」
ようやく差し出す事ができた手をミューシェが掴んだ。
「ごめん」と謝るセオドアに引っ張り上げられると、ミューシェがひょいと立ち上がる。ズボンの埃を叩いて払うと、道端に落ちた花束を拾った。
「どうして避けなかったの」
「見えなかった。あの人の事は見えなかった」
ミューシェが盗っ人が走り去った方向を見つめる。
「そうか、そういうのも見えないのか」
「ぼんやりとは分かるんだけど、はっきりとは見えなくて。セドリックなんて嫌なヤツなのにはっきり見えちゃうんだから困っちゃうよね――」
「ごめん」
その言葉は謝罪ではない。自責なのだとミューシェには分かっていた。
「すまない」
再び謝るセオドアが顔を伏せる。ミューシェの頬がみるみる膨らんでいく。
「なんでテオが謝るの? 分かんない。僕は天使だよ。転んだって刺されたって死なないの!」
膨れっ面で踵を返すミューシェ。その大きな声にセオドアが驚く。
歩き出しても付いてこないセオドアにしびれを切らし、花束を抱えたミューシェが振り返った。
「帰るんでしょ? 帰ってはやくお花を飾ろうよ」
「う、うん。飾ろう。きっととても綺麗だ」
どうしようもなく嬉しくなる。しがない劣等感を、ミューシェがしがないと教えてくれる。セオドアがミューシェに追いつき肩を並べる。花に埋もれるその顔は、やっぱり天使の笑みだった。
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