Ⅲ Troubled Ochre

 セオドアの背後からミューシェが顔をのぞかせる。

「ああ!? どういうことだよ。別嬪の女房なんて連れてきて」

 歯に衣着せぬ物言いにミューシェがさらに姿を隠す。そんなセドリックに苦笑しながらセオドアが作業台に置かれた椅子に腰かけた。

「僕は女房じゃない」と叫ぶミューシェはセドリックと距離を置くように、入り口近くに立ったままだ。

「なんだなんだ、やけに威勢のいい子だな。女房じゃなかったらまだ彼女か」

 威嚇するミューシェを相手にする様子もなく、セドリックが豪快に笑う。ミューシェの頬がさらに膨れた。

「セドリック、からかわないであげて。訳あって今日から俺の家に居候する事になって。ミューシェって言うんだ」

 ふーん、とにやついたセドリックの視線をミューシェが睨み返す。入口に立ったままのミューシェにセオドアが手を伸ばし、傍に来るようにと誘う。しぶしぶミューシェがそれに従い、セオドアの隣に腰掛けた。

「ミューシェ、こいつはセドリックっていうんだ。俺の友達で義足を作ってくれてる」

 それでも警戒心を解こうとしないミューシェに再びセドリックが大きく笑う。

「それで? どうしたって?」

「ああ、それが義足を痛めてしまったみたいで」

 セオドアが義足をはずすと台の上に置いた。それを手に取ったセドリックが具合を確かめる。

「ああ、少し調整が必要だな。今日一日預かる。明日の昼までには直してやるから、また取りに来い」

「いつも悪いな」

「謝るな」とセドリックが言い捨てると義足を奥へと持っていく。戻ってくるとどかりと椅子に腰を下ろし、今度は目の前の二人を交互に窺った。

「それで? なんでこいつがお前ん家に居候する事になったわけ?」

「ミューシェだ」と膨れっ面が名前を訂正する。

「ああ、実は――」とセオドアが事情を話し始めた。


「なるほど、とある絵を探して旅をしていると。ロマンチックなんだか、また変な奴につかまっちまったな」

 愉快そうに笑うセドリックをミューシェの鋭い視線が刺した。

「すまんすまん。だけどまあ俺の親友のためだってんだ。俺に出来ることなら協力するぜ。この町の情報は結構入ってくるんだ。なんか気になることがあれば教えるよ」

「ありがとう。助かるよ」

 華やいだセオドアの表情に、ミューシェもセドリックに対し小さく頭を下げた。

「おう任せとけ。で、今日は悪いがそこの松葉杖を使って帰ってくれ」

 セドリックが壁に立てかけてある松葉杖を指さす。セオドアが立ち上がり松葉杖を右脇に抱えると、左手でヴァイオリンを担ごうとした。するとミューシェがいきなりヴァイオリンを奪い取る。むくれた顔で両手いっぱに荷物を抱えた。

「ごめんミューシェ、大丈夫だから。自分の荷物は自分で持つよ」

 セオドアが手を伸ばすと、その手から逃げるようにミューシェが一歩下がる。

「ミューシェ、冗談はやめて――」

「さっきもそうだった!」

 ぎゅっと荷物を抱えたミューシェが叫ぶ。

「さっきも、僕が手伝おうとしたら拒絶した」

「拒絶したわけじゃ。自分の事なんだから、自分でやらなくちゃ」

「テオが僕の目を補って、僕がテオの足を補うのに何の不都合があるの!?」

 ふいっと顔とそむけ、セオドアに背を見せる。唖然とするセオドアを放ってそのままドアへと向かう。

 初めて怒鳴り声を上げたミューシェに目を瞬かせる。何に対して不機嫌になっているのか分からなかった。そんな二人に大きく吹きだしたのはセドリックだった。

「あっはっはっは! ミューシェ! 気に入ったよ。こいつは思ってるよりずっと強がりの頑固者なんだ。テオのことをよろしく頼む」

 ミューシェが「言われなくても」と言わんばかりに鼻を鳴らし店を出ていく。慌ててセオドアがその後を追った。

 セオドアを先導するようにミューシェが先を歩く。そんな二人の背中をセドリックが見送る。満足そうに笑むと店に戻っていった。


 セドリックと別れ、再び鉄道馬車に乗り込むと今度は格式ばった街並みに降り立った。住宅が並ぶ通りは喧噪やいやしさからは程遠く上品さを備えている。一つ一つの建物を見れば豪華絢爛で、ロンドンの正統的であり伝統的な形式を肌に感じる。その雰囲気にミューシェは皮膚がひりっとする感覚を覚えた。

「この辺りはグロブナー家所有の土地だったはず……」

 ぽそりと呟いた言葉に「よく知ってるね」とセオドアが返した。路上でヴァイオリンを弾くことでしか生計を立てられない青年が住めるような場所ではないと、そう考えていることも分かっていた。

「いろいろあってね」

 そう言って一角にある建物の扉を開ける。白く塗装された概観に、照りっと光る黒塗りのドア。そのドアを開ければ赤い絨毯が敷かれた廊下と階段が現れる。壁はくすんだ青に小さな花が散りばめられた模様で覆われている。

 手摺を掴みながらセオドアが階段を上っていく。

「ミューシェはいつの時代に生きていたんだろうね」

 セオドアから放たれた言葉は深い意味を宿してはいないのだろう。しかし答える事の出来ないミューシェが黙り込む。その様子を察したのか、振り向いたセオドアが笑顔を向けると話を逸らした。

「いつもは大家のメアリー夫人がいるんだけど。今日は出かけて遅くなるみたいだから明日挨拶をしようか」

 義足をはめておらず、慣れない松葉杖では階段を上るのも一苦労だった。危なっかしい背中をミューシェが支える。

「ごめんね」

 背中越しに聞こえた言葉にミューシェの顔が曇る。「ごめん」と今日だけで何度聞いただろうか。セオドアの背中にあてがわれた手がぎゅっと熱くなった。


 階段を上りきると、部屋の前に夕食が置かれていた。大家のメアリーが置いて行ったのだろう。コールドビーフの横にはサラダとポテト、パンが添えられている。別の皿には小さなパウンドケーキが乗っていた。質素だがいつも丁寧な食事にはセオドアも感謝していた。

「ここがテオの部屋?」

 ミューシェがドアを開けて中へ入る。部屋の中から外に突っ立ったままのセオドアに目を向ける。

「入らないの?」

 セオドアが入り口越しにミューシェを眺める。いつもの部屋なのに、そこにミューシェがいるだけなのに、なんだか部屋の中が明るくなった気がする。そんな事を何んとなしに考えていた。

 薄暗い灯りはいつもと変わらないはずなのに、内側から照らされているかのように明るく温かい。絵画の話をしていたからだろうか。部屋のドアはまるでこの世界から天界を切り取るための額縁。額縁は絵画を際立て引き立てる。そして部屋の中からこちらを見ているミューシェはまるで絵画に描かれた天使のようだった。

 そうだ、ミューシェは本当に天使なのだ。

「もう! 閉めるよ。早く入って」

 ミューシェの急かす声が聞こえた。その声にセオドアの意識がうつつに引き戻される。

「ごめんごめん。そんなに急かさないで」

 セオドアが部屋に入るとミューシェが夕餉のお盆を中へと運ぶ。

 二人が姿を消した後、ドアがパタリと音を立てて閉まった。



 一夜明け、朝日が分厚いカーテンの隙間からすっと差し込む。漂う塵をキラキラときらめかせる陽光がセオドアのまぶたに落ちた。

 ドアの外からとんとんと階段を上る音が聞こえる。下宿宿の大家であるメアリーが朝食を携え部屋の前にやってきた。グレーヘアーを上品に結い上げ、小さいながらもしゃっきりと伸ばした背筋が若々しい。

 メアリーが部屋の前まで来るとドアを軽くノックする。いつもならしばらく経ってセオドアが顔を出すのだが、この日は様子が違っていた。なにやら中が騒々しい。騒々しいというよりかは賑やかと表現するのがふさわしいと感じる。

「僕が行く!」

「いいから、大丈夫だよ」

「テオは座っててってば」

 言い合うような声がドアへと近づいてくると、喧噪と共に勢いよく開いた。

「メアリー夫人、おはようございます」

 ミューシェがお盆を受け取ると微笑みかける。和らいだ空気が漂い、さきほどの騒がしさが嘘のようだ。突然現れた天使のような青年にメアリーが目をまんまるくして固まっている。

 驚くメアリーに馴染みのある声が中から聞こえて来た。

「すみません、昨日ちゃんと挨拶ができていなくて。昨日からこちらの友人もここに住むことになりまして」

 ようやくぱちくりと瞬きをしたメアリーが再びミューシェに視線を向ける。相変わらず柔らかい目元と口元がメアリーに向けられていた。

「ダメだったでしょうか……」

 心配気なセオドアの目にメアリー夫人の怪訝そうな顔がうつった。

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