Ⅱ Pure White Wish

「天使はね」そう話し始めたミューシェの横顔はやはり神秘的だった。

 確かにそこにいるのに肌が光を纏いぼやけると消えてしまいそうだった。集まった光がミューシェの周りに光暈こううんとなり現れる。ぽわっと光の輪となり現れる光暈。それこそが天使の輪の正体なのかもしれないとセオドアがぼんやり考える。

「100年に一度、すべての天使は願いを乞うことが出来る。もちろんするかしないかは自由だけど」

「願いが叶うなら、みんな望むんじゃない?」

「そうでもない。天使の願いはリターンが大きいものほどリスクも大きいから。でも僕は願った。天使の務めから逃れたいと。それには自分の罪を知ることが条件だと。そして僕の罪は人間の描いた絵画に描かれていると知らされた。だから人間界に降りた。僕は自分の罪を描いた絵を探している」

 セオドアはミューシェの言葉一つ一つを理解しようとする。しかしあまりにも現実離れした話に混乱しているのか、眉間のしわがどんどんと深くなっていく。

「こんな話、信じられるはずないよね」

 何かを期待していたけど諦めた様な、少し悲し気な声が漏れた。

 一度大きく唸ったセオドアが心を決めたように眉間のしわを解き、目を細め笑みを作る。こちらは考えるのを諦めた様な、吹っ切れた表情だった。

「とても驚いたけど、信じるよ」

 セオドアがミューシェの首筋に手を伸ばし、何かを掴み取る。その手には一枚の羽根が掴まれていた。

「僕は君の翼を見てしまったから」

 今度はミューシェの目が見開かれる。頬が紅潮し、嬉しさが滲みだす。

「それで、ミューシェの罪が描かれた絵を見つけられればその務めから解放されるの?」

「うん。自分の罪を知ることが出来れば天使の務めから永遠に解放される。

「――死」

 言葉を詰まらせたセオドアに気付いていないのか、ミューシェが淡々と話を続ける。

「ただ、問題があって」

「問題?」

 ミューシェがセオドアの目をじっと見つめる。

「天使は。罪が描かれたような絵は見えないんだ」

「だから」と一度言い淀み、決心したようにセオドアへと身を乗り出した。

「だから! 手伝ってほしい。僕の罪を探すことを!」

 突然天使が空から降ってきた。自分の元へやってきたことは偶然なのだろうか。自分でなければ天使だと信じてもらい、絵を探す協力を仰ぐことはできたのだろうか。

 天命とは、あるのだろうか。

 固まっていたセオドアの表情が和らぐ。

「分かった。これも何かの縁だ。手伝うよ。天使からのお願いなんて断れないからね」

 その優しい微笑みにミューシェの頬がぽっと赤らんだ。

「そうだ。ねえミューシェ、あの絵は見える?」

 セオドアが思いついたように店内にある一枚の絵を指さした。ミューシェが首を振る。

「素敵な額だけど、絵はぼやけて見えない」

 セオドアの口からぽつりぽつりと絵画について語られる。

「ある庶民の家の中。

 一人の男が椅子に腰かけている。

 テーブルや手元には食べ物がある。

 薄ら白い骨の付いた肉。黒みを帯びた茶色いパン。

 手に持っている鈍色にびいろの銅杯に入っているのは酒かな。

 男はくすんで灰色がかった緑色の服を纏い、太鼓腹がはちきれんばかりだ。

 足元にはすがるような子供が一人。

 ああ、床に焚かれた火の元にはスープまである。

 でも男はそれを一つとして子供に与えていない。

 

 とても、残酷な絵だね」

 もう一度ミューシェが首を振った。

「それは、僕じゃない」

「よかった」とセオドアが満面の笑みになる。その眩しさに当てられたように、ミューシェがふいっと顔を逸らした。

「ぼ、僕の手伝いとしては申し分ないね」

 顔を逸らせたままのミューシェに手を差しだす。

「セオドア。セオドア・ウェルズリー。テオって呼んで」

「……テオ」

 差し出した手が、恐る恐ると握り返される。しかしすぐに信頼が溶け合うように、お互いが温かい手のひらの感触を確かめ合った。


 頃合いを見計らったようにクラリスが奥から顔を出す。

「ぶどうジュースでいいかしら?」

 すっかり喉が渇ききっていた二人の前に薄い赤紫色の果汁が入ったグラスが置かれた。

「ありがとうクラリス」

「何の話をしていたのかしら?」

 セオドアとミューシェがさきほどの絵に視線を向ける。その視線を追うようにクラリスが絵の方に顔を向けた。

「あら、あの絵について話していたの? 素敵な絵でしょ?」

「こんな絵をパブに飾るなんて、君らしいね」

 苦々しく笑うセオドアに「みんなへの戒めよ」とクラリスが澄まして返す。

「ところで、こちらの紳士さんはどちらの方だったの?」

「ミューシェって言うんだ。あー、えっと、今旅をしていてここに来たみたい。そういえば、ミューシェ、泊る所は……」

「あるはずはないか」と語尾をすぼめる。案の定ミューシェが横に首を振った。

「それなら、俺の家に来る?」

 どうしてそんな事を言ってしまったのか分からない。さっき出会ったばかりの、天使だと自称するミューシェに。

 加護を受けたいだとか、徳を積みたいと思ったわけではない。ただ、ミューシェがいる空間がとても美しかった。華やかで、セオドアが抱えている痛みや苦しみも光が吹き飛ばしてくれるんじゃないかと思った。後から考えればミューシェを助ける振りをして、なんて自分本位だったんだろうと思う。

 それでもセオドアの提案を聞いたミューシェの顔がぱっと明るくなり、何度も頷く。

「じゃあ、旅人のミューシェちゃん。これを持っていったらいいわ」

 両手に抱えた布をミューシェに手渡す。大きな荷物にミューシェが首をかしげた。

「使えそうな服をまとめておいたの」

 優しく笑うクラリスにミューシェの表情が再び輝く。その場に立ち上がったミューシェが右手を体に添え、左手を横方向に差し出すように伸ばした。そしてそのまま右足を後ろに引くと美美しくお辞儀をした。

「僕には分かる。クラリスはとても美しい人」

 荷物を受け取ると、クラリスの手の甲にキスをする。

「まあ」とクラリスが片手を頬にあてがい感嘆をもらす。

 セオドアと言えば、その光景を唖然としながら見つめていた。そしてぼんやりと考えていた。

 このような光景を見たことがある。それはどこかの美術館で見た絵画。まるで天使がかしずくように一人の女性に花冠を差し出す。それは祝福の意。

 ミューシェは過去に罪を犯した。故に天使となり死者を迎える務めを強いられていると言っていた。しかしやはりミューシェは天使なのだ。崇高で気高い、天使なのだと思わずにはいられなかった。


「じゃあミューシェ、いったん家に戻ろうか。荷物も置かなきゃだし」

 セオドアが椅子から立ち上がる。とたんに義足を付けた足がバランスを崩し倒れそうになった。

 慌てて支えようと差し出したミューシェの手が強く弾かれる。弾いてしまったセオドアが気まずそうにする。不本意であり、条件反射だった。

「ごめん。大丈夫だから」

 すぐに笑顔を作り直すセオドアにミューシェが言葉を失っている。差し出した手を仕舞えずにたたずんでいた。その様子を見ていたクラリスは困ったような、少しだけ悲しそうな表情をしていた。

「テオ、明日はよろしくね」

 気まずい空気を割くように明るくクラリスが声を掛ける。

「う、うん。明日の晩、また来るよ」

「ええ」

 クラリスの返事を聞くと店の外へ出る。まだ日は高い。しかし先ほど現れていた天使の梯子は消えていた。

 杖を突き数歩歩いたセオドアがミューシェの方に振り向いた。

「ごめんミューシェ、一つ寄り道をしてもいいかな?」

「もちろん。かまわないよ」

「義足の調子が、悪いみたいなんだ」

 言いにくそうにするセオドアの足元を見る。さっきは急ぎ足でここまで来れたのに、確かに今は歩きづらそうだった。

「もしかして、さっき急いで僕を店に連れて行ったから?」

「いや、大丈夫だよ」

「大丈夫」その言葉を聞いてミューシェが顔をしかめる。どこか不満げに、セオドアの後をついて行った。


 広い道に商店が並ぶホルボーンで馬車を降りる。超満員の乗合馬車は快適とは言えず、大きく揺れれば体を支えるので精いっぱい。大人数を支える車輪からは土埃が舞う。それでも初めての経験だったとミューシェは終始はしゃいでいた。

「俺は長く歩いたりできなくて、地下鉄ももっと駅が便利になればいいんだけど」

「ううん、楽しかった! また乗ろうね」

 うきうきと先を歩いていくミューシェ。

「ミューシェ、こっちだよ!」

 そう声を掛ければ軽やかに振り返る。

 街の一角にある装具屋の扉を押し開けた。ベルが来客を知らせる。その音に反応するようにしかめっ面の男が顔を上げた。筋肉質でセオドアより大柄な男。髪をオールバックにセットし、それがさらに威圧感を大きくしている。男が座る作業台の上には木製の手が組み立てられている。

 難しい顔をしていたのは、義手を作る過程で細かい作業に専念していたのだろう。しかし上げた視線の先に現れた人物を確認すると、男は大きく口を開け笑顔で立ち上がった。

「おお! テオじゃねーか。どうした」

「セドリック、ちょっといいか?」

 その大柄で豪快な男を前に、ミューシェがセオドアの背中に隠れた。

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