罪を描く絵画
明日乱
First Painting
Ⅰ Encounter with Gold
産業革命を経たイギリスの中心地、ロンドン。鉄道が走り電気が通り、様々な産業が発展するとますます町は賑やかになった。
そんな街の光景を眺める。少しでも光をもたらす存在になれれば、なんておこがましい考えをしているわけじゃない。
ただ好きなのだ。この町で弾くヴァイオリンと、この音を聞いた人々の笑顔が。
「おはようテオ」
朝の街中、通行人に声をかけられ丁寧にお辞儀を返したのはセオドア・ウェルズリー。ひと月前に26歳の誕生日を迎えた青年。180cmほどの身長に華奢な体型。少し癖っ毛な栗色の短髪が人懐っこい笑顔に似合い愛らしい。そんなセオドアは朝から街角でヴァイオリンを奏で、通行人たちを見送る。皆にテオという愛称で呼ばれるセオドアの放つ音色は周りの人々をいつも魅了していた。
「テオ、今日もいい演奏だな」
一人の男性が蓋を開けたまま置かれているヴァイオリンケースにコインを投げ入れた。
「ありがとう、トビー。トビーに素敵な一日を」
演奏を続けながらセオドアが笑顔で返す。
大通りを行き交う通勤者や馬車、カフェの開店準備をしている女性や路上販売から新聞を買う紳士、それらは日常の光景だった。
紳士が脇に抱えた新聞紙に「1900年10月15日月曜日」と書かれた日付を見つける。もうすぐ秋が深まる季節かと、セオドアの心が躍った。
しかしふとヴァイオリンケースをのぞいたセオドアが眉をひそめ苦々しく笑う。
「今日はまずまずかな」
ケースの中に散りばめられた少しばかりのコイン。これが今朝の儲けだった。踊っていた心も冷静になっていく。
近くに立てかけてある杖の元までぎこちなく歩いていく。右足の義足には慣れていたが、それでも動く時の不自由さはいつまでも付いて回った。
片足が義足であるがゆえに労働は制限され、貧乏を強いられていた。しかし好きなヴァイオリンを弾いて送る生活が幸せだった。
「やっぱり……もう一曲」
お金にならなくてもいい。こんなどんよりした曇りの日はすこしでも明るい音を奏でていたかった。
ヴァイオリンの弓を構え息を吸うと、優しい色を空に放つ。
するとセオドアの音が届いたかのように雲がゆっくりと割れ、徐々に空から光が漏れ始めてきた。
厚い雲間から光が一本、二本。どんどんと雲を突き破り、大通り、テムズ川、セントポール大聖堂の屋根、街中へと光が降り注いでいく。セオドアがその光景に目を細めた。
「天使の梯子か。なんて美しい」そう心の中でつぶやいた瞬間、セオドアに向かい一筋の光が突き刺した。あまりの眩しさに思わず目を瞑る。
目を瞑った頬を、ふわりと柔らかいものが撫でる。それと同時に何かが腕の中に飛び込んできた。セオドアがゆっくりと瞼を開ける。そして大きく目を見開いた。
目の前には、柔らかく風を含んだ薄いブロンドの髪。
髪と同じ金色の睫毛からのぞく透き通ったブルーアイ。
ふっくらと滑らかな肌は透き通りそうなほど白い。
そんな純白を染めるピンクの頬と唇。
その顔がじっとセオドアを見つめていた。
空から降ってきたそれをセオドアが受け止める。
「羽!?」
何よりも驚いたのが真っ白く大きな翼。まるでふたりを包み込むように翼が閉じると羽根が舞い散る。
――太陽の匂いだ。
セオドアが目の前の美しい人に見惚れる。
しかしはっと我に返ると慌てだした。
「き、君、服は――!」
ブロンドの持ち主は純白のローブ一枚しか纏っていない。靴も履いておらず裸足のままだった。
見上げてくるその面立ちは22、3歳くらいだろうか。いや、年齢や性別という概念が意味を成さないほど神秘的な出で立ちだった。
「君、一人?」
セオドアが着ていた上着をローブの上から被せる。キョロキョロと辺りを見回すが、連れ人と思しき人は見当たらない。ブルーアイはじっとセオドアを見つめたまま質問に答えることはない。
行き交う人々は訝し気に二人を見て通り過ぎるが、どうしてかその大きな羽は見えていないようだった。セオドアは急いでヴァイオリンを仕舞うと白く柔らかい手を引き歩き出す。
大通りを抜けた先にある一軒のパブにたどり着くと、店の扉を押し開けた。
セオドアが勢いよく開けたドアがベルを鳴らす。しかし中に人影は見当たらない。
「クラリス! クラリス、いる?」
店の中に向かいセオドアが叫ぶ。しばらくして階段を降りてくる足音が聞こえた。店の奥の扉から一人の女性が顔をのぞかせる。すらりとした体型に健康そうな肌色。くっきりした目鼻立ちは自立した女性を思わせるが、同時に面倒見のいい優しさが滲み出ていた。
「何、こんな朝から。まだ起きたばかりよ」
服こそ着替えていたが、無造作に結い上げた髪がまだ準備段階だと物語っている。
「ごめんクラリス、実は、その」
言葉を詰まらせるセオドアの後ろ、ぴったりとくっついている人影に気付くとクラリスが目を丸くする。
「テオ、その子は……?」
「事情はよく分からないんだけど、さっき出会って。こんな格好だし、とりあえず服を貸してあげてほしくて」
焦りながら事情を説明するセオドアをブルーアイが見つめている。笑いもせず、困りもせず、しかしその目はセオドアだけを見つめていた。目線をあわせるようにセオドアが腰をかがめる。
「彼女はクラリス。クラリス・マクレガー。心配しないで、俺の大切な友達だから」
セオドアの言葉にクラリスの耳がぴくりと動いた。
「服を貸すのはいいけど、本当にどこの誰かも分からないの?」
「それはたぶん――、いや、後で話は聞くから」
「クラリスに任せて。いいね」と優しく諭すと、ブロンドヘアが一度だけ頷いた。半ば強引にクラリスに預けると、クラリスが奥へと誘う。ローブを纏ったままの後ろ姿はセオドアに視線を残しながらも扉の奥へと入っていく。その背中を見たセオドアが目をこする。不思議な事に先ほどまで確かにあった翼は消えていた。
ようやく一息ついたセオドアが店内の椅子に腰かける。右足をさすりながら先ほどの事を思い出していた。
「まさか。いや、まさかだよな」
ぶつぶつと独り言をつぶやいていると奥の扉が開く音がした。その方を見遣ったセオドアが目を瞬かせる。クラリスの後ろから服に着替えた人物が顔をのぞかせた。
「その子、女の子じゃなかったのか!?」
あまりの驚き様にクラリスがくすくすと笑う。ついさっきクラリスも同じ驚きを味わったらしい。
「出ていった兄の服がぴったりだったのよ」
そう話すクラリスの背後には紳士服に身を包んだ麗人がこちらを見つめている。
すっかり貴公子のようになった青年が驚いたままのセオドアに近づいていく。その様子を見たクラリスが場の空気を汲み取った。
「あなたに何か話したいのかしら? 私は支度があるからここを使ってくれていいわよ」
「すまない」と謝るセオドアの横で青年も頭を下げた。
クラリスが再び店の奥に入っていくと、二人が向かい合い座る。改めて正面から見た青年にセオドアがつい見惚れる。まるでそこにだけふんわりと光が差し、いまにも花が咲きだしそうなくらいあたたかい。そしてやっぱりほんの少し太陽の香りがした。
「さっきはびっくりしたよ。いきなり君が現れて。とても美しかったから女の子かと思った。ごめん」
セオドアが口元を搔きながら話す。謝られて尚、青い眼差しと桃色の頬は表情を変えない。
「気のせいかもしれないんだけど」
セオドアが言いにくそうにしながら目の前のブルーアイをのぞき見る。
「さっき君が現れた時、羽が見えたんだ。バカな事を言ってると思うかもしれないけど、本当に――」
「天使」
始めて聞こえたその声にセオドアが視線を上げる。まるで歌うような、小鳥がさえずるような、風がそよぐような声だった。
「僕は天使で、名前をミューシェという」
そう告げられたセオドアは目をまんまるくする。瞬きを忘れるほど驚くセオドアをよそにミューシェが話を続けた。
「僕は生前に罪を犯した。天使は罪への償い。一生天使として仕え続ける。もう何百年も仕えてきた」
「罪を犯した……。それでも天使は神聖で、とても尊い存在だよ」
その言葉を聞いたミューシェが苦しそうに目を細める。
「僕ら罪を犯した天使が与えられるのは死者を迎える事。それは考えるよりも壮絶な場面ばかりを経験する」
ほとんどの人が絵画や本の中で天使をみたことがあるだろう。それはどれも美しく、純白で、幸福の象徴かのようだった。中にはいたずら好きな天使や悪さをするものもあったが、人間にとっては愛らしい戯れとして描かれていた。
「僕は天使の務めから逃れる為に地上へ降りた」
「務めから逃れる? そんな事が出来るのか?」
セオドアに真剣なまなざしが向けられる。まるで心の中を見極められているようだった。
「天使の務めから解放されるたった一つの方法。
それは『自分の罪を知る事』」
青い目がセオドアを突き刺す。緊張でセオドアの体が強張った。
「罪を知る……それはどうやって」
セオドアが乾いた喉へごくりと唾を押し込んだ。
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