第16話 過去の記憶

 ぎゅっと凝縮された時間。

 それは夢の時間。


 この世界に来てから生まれ変わる前の事は、まるでモヤが掛かってるみたいに掠れて、上手く思い出せない。

 自分の事、親の名前や顔、私を無理やり引っ張ってくれた友達のことも。


 それでも、どれだけ時間が経っても色褪せない、ひとつのな思い出。




 ◇




「貴女はいつもいつも!なんでそんな顔なの?!……仕事から帰ってきた親くらい、笑顔で迎えなさいよ!!」

 

 私が物心ついた時、すでに母はヒステリックで、物や人に当たり散らし、その姿を見るに耐えかねた父は、他に女を作って出て行ったらしい。

 ……母の支離滅裂な発言の欠片達を集め、まとめた結果なので、多少の脚色はあるが、おそらくそこまで間違っていないと思う。


「この馬鹿娘……たまには心から笑顔で「おかえりなさい」の一言くらい言ってみなさいよ、私の子でしょうが!!」


 父が出て行ってから当たる対象は、私へとすぐに移り変わった。


「はい。おかえりなさい。お母さん」

「だから!違うって!言ってるでしょ!!」

 

 毎日毎日飽きもせず、何度も殴られ、叩かれる日々。

 

 でも、痛みで泣いてしまった日には、何も食べさせてもらえなかったので、母から何をされても顔が崩れないよう、表情を固定する訓練をした。

 そんな事をしてるのもあって、血の繋がった自分の母親というのを理解していても、とてもこの人相手に、笑顔を見せる気持ちは湧いて来ない。


 うちの母は控えめに言っても屑だった。

 顔も名前も覚えて無いけど、された事の記憶はまだ思い出せる。

 あまりニュースになっていないだけで、こんな家庭はきっとゴロゴロ存在するだろう。


 とはいえ、この生活もまだギリギリ耐えることができた。


 その理由。

 それは母親を下に見ていたからだ。

 

 明確な言葉の表し方を、覚えているわけじゃないけど、自分よりヤバい人を見るとスッと落ち着く、みたいな言葉があったはず。

 母は体が大人になっておきながら、思考のソレは成長していない。

 子供が子供を作ったのだと、幼いながらにして私は理解してしまった。

 

 これがとても傲慢な事だとは、誰に言われなくとも分かっている。


 ただこの考えに至ったからこそ、消えてしまった父を恨むことは無かったし、それに私も母を捨てる覚悟が出来た。


 覚悟を決めても、思う。

 

 周りにいるクラスメイトのような、家庭の在り方が羨ましい。

 家族から愛されて過ごすみんなの姿を、ガラス張りのケースから、私は黙って見つめているだけ。


 これが1番の苦痛だった。


 

 ---


 

 中学生になったばかりの頃、帰宅してすぐに眠ってしまった母から、少しばかり金を盗み、私は家出を決行した。


 考えなし。

 雨夜を傘も刺さずに、まばゆい光と雑踏が入り混じる中を歩き続ける。


 特に行き先も……どうしたいかも決めていない。

 でも、母の手が届かない場所に行きたくて、とりあえず近くの駅へと向かった。

 



 私は何も考えず、適当な切符を買ってホームへと立った。

 

 耳に響くアナウンスの声、そして誰かの足音がリズムを刻む。

 周囲の雑多な音が、まるでその一つ一つが思考を促すかのようで……


 母から離れる方法。

 この年齢でそんなものが存在するのだろうか?

 どこへ向かえば良いのか?

 

 自分にはとても思いつかない。

 

 そんな事を考えていると、遠くから列車の走行音が聞こえてきた。


 ありえないくらいのタイミングの良さ。

 これは神様がくれた天啓。

 

 愚かな私はそう信じて疑わなかった。

 

 不思議な事に恐怖が湧いて来ない。

 一歩ずつ、吸い込まれるように、ホームの外側へ歩いていく。

 

 そして最後の一歩で――


「あっぶな〜い!」


 誰かのその言葉と同時に、腰を両手で掴まれた感覚がした。

 

 邪魔が入った。


「あれ?君、同じクラスになったحبさん?」

「そう……です」

「も〜、ダメじゃん。あと一歩で死んでたんだよ? ちゃんと前見て歩かないと」


 身振り手振りで元気にそう促す女の子。

 

 いや、クラスメイトと呼ぶべきかもしれない。

 私は関わらない人の顔なんて、あまり覚えてないけど……

 

 母から解放されるための道を、何の恐怖も抱かず歩けそうだったのに、足止めされてしまった。

 

「……なんで助けたんですか? あのまま、あのまま進めば死ねたのに……」


 それが少しだけ腹立たしい。


「え、マジで死ぬ気だったの?ってことは他にやることが無いって事だよね?……ゲームしたことある、ないよね?」

「何を言いたいのか分かりませんが、貴女に使う時間はありません。どっかへ行ってください」

「ない!おっけーですありがとう!じゃあ私の家に行こう!」


 人の話を聞かず、ただただ自分の要求を通そうとしてくる人間との出会い。


「何故そうなるんですか、行くなら1人で行ってください」

「最近は負けてばっかりで、つまんなかったんだよね。かと言って他の女の子相手に勝ったらあとで陰口を言われそうだからさ、君みたいなフリーな……」


 長々とくだらない理由を話すクラスメイト。

 私が何度も言い返しても意に返さず、喋り続ける女の子。

 

 死ぬのに失敗したし、自殺はまた明日にでもすれば良いと思って、この女の子について行くことにした。



 

 この子の家に着いて早々に……

 

「こら!※△◆、こんな時間に帰ってきたと思ったら……誰だその子は!」

「私は今からこの子とゲームするの!」

「ダメだ!今すぐ元の場所に戻してきなさい!」


 当たり前といえば当たり前。

 中学生がこんな時間に人を連れてくるな、というのは一般常識のようなものだろう。

 これでまたすぐに、独りの時間へ戻る。

 

「嫌!!」

「いやかぁ……なら、しょうがない」


 とはならず……

 そしてこの出会いは、私にとっての転機だった。

  



 ---


 


「いっぱい遊んだね〜、久しぶりに良い勝負が出来て楽しかった!ま、私の勝ちだけど!」

「……はぁ」

「それじゃ、何で死のうとしたのか教えてよ」


 別に隠すような事でもない。

 明日には全て終わる話だから。


「それは――」


 私が親から虐待を受けている事を話すと、この子はすぐその事について怒り出し、私を連れて父親に相談をした。


 すると、


「なんだそんな事か」

「パパ!そんなことって何!!」

「いやいや、そういう意味で言ったわけじゃない。こんなのはコレで――」


 そう言ってサッと取り出したのは、複数枚の万札。

 

「簡単過ぎるくらいに解決する」



 ---


 

 この男の言う通り、それは本当に解決してしまう。

 詳しいことは分からないけど、母と会わないで良い状況になった。


「貴女のお父さんは、随分とお金を持っているみたいですね……家を見れば分かる話ですが」

「そうそう、だから暫くは一緒に暮らす事になるよ。これで実力が同じくらいの子と、ずっとゲームが……」


 またもや長々と話をし始めるクラスメイト。

 

 ただこの子は私にとっての、命の恩人とも言える。

 あの母から解放してくれたのだから。

 やっとここから、みんなと同じ人生を歩くことが出来る。


 私の内心は大喜びだった。


「そうですね……ふふっ、ありがとうございます」

「え……何でいま笑ったの。笑ったらそんな顔するんだね」


 その言葉にハッとする。


「笑ってなんていませんよ。これはその…………なんて言うんでしょうね」




 ---




 それから一年ほど経過する。


 結論から言ってしまえば、私の胸中は幸せと呼ぶには程遠かった。

 

 確かに母からの解放は嬉しい。

 だけど懸念すべき点が2つある。


 一つは、この家から捨てられてしまう可能性。

 それを毎日のように考え、気がかりで仕方なかった。


 この子が私を拾った理由は言ってしまえば、くだらない遊びで、ボコボコに出来る相手が欲しかったからだ。

 それは私が圧勝できてしまう状況になったら、お払い箱も同然では無いだろうか。


 そんなこともあって、ゲームをする時はいつもこの子の顔色を伺っていた。

 

 いつ怒り出すか分からない。

 捨てられる予兆を見逃さないために、この子だけではなく、この子の家族達の顔も、じっと見つめていた。



 ---

 


 そしてもう一つ。


「※△◆、誕生日おめでとう!」

「ハッピーバースデー!!」

「おめでとうございます」

「パパとママ、そして‎حب、みんなありがとう〜!」


 この子の誕生日。

 それはとても喜ばしい日だ。


 私を救ってくれた恩人が、生まれた日なのだから。


 だというのに、なんだろう。

 この気持ちは。

 まるで私だけ、壁の隅に追いやられているような感覚。

 

 理由はすぐに分かった。


 その正体は疎外感。


 こんなものは感じて当たり前。

 何で人の誕生日になるまで、分からなかったんだろう。

 人の幸せが大きなカタチを取る日にならないと、気づかない自分の無神経さが嫌になる。

 

 考えてみれば私はどの面を下げて、ここに座っているという話だ。

 ただの他人が、ガラス張りのケースから見るだけで飽き足らず、人の家庭を踏み荒らしている。


‎「حب、どうしたの? どこか体調悪い?」


 久しぶりに死にたくなった。

 私の幸せはここでは実現しない。


 そして本当の願いは、母からの解放ではないのも理解した。

 

「いえ……私を助けてくれた貴女に、どう感謝を伝えようか、迷っていただけです」

「それはもう言っちゃってるじゃん。全然気にしなくて良いんだよ? 妹が増えたみたいで楽しいし……」

 

 この子に依存するしかない身でありながら、疎外感を感じ、勝手に絶望して、胃から酸っぱいものが上って来るくらい、気持ち悪くなっている自分。

 

 完成された家庭に、私の存在はいらない、

 


 ---



「急にどうして……なんで家に戻るなんて言い出すの? حبの家はここでしょ?」

「そうですね。貴女にはすごく感謝しています。でもたまには血の繋がった家族にも、会うべきだと思うんです」

「そう……だね……じゃあ酷いことされたら、すぐに戻ってくるんだよ?良い?」

「はい。それではまた学校で会いましょう」



 

 そして歩いて、電車に乗りながら考える。

 

 母とのやり直しを。

 どうすれば家族として、再スタート出来るかを考える。

 

 あの人は私の笑顔を見たがっていた。

 それなら次に会ったら、その求められていたもの見せてあげれば良い。

 とびきりのものを。


 あと、あの子に教えてもらった手料理を、振る舞うのも良いかもしれない。



 ---



 久しぶりの家。

 帰ってきたのは良いけど、歩く場所が無いほどゴミだらけだ。

 

 中に母はいない。

 丁度よかった。


 さっさと掃除を終わらせ、ご飯を作る準備をする。

 そして仕事から帰ってくる母のために……


「おかえなさい、お母さん。おかえりなさい、お母さん。おかえりなさい、お母さん。おかえなさい……」


 1時間前から玄関に待機して、笑顔で迎えるための練習をする。


 大丈夫。

 幸せな未来を想像しながらすれば、失敗なんてしない。

 間近で家庭のカタチを見てきたのだから、それの真似をすれば良いだけ。


「あれ?……鍵なんて掛けたっけ、クソ……めんどくさい……」

 

 そんな事を考えていると、家の鍵が開き始める音がした。

 母が帰ってきたのだ。


 本番の時間。

 少しだけ緊張する。


 そしてゆっくりとドアが開き、私と母の視線が交差する。

 

 会話の主導権は私が取らなければいけない。

 まずは私から挨拶だ。


「おかえりなさい。お母さん」


 自分では分からない。ちゃんと出来てるだろうか?

 まぁ、沙汰は母が下してくれるはず。

 ダメだったらいつものように殴られるだけ。

 

「…………」

「仕事から帰ってきたばかりなので、疲れてますよね?」

「…………」

「ご飯を作ったので一緒に食べませんか?……少しだけ冷めちゃってますけど、絶対に美味しいはずですよ」


 殴りに掛かってこない。

 成功したのだろうか?

 それとも私がここに立っている事に、驚いて固まっているのだろうか?

 分から……


「حب……!」


 声が震え、途切れながらも、私の名前を呼ぶ声が耳に届く。


「本当に、本当に……貴女なの……?」

「はい、そうです。えっと……もしかしてお風呂が先の方が良かったですか?」


 そして、母は全身をぶつけるように私の前で立ち止まり、戸惑う間もなく抱きしめてきた。

 

 その瞬間、胸元に感じたのは小刻みに震える肩。

 そして、押し当てられる顔の熱さ。

 嗚咽混じりの声が私の耳に直接響いた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……私は本当に酷い母親だった……!」


 これは……幻覚だろうか?

 何故か分からないが、喉が少しだけ詰まったような感覚がする。


「そんなことはありません。いつもお仕事お疲れ様です」


 確かに言う通りの最低な母親だった。


「私は当たり散らしてばっかりで……ごめんなさい、ごめんなさい。حب、貴女を愛してる……」

「おか……あさん……?」

「貴女をちゃんと見てあげれば、よがっだ……もっと一緒にあそんであげれば……」


 服越しに伝わる温もりと、涙で濡れる肩の感触。

 背中に回された腕の力は弱々しいけれど、絶対に離すまいとする必死さがあった。

 こんな母の姿は初めてだ。

 私の胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。

 

「……そうですね。また私達で1から始めましょう。2人の生活を」

 

 私は母の背中を撫でながら答えた。



 ---



 そして食事を摂り、一緒のベッドで寝ることになった。

 同じ布団で寝るなんて、今まであっただろうか?

 私の記憶にはない。

 

 母は笑顔でこれからの事を話している。

 何故こんな状態になったのかは分からない。

 本人に聞きたくあるけど、それは未来の話の妨げになる。

 

 単純ではあるけど、もしかしたら私がいなくなって寂しかったのかもしれない。

 だけどその答えが1番望ましい。

 私も似たようなものを感じているのだから。

 

 まだ家族としての実感はないけど、これならみんなと同じ道を歩く日も遠くないはず。




 ---




 夜の深い時間。

 母がベッドから抜けたのを感じた。

 おそらくトイレだろう。

 そう思って無視した。


 冷たい空気が部屋に忍び込んで、布団の隙間から肌に触れる。

 まるで誰かが背後で見ているかのように。

 微かに目を開けて、息をひそめていると、薄暗い中で何かが動く音がした。


 布団の感覚がゆっくりと消える。

 

 流石におかしく感じたので目を開くと、そこにあったのは――包丁を持った母の姿。


 すぐに危機を感じ逃げようとした。

 だけど気づくのが遅すぎた。


 私が起き上がろうとした瞬間、胸にひと突き。

 深いのを入れられてしまう。


「ごめんなさいحب、ごめんなさい……ごめんなさい」


 起き上がることも出来ず、何度も私を突き刺す母。


 さっき言ってくれた愛してるは、嘘だったのだろうか。

 私のことがそこまで憎かっただろうか。


「おが………………あ……さん」


 理解出来ない。

 この人が何を考えているのかも、どの選択肢を取ることが正解なのかも、生まれてきた意味があったのかすら。

 分からない。


 最低な人生だ。


 泣きたいのは私の方なのに。


「愛してる。愛してる、愛してる!……‎すぐに私も、行くから……次こそは幸せに……」


 泣きながらそう叫び続ける母。


「‎حب!、‎حب!「アイラ!アイラぁ……!」」


 名前を呟きながら、ひたすらに私を刺し続ける屑。

 屑の考えや行動原理は私には理解できない……


 以前の私はそう思っていた。

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