第10話

 ――私が博翔くんにプロポーズをしてから、およそ四十四年が経った。

 博翔くんは六十八歳になって、私は……三百歳ぐらいだろうか。博翔くんに会えるまでの十年間ぐらいしかきちんと数えたことがないから、よくわからない。


 私と博翔くんには、子供がたくさんできた。うまくかえらなかった卵や途中で死んでしまった稚魚を除いて、男女合わせるとおよそ二十人くらい。初めてのわりにはなかなか上出来ではないかと、私はおおむね満足していた。

 子供には全員『海』の漢字が入った名前を付けた。考えるのは大変だったけど、博翔くんも協力してくれたし、人魚の世界ではそれが慣習とされていたから。


 ベッドに横たわって目を閉じ、浅い息を繰り返している博翔くんを、私はぼんやりと見つめた。


 ――あらためて見ると、本当にひろしさんによく似ている。孫じゃなくて、息子なんじゃないかと思ってしまうぐらい。


 箪笥の上に置かれている虹色の巻き貝を、私は手に取った。



 ――今から百年ぐらい前、私の母の海代は、博翔くんのおじいさんである博さんに恋をした。


 ただでさえ卵の数も少なくて、子供も私しか無事に育たなかったのに――博さんが大好きだった母は、あろうことか、私の父を殺してしまった。砂浜で拾ったはさみで、眠っていた父の喉を一突きにして。ほんの百歳の頃に見てしまった父の亡くなった姿は衝撃的で、今でも頭の片隅にこびりついている。


 父が死んでからも母は博さんとの逢瀬を続け、次第に幼い私もついていくようになった。私も人間の世界には興味があったから、人気のない砂浜と海面で、母と博さんが話しているのを隣で眺めていた。


 一度だけ、博さんが娘夫婦を連れて博翔くんと遊んでいるのを見かけたことがある。博さんから家族の話を聞いたことはなかったから、てっきり独り身なのだとばかり思っていた。

 その姿を見た私の心の中は、憎い、というよりも、羨ましい、という気持ちのほうがまさっていた。私たちは海底で、母とたった二人で暮らしていかなければいけないのに――博さんには帰る家があって、守る家族もいるのだ。


 私の複雑な気持ちとは裏腹に、母の博さんへの気持ちはどんどん高まっていった。


 博さんと一緒に住みたい。地上でも、海底でも、どこでもいいから――。

 母が懇願するようにそう言っても、博さんは困ったような顔で笑うだけだった。博さんは泳げなかったし、自分の家に母を連れて帰ることも現実的にはできないと思っていたのだろう。人間の世界では泳げない人のことをカナヅチと呼ぶことも、その時に初めて知った。


 やがて年月が経ち、博さんは母に会いに来なくなって――半狂乱になった母は、暑い夏の日に博さんに会いに行くと言って海から飛び出した。


 それから五分も経たないうちに干からびて、あっけなく死んだ。


 私は母の遺体を回収し、海の底でじっと考えた。

 父もいない、母もいない。暗い海の底でたった一人――。これから、どうやって生きていけばいいのだろう。

 途方に暮れた私は、いつか誰かに出会えることを信じ、博さんに教わった願掛けを真似て髪を伸ばし始めた。それから、過ぎ去っていく時間の中で――私はようやく、博翔くんという人間を見付けた。



 ――手のひらに置かれた虹色の巻き貝を、私は見つめた。


 母が博さんに送った、この貝殻のおかげだ。


 私はそっと、博翔くんに顔を近付けた。


「――博翔くん、ありがとう」


 そうささやくと、眠っている博翔くんのまぶたがぴくりと動いたような気がした。


 私は外に出て、海の底の小さな集落を見つめた。かつてはまったく人気のなかった岩の家に、今はたくさんの子供たちが住んでいる。彼らもいつか、私のように、誰かを好きになるのだろうか。


 私は自分の目に焼き付けるように、海の中に佇んで、華やかな景色を見つめていた。



 参考

 『人魚の姫』 ハンス・クリスチャン・アンデルセン著/新潮社

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海が綺麗ですね ねぱぴこ @nerupapico

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