第8話

 嫌な予感が、さあっと体を駆け抜ける。意識が遠のき、視界が白けて、体がうまく動かせない。

 減圧症だ、と思った。

 海面に浮上するスピードも、潜水の時間や準備も、普段から充分に気を付けているはずだったのに。今日で最後にするつもりだったから、気が緩んでいたのかもしれない。それとも自分で思っているよりも海奈への未練が残っていて、無意識のうちに無茶な潜水をしてしまったのだろうか。

 俺は体の痺れを感じながら、ダイブコンピューターに表示されている残圧量が見る見るうちに減っていくのをぼんやりと眺めていた。それから、自分の人生を思い返した。

 勤務先のコンビニなら代わりはいくらでもいるだろうし、母は二年前に癌で他界し、父は認知症で施設に入っている。俺がいなくなっても誰も困らないかもしれないな、と思ったら、虚しくなると同時に少し可笑おかしくなって、俺はふっと笑った。うまく笑えていたかどうかは、誰にもわからないけど。

 このまま海で死ぬのも、案外悪くないのかもしれないな。

 だって俺は、海奈との約束を最期まで守ろうとしたのだから――。

 そんなことを思いながら、俺は諦めて目を閉じた。


 ――次に意識が戻った時には、俺の頬を誰かがぺちぺちと叩いていた。

 ゆっくりと目を開けると、そこには――

 夢にまで見た、海奈の顔があった。

「海奈……」

 海奈は口の両端を上げ、にっこりと微笑んだ。

 その顔は、十年前に会った時とまったく変わっていないように見えた。――ただ一つ、胸下あたりまで伸びていた黒髪が、耳上あたりまでのベリーショートになっていたこと以外は。

 俺は起き上がろうとしたけれど、頭に刺すような痛みを感じてふたたび横たわった。休んだほうがいいよ、と海奈は言った。

「博翔くん、海の中で意識を失ってたんだよ。一人で潜ってるなんて思わなかった。十年経ったら会いに行くって約束したから、ちゃんと迎えに来たのに」

 十年――十年か。

 その言葉を聞いて、俺は海奈が律儀に年月を数えていてくれたのだと気が付いた。俺は海奈に一刻も早く会いたくて、自分が口にした年数もぼんやりとしか覚えていなかったのに。

「わかってる。人間にとっての十年は、たぶん私たちよりもずっと長いんだよね」

 俺は何も言わなかったけれど、海奈は一人で納得するようにそうつぶやいた。

「……海奈は何も変わってないな。髪はずいぶん短くなったけど」

 俺がそう言うと、

「そうかな。博翔くんは、ずいぶん老けたね」

 余計なお世話だ、と俺が言うと、海奈はふふ、と笑った。

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