第5話

 海奈は言った通りにものすごい速さで水中を泳ぎ抜け、僕は必死でしがみついて目を閉じ、暗闇の中で息を止めていた。


 着いたよ――と声をかけられた僕が思いっきり息を吐き出し、おそるおそる目を開くと、遠くにビル群が建ち並ぶ、見慣れた夜景が目に飛び込んできた。


 海奈は僕の隣で水面から顔を出して、


「人間の世界って、夜でも明るくていいよね。人魚の世界は暗いから。深海魚の明かりがあるし、べつに不便じゃないけど」


 そう言われ、僕は海奈の顔を見た。


 あんなに広いところにたった一人で帰って行くなんて、海奈は寂しくないのだろうか――。


「……僕、大人になったらまた、海奈に会いに行くよ」


 自分でも驚くくらい、その言葉は口をついて出た。むしろ海奈は驚かず、僕の顔をじっと見つめた。


「それって、どれぐらい先のことになるかな」


「わからないけど――上手くいけば、十年ぐらい」


 そう言うと、海奈はふっと笑った。


「人魚にとってはすぐだね。人間の一年くらいかな」


 やっぱり、寿命の計算は合ってたんだ。僕はほっとすると同時に、海奈を笑顔にさせられて嬉しかった。


「……今日のこと、絶対に忘れないから」


 僕が小指を差し出すと海奈がきょとんとしたので、僕は苦笑した。指切りげんまんは、人間の世界にしか存在しないのだ。


 僕は海奈の手を取って、その小指を自分の小指の上に重ねた。

 僕たちはしっかりと約束を交わし、海奈は海の底へと戻って行った。


 ――その日は雷が落ちたように叱られるかと思いきや、ずぶ濡れになって家に帰って来た僕を見て、母は安心して泣き崩れた。父にはおかえり、と声をかけられ、僕は自分がどんなに周囲の人間に大事にされ、心配をかけたかを思い知った。

 だけど、僕の決意が揺らぐことはなかった。


 ――大人になったら、海奈に必ず会いに行く。その時には今以上に周りの人に迷惑をかけるかもしれないけど、初めて自分で決めたことだ。

 僕はポケットから巻き貝を取り出すと、そっと耳に当てた。それから目を閉じて、海奈の顔をしっかりと思い浮かべた。


 暗い海の底でたった一人、海奈が僕のことを待っている。


 それは僕にとって生涯忘れることのない、とても大切な約束事になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る