第4話
先ほどまでいた部屋と似たような古いベッド、箪笥、鏡台。それから――
部屋の片隅に、黒ずんだミイラのようなものが置かれていた。
ミイラはうつ伏せのまま、何かを求めるように右手を伸ばして硬直していた。海奈が僕に何を言おうとしているのかがわからなくて、僕は戸惑いながら海奈を見つめるしかなかった。
「私のお母さん。名前は
そう言われて、僕はひどく混乱した。そもそも時間感覚の理解すらまだ追い付いていないのに、お母さんがミイラになった、と言われてもどう反応すればいいのだろうか。髪の毛も生えておらず、しわがれた老人のような姿のミイラを見ても、その人が生きている頃にはどんな姿をしていたのか、僕には想像もつかない。知らない人のミイラを見てお悔やみの言葉をかけるのも、何かが違うような気がした。
海奈が僕に何を期待しているのかまったくわからないまま、とりあえず僕は思ったことを口にした。
「……ここでは、死んだ人魚をミイラにする慣習があるの?」
古代エジプト人と似たような感覚かと思った。が、違うよ、と海奈は面白そうに答えた。人魚がそういうものなのか、そういう性格だからかはわからないが、海奈は表情の変化が乏しくて、ほとんど声の調子でしか気持ちが推し量れない。
「私のお母さんは、地上に出ようとして死んだの。人魚は地上に上がると水が足りなくて、干からびて死んじゃうから」
――夏の下校中に歩道の真ん中に佇んでいた、干からびて黒ずんだ蛙の姿が頭にぱっと浮かんで、僕は息を呑んだ。それから、童話の人魚姫はどんな終わり方だったっけ、とぼんやりと考えた。泡になって、魂だけになったんだったか――。ミイラになっても、人魚だったらいずれはそうなるのだろうか。
「日がかんかんに照った、夏の日だった。私は絶対に無理だって止めたんだけど、お母さんは全然聞いてくれなかった」
海奈はそれ以上何も言わず、母のミイラをじっと見つめていた。その顔はまったくの無表情で、悲しんでいるのか、悔やんでいるのか、怒っているのかすら、僕にはよくわからなかった。
沈黙が気まずくなって、僕は辺りを見回した。すると鏡台の上に、見覚えのあるものが置かれていることに気が付いた。僕はポケットから、それと同じものを取り出した。
――それは、僕がじいちゃんの家から持って帰った巻き貝だった。
「あ、それ」
海奈が僕のほうを見て、何かに気付いたように言った。
「この辺にいる巻き貝の貝殻だよ。私も持ってる。不思議な色だから、見てると落ち着くよね」
海奈は鏡台の上に置いてあった巻き貝を手に取ると、しげしげと眺めた。
――ここにあるものを、どうして僕の祖父が持っていたのだろう。そう尋ねると、海奈は首をかしげながら答えた。
「さあ、なんでだろう。波に流されて地上に流れ着いたのかな」
巻き貝を見つめていた僕は、ここに来る前に不思議な歌声を聴いたことを思い出した。あの歌は、ひょっとして――
僕の気持ちを悟ったかのように、海奈は唐突に歌い出した。
それは、水上バスのテラスで聴こえた海の中の歌声そのものだった。今までに聞いたことのない異国の言葉のような歌詞で、まったく知らない曲だったけれど、はっきりとしていて力強く、聴いているとどこか安心するような声。その歌を聴いていると、辺りの景色が遠のき、体がふわふわと浮いたような感じになって、次第に力が抜けていった。
「綺麗な歌でしょ。お母さんが教えてくれた」
海奈の声で、僕ははっと我に返った。
僕を見つめ、微笑んでいる海奈の顔を見て――その歌につられてここに来たことを言う気もなくなるぐらい、心臓が大きく鳴った。
そんな僕の様子に気付くことなく、歌詞の意味はわからないけど、古代の人魚語なのかな、と海奈は続けてつぶやいた。
家から出ると、海の中はすっかり暗くなっていた。チョウチンアンコウやホタルイカの発するぼんやりとした光だけが、辺りをおぼろげに照らしている。
海奈はおもむろに顔を上に向け、
「ひろしくん、そろそろ帰ったほうがいいよ。たぶん、ご両親も心配してるだろうし――」
僕の名前はひろとだよ、と言うと、そっかごめん、と海奈は言った。
「でも、ここから帰る方法なんてあるの?」
「私は本気で泳ぐとすっごく速いから、博翔くんが息を止めてる間に海の上まで送ってあげる」
それって――ものの一分以内で僕を連れたまま浮上できる、ってことだろうか。
サイヤ人ぐらい速いのかな、とつぶやくと、なにそれ、と海奈は言った。
地上に帰る前にもう一つだけ聞いておきたいことがあって、僕は体を抱きかかえようとしている海奈を止めた。
「……最後に、もう一個だけいい?」
「いいよ。何?」
「ここには、海奈以外の人魚は住んでないの?」
海奈は首を横に振った。
「誰もいないよ。――私は、人魚族の最後の生き残りだから」
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