第3話

「……君は、僕のことを助けてくれたの?」


 彼女は少し考え、


「あなたが海の中で気を失っているところに、私がたまたま通りがかっただけ。海の中じゃ呼吸があるかもわからないし、もしかしたらとっくに死んでるんじゃないかと思った」


 そうだ――。

 僕はあらためて、大きく息を吸い込んで自分の胸を膨らませ、それから吐き出した。水中のはずなのに、ここでは息がちっとも苦しくならない。そのことについて僕が海奈に尋ねると、


「……ね、ちょっと来てくれる?」


 海奈に連れられて部屋の外に出た僕は、目を見張った。


 ――そこには薄紫やオレンジ色の鮮やかな珊瑚が幾重にも重なって天高く伸びた塔のようなものがいくつもあって、海面からは明るい光がさしていた。銀色の細長い体で赤い背びれを持ったリュウグウノツカイや、クラスの女子がキーホルダーをスクールバッグに付けていたメンダコに似た生き物がヒレや触手をふわふわと動かして泳いでいたりと――あまりにも浮世離れした光景が、僕の目の前には広がっていた。


 僕たちがいた部屋――というか家は、やはりかまくらのように大きな岩をくり抜いて造られたような外観で、辺りを見ると同じ形の家がまばらに建っていた。


 それは小さい頃に絵本で読んだ、浦島太郎が亀に乗せられて辿り着いた龍宮城を見ているかのようだった。正確には、あれほど豪華絢爛ごうかけんらんではないのかもしれないが――その風景は、地上で味気のない毎日を送っていた僕の心をときめかせるのには充分すぎるほど神秘的だった。


「ずっと前に私のお父さんが、水中でも酸素を生み出せる生き物をたくさん捕まえてきたの」


 僕の隣にいた海奈が、そう口にした。


「君の、お父さんが?」


 海奈はうなずき、


「そう。お母さんに頼まれて、人間がいつここに来ても大丈夫なようにって。……役に立つ機会は、今までなかったけどね」


 そこかしこにいる頭がブーメランのように尖ったサンショウウオに似た茶色い生き物を、海奈は指差した。その生き物はひっきりなしに口から大きな泡を吐き出しており、吐かれた泡は水中に溶け込むように混ざっていった。


「酸素が逃げないように、天井には薄くて透明な大きな膜が張られてるの。でも、人間が自力でこの深さまで辿り着くのは難しいみたい」


「……海奈のお父さんも、ここに住んでるの?」


 海奈は首を振り、


「いないよ。ちょっと前に死んじゃった」


「ちょっとって、どのくらい?」


「今から、六十年ぐらいかな」


 僕は海奈の時間感覚に驚きつつも、頭の片隅では冷静に、人魚の肉を食べると不老不死になる、という話をネットか何かで見たことを思い出していた。


「……海奈、君って何歳?」


「私? 二百歳とちょっとかな。人間でいったら二十歳ぐらいのはずだから、まだ全然若いでしょ」


 海奈はそう言うと、僕に向かって得意げに微笑んだ。


 人間でいったら二十歳なら、ちょうど十倍。ということは――人魚の寿命は、およそ八百年ぐらいなのだろうか。そもそも、人間と同じ感覚で年を取るのかもわからないけど。


「せっかくだから、こっちに来て。見せたいものがあるの」


 海奈は僕の手をつかみ、泳ぎ出した。突然手に触れられてどぎまぎした僕は、とっさに泳ぐことを忘れてしまったけど、海奈は構わず海の中をすいすいと進んでいった。僕が体の力を完全に抜いていても自然に引っ張られるぐらい、海奈の泳ぎは力強かった。ゆらめく尾ひれを見つめながら、僕は小学生の頃にフィンを付けて泳いだ時に、思ったよりもずっと速く泳げて驚いたことを思い出していた。


 玉手箱でも渡されるのだろうか――なんて、根拠のない想像をしていた僕が海奈に連れて来られたのは、さっきまでいた家とまったく同じ造りの家の前だった。

 海奈は入り口からそっと中を覗くと、僕に向かって手招きした。僕は海奈の近くに行き、家の中へと足を踏み入れた。

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