第34話 老婦人の思い出
お客様の話によると、今日は数年前に亡くなった旦那さんの命日だそうで。
老婦人のお客様は今日はおひとりで、お仏壇を整えて、お墓参りをして、大切に一日を過ごされていたそう。
そんな中で旦那さんのことをあれこれ思い出していて、夕刻が迫る頃、ふとケーキの話をしていたのを思い出した。
──ドイツの『アレ』は絶品だったよ。
──『アレ』って、ビールですか? それともソーセージ?
──いやいや。ケーキだよ。
──あら、ケーキ?
──ああ、とても美味しかった。だけど名前がむつかしくてね。
キルシュ……なんとか、といったと思うんだが。
ああ。あの味を君にも食べさせてやりたかったなぁ。
くっううううんん。
疲労のせいでいつもより涙腺がゆるゆるだ。
もう、もう、もう。
「お客様」
鼻水をすする私の横で翔斗さんは今もなお微笑んでいた。さっきよりも、さらに温かに。
「大切な思い出のお話を聞かせてくださってありがとうございます。ご夫婦の仲の良さが窺えて心がほうっと温まりました」
胸に手を当てて目を閉じる翔斗さんを前にお客様は「いえいえ」と照れたふうに笑う。
「いつまでも昔話ばかりするものだから。息子たちには疎ましがられているんですよ」
翔斗さんは「それはそれは」と困り顔で微笑む。そうしてちら、と厨房に一瞬視線を向けてから改めてお客様に向き直ってこう言った。
「洋菓子店であるからには、お客様がお求めのケーキをなんとかお売りしたいところなのですが、あいにく材料もスタッフも足りず……」
お客様は翔斗さんを倣うように厨房の様子を窺ってから「まあ、そんなつもりはないのよ」と驚いて手を振る。
翔斗さんはお客様の気持ちを真摯に受け取るようににっこりと頷いた。
「代わりと言ってはなんですが、もしお時間があるようでしたら少しだけ『シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ』がどういったケーキで、どのようなお味かを僕からお伝えさせていただけませんでしょうか」
えっ。ご購入いただくわけでもないお客様に対してこのサービスはさすがにやりすぎでは? と思わないわけでもない。……けど。
お客様にしてみたらこんなの、そりゃ嬉しいよね。
ひとによってはこのようなお客様のことは『お客様』とは言えない、と言うかもしれない。
だけど翔斗さんにとったら、お店に一歩でも足を踏み入れた人はどんな相手でも『お客様』なんだ。
そして『お客様』には、常に自分の出来うる最高のおもてなしを必ずする。それが翔斗さんなんだ。
〈シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ〉はドイツ・シュヴァルツヴァルト地方の伝統菓子で、フランス名は〈フォレ・ノワール〉。どちらも意味は『黒い森』。
そんな基礎情報を始まりに、そのケーキが丸型で、ココア味のスポンジ生地と白い生クリームで構成されていること、また、シュヴァルツヴァルト地方の名産品でもあるダークチェリーやサクランボの蒸留酒である「キルシュ」がふんだんに使われているということ、さらに飾りにはチョコレートを削った「チョコレートコポー」を載せて『黒い森』を表していること、などを丁寧に説明していった。
「ココア生地の深い香りと甘酸っぱいダークチェリーの味がとてもよく合うんです。そこにやさしい生クリームが合わさることで三つの味わいのバランスが絶妙で」
はわぁ……。あまりに美味しそうで思わず喉を鳴らしてしまいそうだった。
老婦人のお客様は翔斗さんの説明を目を潤ませて、時にハンカチで目もとを拭いながら、最後までしっかりと聞いて大きく頷いた。
「ありがとうございます。とてもよく伝わりました」
「よかったです。ぜひいつかお召し上がりください」
うん、うん、と頷いて「ありがとう。ありがとうね」と何度もお礼を言いながら翔斗さんの手を皺のある小さな両手で包んだ。
「あなたに出会えてよかったです」
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