亀とバナナ

第29話 佐野さまの謎

 今日最初にご来店なさったのはひとりのご婦人だった。


「これはいらっしゃいませ河北さま」

「いらっしゃいませ!」


 常連の河北さまはオシャレなマダム。私も何名かの常連さんのお顔はわかるようになってきた。と言ってもまだ翔斗さんがお客様のお名前を言って「ああそうだそうだ」と思い出すレベルだけど。


「おはよう、翔斗くん」

「おはようございます」


 悩殺スマイルは横からしか見られなくなったけど、それでも充分だ。っていうか私もお客様から個人的に挨拶されるような販売員になりたいな、と思う。


「さっきそこの道で佐野さんを見かけたんだけどね、なんだか様子がへんで」


 佐野さんは……ええと。どんなお客様だったかな。うーと。常連さんなのはわかるんだけど……。


「ご様子が、ですか?」

「ええ。宙に向かって『おいで』とか『こっちよ』とか言ってらして。一体どうしたのか」


 宙に向かって……?


「小鳥かなにかいたんでしょうか」

「ううん。なにもいなかったように見えたけれど」


 それはちょっとこわいかも。


「声はお掛けになったんですか?」

「掛けたんだけどね。聴こえていないみたいで」

「はあ、それは心配ですね」

「そうよねえ」


 河北さまはいつも通りのシュークリームと苺ショートを二点ずつお求めになって「また来るわね」といつも通りに去っていった。



「佐野さまのこと、見にいきますか?」

 訊ねてみると「いや」と。


「そこまでやるのは範囲外。俺たちの守備範囲はこの店の中だけ」


「……うーん。あの。それ『王子モード』で言うとどうなるんですか?」

「は?」


 う。そんな怖い顔しないでくださいよ。


「あ……いやその。すみません。なんか『素』の翔斗さんが言うとあまりに素っ気なくて。だってオタマちゃんの時はあんなに必死で『守備範囲外』でもちゃんと王子様だったじゃないですか」


「…………」


 不服そうに見下ろされるけど譲る気はない。思えばあの事件だって翔斗さんが終始『王子モード』だったから蒼井さんのことを救えたんじゃないの?


 そうだよ。『素』の翔斗さん(しかも猫アレルギー)だったら絶対に関わりたがらなかったはず!


 すると翔斗さんは仕方なし、といったふうに小さくため息をついて「そーねぇ」と少々思案してからやがてその口を開いた。途端に空気が柔らかくなる。


「見に行きたいのは山々なのですが。僕たちはそう簡単に店を離れるわけにはいかないですから。佐野さま自身がこちらに相談にいらしてくださることを願うしか」


 申し訳なさげにふわ、と優しく目を細める。本当に表情まで別人なんだもんね。


「これでいい?」

「……いいです」


 状況は変わらないけどとりあえず私の中のモヤモヤは格段に減った。────と。


 コロン、とドアベルが鳴り、現れたのは。


「佐野さま! いらっしゃいませ」

「あっ、いらっしゃいませ!」


 おお! 噂をすればの佐野さまだ! (翔斗さんが呼んだからわかったんだけどね)



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