第7話 初勤務

「でも翔斗さんって……すごいですよね」


 席を立って帰り支度をしながらあの日の記憶を呼び覚まして言うと、いちごさんはくすりと美しく笑った。


「まあ販売員としてはね。才能はあるかもね」


 やっぱりそうなんだ。

 あの時のクレーム対応はまさに『神業』だった。普段の接客もだけど、地味な箱折りやシール貼りに至っても非の打ち所がない、という印象が強く記憶に残っていた。


「私なんかで翔斗さんのお役に立てるかわかりませんが……」


 たまらず恐縮するといちごさんは「大丈夫」と微笑んだ。


「クリスマスに向けてね。いつもこの時期に短期アルバイトを採るの。翔斗がいくら仕事ができてもたったひとりじゃ心もとないもんね。生きていれば病気や怪我にだっていつなるかわからないわけだし」


 それはごもっともだ。だけど。


「翔斗さんになにかあっても私じゃ代わりになんてなれませんよ?」


 慌てて言うといちごさんは「大丈夫だって」とまた笑う。


「もしもの時は私の夫の『ガトーくん』も助っ人に来てくれるだろうし、笹野さん……ええと、ゆっちゃんひとりに任せたりはしないから」


 親しげに『ゆっちゃん』と呼んでもらえたことも嬉しかったけどそれよりも気になったのは。


「『ガトー』さん……? それって」


 その名前は、聞いたことがあった。


 【稲塚 雅登ガトー


 言わずと知れた有名パティシエ。

 たしかお父さんが世界的有名パティシエで、そのひとり息子とあって私が小学生の頃には世間で〈パティシエ王子〉なんて騒がれてテレビでもよく見かけた。


 最近はすっかり『過去の人』になってしまっているようだけど……。



「そう。彼は今、彼の父が創始者である【イナヅカグループ】の本店の仕事をメインにしてるんだけど、たまにこの【フレジエ】も手伝ってくれてるの」


「そ、そうなんですね!? すごい」


 なんでもないことみたいに話すからついていくのが大変だった。


 それにしても〈近所のただのケーキ屋さん〉だと思っていたら、そんなすごい人のご家族が経営されていたなんて。


 中学生の時はぜんぜん知らなかったや。




 そんな私の記念すべき初勤務は、面接日の翌日の土曜日からとなった。


「お、おはようございます。あの、よろしくお願いします!」


 ブン、と頭を下げると翔斗さんは「ああ、おはようございます」と素敵な笑顔を返してくれた。


「さっそく今日からですね。よろしくお願いします。ゆっちゃん」


「ゆっ……!?」


 途端に顔が沸騰するほど熱い! 目をしばたく私に翔斗さんはくすりと笑った。


「店長から『心の壁を取り払うためにもそう呼ぶように』とのことで。嫌じゃなければいいんですが」


 照れるそぶりもなく言う翔斗さんに「あ、ハイ。ぜんぜん、か、構わないです」とひょろひょろの声で返した。


 翔斗さんはにこりとしてから「では」と私に仕事を教え始めた。



 翔斗さんの仕事ぶりは、二年経った今見るとその凄さがさらによくわかった。職業体験の時は私自身もいっぱいいっぱいだったし、三日間だけとあってそこまでちゃんとした仕事を教わることもなかったから。


「翔斗さんって、どうしてそんなになんでも完璧なんですか?」


 素直に訊ねてみると驚いたのか翔斗さんはその目をパチクリとさせてから優しく細めて「はは」と笑った。


「ぜんぜん完璧ではないです。ただ、ヴァンドゥールの仕事に関してはどこの誰にも負けたくなくて。それ相当の努力はしてきたつもりです」


 微笑むその顔が、やっぱりすごくカッコよくて。どうしてもときめいてしまう自分がいた。


「あの、クレーム対応とかも、いろいろと事前に想定されてたりするんですか?」


 訊ねると「ああ、あの時」と思い出したらしい。


「今こうしてアルバイトに来てくれているということは、トラウマにはならなかったんですね。よかったです」


 ホッとした様子で微笑む翔斗さんに「あれはどういうクレームだったんですか?」と二年越しに訊ねてみた。



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