6-7


背後に勢いよく何かが食い込むと、次の瞬間、海中へ沈んだ。

入水する際の痛みこそあったが、海の中は心地がよかった。

このまま沈んで、深海と同化しても構わないとさえ思えた。


そんな願いを妨げるかのように、アルシオの胴体は誰かに掴まれると、上へ、上へと持ち上げられた。



目を開けると、全身びしょ濡れの男が目の前にいた。

黒髪の男は髪をかき上げると、その姿に不相応な微笑をみせた。


「アルシオさん、もう大丈夫だ」


彼に何度命を救われただろうか。

アルシオの目に涙が溢れた。

何度も死にかけ、そしてまた生きている。


生きている限り、私にはやらねばならない事がある。


アルシオを落下の衝撃から守った網を肩に抱えたケイが、こちらに向けて大きく手を振った。

その後ろから明人、灯凜、そして江原が波風に注意を払いつつ、アルシオとマイロの方へ歩を進めた。


「アルシオ、怪我はないー?」

江原がいつもと変わらぬ口調で声を掛けてくると、アルシオはますます涙が止まらなくなった。




――マイロの友人である山本は、アルシオの運転する白いバンと蘇野原の乗車する捜査車両の距離をGPSで確認しながら、無線でアルシオへ指示を出した。


海へ飛び降りる場面を捜査関係者に目撃してもらう必要があったが、双方の距離間を誤れば、拘束・もしくは追跡不可の可能性があったため、山本は無線へ流す言葉に細心の注意を払った。


アルシオが都内を迂回している間に海へ先回りした明人たちは、飛び降りる位置の確認や、強風とアルシオの重さから落下が予想される範囲の確認を入念に行った。


人命救助用の網を、海を挟むようにして両サイドの陸地に重石で固定してまっすぐに張り、静かにその時を待った。


運転中のアルシオに、飛び降りる位置へ誘導するための目印が複数箇所にある事を無線で何度も伝えた。

目印を頼りに絶壁まで辿り着いた後は、飛び降りる位置に付けたしるしの確認と、落下予想地点に張った網、そしてその近くで待機する明人たちの姿を目で確認して、蘇野原ら公安一課の到着を待つよう伝えた――


マイロは演説を行った建物から去る際に、蘇野原へ「アルシオに半径20mは近付くな」と耳元で囁いた。

断崖のすぐ下で網を張り待機している明人たちの目撃を回避するためだ。

豪雨と暴風に見舞われたこの状況で、断崖にて落下した者の確認など危険すぎて不可能に近いが、計画を何としても成功させるために念を押した。



今思い返すと無茶苦茶な計画ではあった。

このまま指名手配犯となったアルシオを逃せば、日本に少なからず汚名は残る。そしてアルシオはこの先、指名手配犯として怯えながら過ごす事になる。


ならいっそ、死んだ事にするのはどうだろうか――。


日本政府がアルシオの死を公表すれば、ヨノフィから今後送り出される暗殺者への恐怖から解放される。

ただし、死んだことを証明する“死体”の問題が出てくる。


演説開始から十数分後、頭痛と眩暈に襲われた際、明人の脳裏に浮かんだのは、豪雨の中の断崖絶壁と、海中に沈んだアルシオを誰かの手が海面に向かって引き上げる様子だった。


明人は自身の未来予想図を信じて、淡々と提案してみせた。

自分でも驚くほどに口から流暢に言葉が発せられた。

一か八かの提案ではあったが、この状況下でその他の打開策を誰も見出せなかったため、異議を唱える者はいなかった。


何より、この提案にアルシオが合意したのだ。

何度も助けられた命を、ここで惜しむ事は考えていなかった。



「ありがとう明人」

アルシオは来日して一番の笑顔をみせた。


ケイが瞳を潤ませる灯凜をいじると、なぜか明人が照れる灯凜に思い切り背中を叩かれた。




――――――


蘇野原はニュースを敢えて見ないように避けていたが、街中を歩くと嫌でもモニターが目に入った。


仲間を殺害し極秘で来日したリユガヌ共和国の幹部は日本で動画演説を行った後、投身自殺を図った――。

自殺をこの目で確認し、それを上層部へ報告したのは俺で間違いないが、それを「指名手配犯の自殺」と報道される事には抵抗があった。


俺の知っているアルシオ・フェテゴは親愛なる仲間を殺され、その事実を命に代えてまで世界へ伝えた優しい人物だった。


それを、国家間の問題を避けるために指名手配犯と報道するのは如何なものだろう。

もちろん、この気持ちは口が裂けても吐露する事はない。

アルシオ・フェテゴの件がおおよそ片付き数日の休暇をもらった蘇野原は、重い足取りで歩いた――




歓楽街にある、オネェバーへ。



香帆かほちゃん」

「あっらー!コウちゃん久しぶりぃー♡」

香帆ちゃんは身長が180センチ以上あり、そこそこ良いガタイをしているが、綺麗な顔つきのおかげで、お店で人気ナンバー3を誇る。

スパンコールの入った赤いヒールをカツカツさせて蘇野原の腕に絡みつく。

「いつものでいいかしら?」

蘇野原は直視せず頷いてみせた。


やがてウィスキーとつまみが運ばれてきた。これが蘇野原のいつものセットだ。

ウィスキーを流し込む蘇野原へ香帆は顔を近づけて小声で話した。

「今日例の連中が昼間出入りしていた。おそらく近々、取引が行われる」

防犯カメラに口元の動きが捉えられないようカメラに背を向けて笑顔で話す香帆ちゃんに、カメラにはっきり顔が映る蘇野原は笑顔で頷いてみせた。


「そういえば、某国のヒーローは、無傷で日本を出たみたいよ。マイちゃんから、心配するなって言付けを預かってたの」


蘇野原は一瞬目を見開くと、ウィスキーを飲み干し、ゴクンと喉を鳴らすと身体全体が熱くなった。


勢いよくグラスを置くと、蘇野原は子供のように笑って香帆ちゃんをギュッと抱きしめた。




――――――


「局長」


マイロの呼びかけに、後藤は半分だけ顔を向けた。

「何だ?」

マイロは、後藤に敬礼をしてみせた。

「ありがとうございました」

それだけ言うと、マイロは元の姿勢に戻った。

「何だ?俺が何をしたって言うんだ?」

後藤はニヤリとしてみせると、マイロは事を把握し、一礼して部屋を出て行った。


江原が指名手配の速報を入手したタイミングとほぼ同時に、指名手配の速報が後藤の耳にも入っている事をマイロは想定していた。


後藤は、速報を全て聴き入れると同時にチームに集合をかけ、すぐさまアルシオの拘束命令を出しただろう。

しかし、今回はそれがなかった。


つまり、後藤は速報を知らない体でいたのだ。


速報は、政府ルートではなく後藤自身で築き上げた裏コミュニティのルートで得ているため、業務の怠慢には当たらない。

マイロは後藤がチームの事情を汲んだとみて、後藤に対し敬礼で感謝の意を示した。


後藤の奇妙な笑みで全ての読みが正しかったと理解したマイロは、去り際に後藤へ微笑み返しをした。



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