隔つ壁はなくなった
時は少し
「あ~もう、ずぶ
「俺は雑用じゃない! 勝手に
不機嫌そうに答えるオリスではあるが、それでも手拭をヘデに投げつけた。
「ありがと~!」
ヘデは豪速球で投げつけられた手拭をなんなく受け取り、赤毛に乗せたままミネテの方に目を向けた。協会長は窓の外の空をじっと見つめ、
「ミ~ネテさん! 空ばっかり見て何かあるの?」
一瞬だけヘデに目をやった、すぐにまた空に視線を戻し、低い声で答えた。
「こういう嫌な天気の時は、何かしら起こるんだよ。勘だがね」
「そっか~」
ヘデが軽い調子で
ヘデがぽんぽんと
「……来た」
ヘデがぽつりと
結界が解けていく。
王都を守っていた透明な膜が、まるで
「勘、当たっちゃったね」
「ほんと、厄介なことだよ」
ミネテが一つ
「結界が破れた! 原因は不明!!
魔物が襲ってくる! 対処しな!!」
ミネテの発破に応えるように、
魔物は人の多さに引き付けられる。大市もあり、今は国中の人が集まっている。王都は常に結界で守られているから、魔物が近寄ることはない。けれど、守りのない王都なんて、
「こないだ大量に狩ったんだけどぉ?」
「隠れてたんだろ。それか、結界が破れたせいで
「早くない? 全く、ヤになるね!」
ヘデは双剣を素早く抜き取り、構えた。軽口を
それでも、皆、王都を守るために魔物の大群に突撃していった。
***
時は戻り、戦場と化した協会。
人の出入りが激しい場所に、ゆっくり話をしている余裕のある者など一人もいなかった。アレクシアはその混乱の隙間を縫うようにして、ジルドを奥の医務室へと運んだ。
医務室の中は血の匂いが
ジルドと同じように腹を
アレクシアはどうにか空いた場所を見つけ、慎重にジルドを横たえた。彼の顔は
外を見ると、アレクシアは真向かいの家の中から協会を見ている人物に気づいた。
以前、屋台で串肉を焼いていた男だ。
彼は
協会内は混乱しながらも、皆が自分の仕事を果たしていた。魔物を狩る者、負傷者を治療する者、騒がず静かに避難する者。それぞれができる限りの役割を全うしていた。
――自分はどうだろう。
アレクシアは立ち止まり、胸の中に重くのしかかる思いを感じた。周囲で必死に自分の役割を果たしている人々とは違い、何の役割も果たしていない。ただ状況に流されている自分に、
――ずっと誰かに頼って生きてきた。
役目をもらい指示に従って行動してきた。自分で責任を取りきることもなく、流されるままに生きてきた。王になるというのに!
自らの未熟さを嘆いたこともあった。しかし、それを克服するために行動したことはなかった。
――助けてもらうんじゃない。
すとんと心に降りてきた。自分が何をすべきかが、ようやく見えてきたのだ。立ち上がり、迷いを捨て、強い決意を胸に抱いた。
「私が助けるんだ……」
ヘデが
アレクシアとヘデの視線が交わった。ヘデは息を切らせながらも、焦りを隠しきれない様子で矢継ぎ早に言葉を投げかけた。
「アリィ! よかった、どこにいた? ジルドは? ひとが足りないんだ、早く!!」
ヘデの勢いに押され、アレクシアは思わず苦笑が漏れる。アレクシアの腕を引き、ヘデはまた外へ飛び出そうとした。その手を外して、アレクシアは静かに言葉を紡いだ。
「ジルドは、動けないわ。ごめんなさい、私も行けないの」
「はぁ?」
ヘデは足を止め、意味が分からないと言いたげな顔で振り返った。戦場の混乱の中で、ヘデにはアレクシアの言葉が理解できなかった。
「何、言ってんの?
だん、と足を踏み鳴らし、
「分かっているわ。ヘデ、あなたにここを任せます。私は別の場所に、」
言葉を言い切る前に、ヘデの平手がアレクシアの
「馬鹿言ってんじゃねぇよ!」
ヘデは怒りに満ちた声で叫んだ。
「
「私が加勢しても、元を絶たなければそれも時間の問題でしょう?」
打たれた
「王都には絶対の守りがあった。絶え間なく魔物が押し寄せる開拓拠点に比べて、王都に魔物が近づかなかったのは、結界が守っていたから。でも、今その結界が無くなって、魔物たちがたくさんの人が暮らす王都に集まってきた。これからも、もっと増えるでしょう。だから……結界をもう一度張らないといけないの」
「――それができたら苦労はしない!」
ヘデが強く反論する。結界が消えた理由すらわからないのに、張りなおすなんてどうやって! 結界は神の
じわじわと痛み始める
「
突然の告白。ヘデは目を見開き、言葉を失ってしまった。彼女の開いた口が
「……あーもう!! こっちほっぽり出すんだから! ちゃんとやってきなよ!!」
後ろからヘデの声が飛んできた。
怒りと驚きと鼓舞が混ざった声に、アレクシアは一瞬
人気のない
初めて城下に降り立った日のこと。ヘデに連れられた道。ジルドと見に行った劇場。換金所に行ったり、夕食を買いに出たり、いろんな人々と話し、活気に
苦しいこともあった。なぜと、嘆いたこともたくさんあった。
多くの営みがあり、人々の生き生きとした生活が広がっていた。
しかし、今はそのすべてが消え去り、静けさだけが
「絶対に、あの
アレクシアは自分に言い聞かせるように、小さく
そうして、王女は父母の元に帰りつく。
アレクシアは玉座の間を見渡した。
外は暗雲が垂れ込め、日差しを遮っている。窓帷など閉められていないのに、玉座の間はどこか
玉座には母の
その魔法陣の中心に、華奢な
「お父さま」
アレクシアが一言、意を決して静かに声を発した。
母に向き合っていたエルンストが、まるで弾かれたように振り返った。
「おぉ、アレクシア! よくぞ戻った、あの小僧によって湖に落ちた時には
エルンストは痩せこけた
「さぁ、早くおいで。準備は終わっておる。あとはお前の血と魔力があればよい」
エルンストは手招きし、アレクシアを魔法陣の中心へと誘った。
彼の手招きに従いゆっくりと近寄った。足音ひとつさえ聞こえない静けさ。父は満足げに
アレクシアもまた笑みを浮かべたまま、ナイフを受け取り、その刃を手首に当てた。そうして、ナイフを滑らせ、振りぬく勢いのままエルンストの
「……一体何のつもりだ、アレクシア」
間一髪で届かなかった。長引かせたくなどなかったのに。
エルンストは、信じられないといった様子で
アレクシアは冷静に
「なぜだ……、なぜ分からんのだ!」
エルンストは声を荒らげ、苦しそうに言葉を続けた。
「メルキシアの目覚めはお前にとっても良いことだろう!?
母に会いたくないのか!
お前の育てた花に囲まれ平穏に過ごせる!!」
言い募る父の言葉は愛に
けれど、きっとその思いは本当だった。
雨音が更に激しさを増す。誰もいない王宮で、玉座の間だけにひとの息が満ちる。
「ありがとうございます、お父様」
アレクシアはただ、感謝の言葉を口にした。
その言葉に、その笑みに、エルンストの顔に一瞬、光明が差し込んだかのような希望の色が見えた。自分の計画がついに理解され、娘が共に歩むことを決心したのだと思ったのだろう。
「でも、」
続く声が、エルンストの顔を凍り付かせる。
「私は、私がお母さまに会いたいからと言って、皆が傷ついていいとは思えない」
伏せていた目を上げ、父の瞳を射抜く。
「っ傷ついたとて! メルキシアならばそれを容易に
「癒えたところで、抱えた恐怖は消えないの。傷跡はずっと残り続ける」
問答は平行線でしかなかった。
「――そうか。ならば、その血だけ置いていけ」
悔恨と歓喜。懇願と困惑。憤怒と悲嘆。
混ざりあった感情に
おもむろに、エルンストが
彼の目にはもう、優しさや慈愛など
アレクシアは迫りくる魔弾を避け、父と距離を取った。
弓を構え矢を放つも、
結界の術式を解かれた『エレシスの瞳』は、膨大な魔力を辺りに
「もう少し、もう少しなんだ……」
エルンストは
隙が見当たらない。
悩むアレクシアの脳裏に、
真正面から突破できないのなら、邪道だって選んでみせる。
彼女は玉座に目をやった。わざとらしく、父に気づいてもらえるように。
そして、弓を構えた。
「はっどこを狙って、――!?」
「えぇ、あなたを狙っておりません」
けれど、母を狙ったわけでもなかった。
もはや
父の意識を少しだけ割ければ、それでよかった。
だというのに。
「メル、キシア……?」
放たれた矢は玉座に座る母の胸を貫いた。
まるで吸い込まれるように。自ら向かい入れるように。
「どうして、なぜ、」
悲痛な声が玉座の間に響く。取り落とした王笏がからりと音を立てる。宝珠も床を転がっていった。
震える手をメルキシアの
母が生きていたころ、二人がアレクシアの待つ庭園に
何の代償もなく、母が帰ってくるならどれだけよかったか。
けれど、アレクシアは選んだ。
きっと、母も。
毛羽立つ
じわりじわりと体内から魔力が流れていく。胎から腕を手を伝い、
ぼやけた視界で、それでもまっすぐに見据えて矢を放った。
「さようなら。お父さま」
――どうか、お母さまの
エルンストが母のいる場所に逝けることを祈った。
音の消えた玉座の間。血に染まった
幾何学が宙に浮く。エルンストが残した魔力と、この場に満ちた魔力を使い、王都を守るための守りを張り直す。足りない分は、自らの命を少しだけ削りながら。
結界が編み直された。
ふと空を見上げると、雨は
これで、王都はもう大丈夫だ。
森から押し寄せる魔物だってもうこれ以上は増えない。結界内に入り込んだ魔物はヘデたちが確実に
視界が暗くなり、まぶたが重く閉じそうになる刹那、目に映ったのは、泣いているジルドの姿だった。
彼が生きていることに、アレクシアは
年の明ける冬至の日。最も日が短く、これから昼間が長くなる。命を奪う冬の終わりを告げ、やがて命が再び芽生え始める春が訪れる――再生の日。
今日この日に、アレクシアの即位式が行われた。
王都の結界が消え、守りを失った街を襲った魔物たち。その原因は闇に葬られ、真実は公にはされなかった。王佐であるエルンストの醜聞など、明かすわけにはいかない。公には、父エルンストが身を犠牲にして結界を張り直したことになっていた。
しかし、水面下では
新たな王として、国民の前に立ち、決意を言葉にする。平和を守り抜くこと、父の犯した
アレクシアの目には、これからの未来を照らす光が映っていた。
罅入る心臓 速水ひかた @sekkei
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