要を穿つ
「お父様、アレクシアが戻りました」
ジルドと共に歩くアレクシアは、生まれてから王宮から離れたことなどなかった。初めて離れ、また戻ってきた王宮は、何かが違って感じられた。変わらないはずの環境、出入りする人々も同じなのに、なぜか息がしやすく感じられる。
王宮の広い廊下を渡り、階段を上った。侍女たちは、アレクシアに気づくと、慌てて端に寄った。いつものように恐怖に顔を
けれど、心に刃の如き風は吹かない。きっとそうでないひとを知れたから。
ついに玉座の間へと
玉座に座る人はいない。
いつものように父エルンストが空の玉座の
「よく戻った。なにやら
その言葉に、アレクシアの胸が熱くなる。父の暖かい
「協会に身を寄せ、足掛かりとしていたと聞くが、そのおかげかな?」
「はい。ヘデという者がおりまして、その者がよくしてくれました」
「そうかそうか。それは良きことだ」
久しぶりの父との会話は、どこか手探りのようなぎこちない感覚があった。だが、和やかで穏やかな父の姿に、少しずつ心がほぐれていく。エルンストの顔色も良くなり、
「さて、再会を喜びたいところではあるがが、本題に入るとしよう」
父の言葉に、アレクシアは
エルンストが息を
「欠けひとつなく、取り戻して参りました」
「あぁ、よくやった。よくぞ、無事に取り戻した」
父の声には
エルンストは、アレクシアが外で何を知ったのか、何を目にしたか知らないだろう。悩み、苦しんだことをきっと知らない。悪意に
エルンストが宝珠に手を伸ばすのを見て、アレクシアは慎重に渡した。
父が手中に収めた宝珠を、光にかざしてじっと見つめる。最初は静かに観察していたのに、突然、彼は笑い出した。
「……ふふふ、あははは! ようやく、ようやくだ!」
「お、お父様……?」
父の唐突な笑い声にびくりと肩が跳ねた。
「本当に長い道のりだった。計画も最終段階に移行したというのに、肝心の宝珠が盗まれてしまうのだから……」
エルンストは何度も、
その笑顔を目にした瞬間、アレクシアの心に寒気が走った。
「お父様、計画とは何ですか……?」
声が震えた。
だが、父がアレクシアに向けたその笑み。冷たく、熱に満ちた笑みが、彼女の背筋に鋭い
聞かねばならない。でも、聞きたくない。
アレクシアの心は相反する感情で揺れ動いていた。しかし、その迷いをよそに、エルンストが口を開く。
「あぁ、お前にも協力してもらおう。
――お前の母であり、私の妻である、メルキシアに再び会うために」
アレクシアは耳を疑った。母は亡くなったはずだ。なのに、なぜ今その名前が出てくるのか。心の中で疑念が膨れ上がる。
エルンストが玉座の前から静かに退く。アレクシアの視線は自然と玉座へと引き寄せられた。そこに、空であるはずの玉座に、誰かが座っている。
「お母様……?」
アレクシアの声は震えた。玉座に腰掛けているのは、確かに母メルキシアだった。だが、その姿は生きている者のそれではない。穏やかで美しい顔立ちは、まるで眠っているかのようだが、そのだらりと垂れ下がった腕と血の気のない肌が、彼女が死んでいることを明確に思い出させた。
混乱がアレクシアを襲う。
どうして、母の遺体がここにあるのか。なぜ今、その姿を見せられているのか。
「お父様……これは、一体……」
アレクシアの声は
母であり国王でもあったメルキシアが亡くなったのは、三年も前のことだった。アレクシアは、病床に伏せた母を幾度も見舞い、そのたびに無力感と悲しみを感じた。
そして、祈りの意味もないまま母が旅立った日、国中に響いた鐘の音を、アレクシアは今でも鮮明に覚えている。
なのに今、その母が生前の姿そのままで、玉座に座っている。美しく穏やかな表情で、まるで今にも目を開けそうだが、明らかに生きてはいない。
「あぁ、お前が取り返してくれた宝珠、『エレシスの瞳』には膨大な魔力が宿っておってな。
今は結界に利用しているが、それをメルキシアを起こすために使うのだ」
これは夢なのか、それとも悪夢のような現実なのか。
その境界すら曖昧になり、理解できない。
感じるすべてが遠くなる。
父の言葉が上滑りしていく。視界も、思考も、音さえも、遠のいていく。自分がこの瞬間にいるのかどうかすらわからない。
玉座に座る母の姿に目を奪われ、ただその場に立ち尽くす。
「長い研究の末、ようやく実を結ぶ。これで、メルキシアが
彼女が死ぬという誤りが、これで正される」
父の感慨も、
「それが許されると思っているのですか!? 結界が消えれば王都がどうなると、
いや、そもそも人が犯してはならない
ジルドの
何もかもがアレクシアには遠く感じた。
目の前で繰り広げられている異常な光景が、舞台上の物語のように思えて仕方なかった。
「
耳を通る言葉が意味をなさない。
「ジル、ド……?」
世界に色が戻ったのは、ジルドが倒れ込んで血を吹き出した瞬間だった。
エルンストが儀礼用の長剣を抜き、アレクシアに向けていた。それがどんなに危険な状況であるかは
死ねば、この狂気から逃れられる。アレクシアはそう思い、目を閉じた。死を受け入れることで、すべてが終わると思ったのだ。
なのに、血を吐いているのは自分ではない。
「
弱々しい声が耳に届き、アレクシアは目を開けた。そこには、口から血を流して笑うジルドの姿があった。彼の口元は血で汚れ、苦痛に顔を歪め、命を削っていることが一目でわかった。
アレクシアは倒れ込んだジルドの体を慌てて抱きしめた。肩から腰にかけて、彼の背はばさりと斬られており、服は真っ赤に染まっている。背に回した手にべとりと血がつく。体温が失われていく彼の体を支えながら、アレクシアの心は急速に凍えていく。
「ジルド……なんで……どうして……」
上擦った声は震え、目の前の現実に耐えきれない感情が押し寄せた。
出世のために利用するのだと言っていた。人形遊びの道具でなんてあり続けられないと言っていた。だから、ジルドから向けられる気遣いの何もかもが
本当は
不義理を成し続けたのに。なのに、なぜジルドは自分を
「いや、いやよ……どうして――」
動けないでいるアレクシアとは裏腹に、ジルドは震える手で懐から一つの小さな球を取り出した。ジルドは、次の一手を打とうとしていたエルンストに向けて、その球を投げつけた。
瞬く間に煙幕が玉座の間を包み、視界を一瞬にして遮った。
「あなたが、無事でよかった……。逃げて、どうか生き延びてください……」
ジルドの
死に体の状態とは思えないほどの力で抱えられ、アリィはジルドと共に窓から湖へと落ちた。冷たい風が肌を強く
落下する中で、不鮮明な視界に王都が映る。
初めて見下ろした時には通りも店も知らなくて、ヘデの説明もよく分からなかった。それが分かるようになった。激しさを増す雨が彼女の服を
水面が目前に迫り、次の瞬間、アリィたちは湖面に
水の冷たさがアレクシアの全身を襲い、体温が一気に奪われる。
ジルドの意識はすでになく、彼の体は重く沈んでいく。アレクシアは必死にジルドの襟首を
「ジルド……起きて、お願い、」
アレクシアは苦しげに息をつきながら、彼を水面へ押し上げようと必死に動くが、次第に自分の体力も尽き始め、息が切れる。こぽりと小さな泡が水面に昇っていくのを、彼女はぼんやりと見つめた。
やがて、ゆらゆらと揺れる水面を見ながら、アレクシアの意識も、体も、深い水の中へと沈んでいった。
***
「まったく、どいつもこいつも邪魔ばかり……!」
エルンストは、ジルドが投げつけた煙幕を振り払いながら、乱雑に頬を拭った。煙幕には催涙成分が含まれていたのか、彼の顔は涙で
ふと周囲を見渡すと、目に入ったのは割れた窓だった。下を覗けど、見えるのは水面ばかり。
けれどそこから、ジルドが逃げたことを悟ったエルンストは、険しい表情で鋭く言葉を吐き捨てた。
「……アレクシアは、きっと生きている。
衛兵! 王女殿下が誘拐された!
その声が玉座の間に響き渡ると、廊下で慌ただしく動く音が聞こえ始めた。エルンストの命令を受けた衛兵たちが一斉に動き出す。
エルンストは追手が動き出したことを確認し、玉座の元まで静かに歩み寄った。手を伸ばし、するりと肘掛を
『エルンスト! 私と結婚しましょう?』
いつも突拍子もないことを言い、花のように笑いながら、私を振り回していた君。
『
病毒に侵されながらも、決して弱音を吐かず、泰然と立ち続けた君。その強さに、誰もが尊敬と恐れを抱いていた。
『……あなたを
エルンストは思い出に
「もう少しだ、もう少しで君にまた会える……」
***
冷たい、冷たい水の中で、アレクシアはぼんやりとした意識の中で誰かに呼びかけられているのを感じた。
「起きて、起きてちょうだい。私の
どうかあのひとを止めてあげて」
もう随分と聞いていない、けれど体に染みついた懐かしい声が聞こえたような気がした。
うっすらと目を開ける。けれど、光はなく、周囲の様子はまったく把握できなかった。自分がどこにいるのか、上も下も、左右すらもわからない。まるで浮かんでいるような感覚だけが、アレクシアの体を包み込んでいた。
「お母様……?」
アレクシアは
音も反響せず、声がどこへ消えたのかすらわからなかった。まるで無音の世界に取り残されたかのように、彼女はその場で一人、漂っていた。
どれほど時間が
時間の感覚さえ曖昧になった。
それでもここから出なければという思いが湧きたつ。
泳ぐように手を動かせば、アレクシアの指先が何かに触れた。硬く、丸い何か。
それは、いつか見た劇の再演だった。
この地に神はいない。
安住の地を求めて逃げてきた人々。しかし、この地は魔物の
だからこそ、姉姫がその身を宝珠へと変えた。彼女は自らの魂と膨大な魔力を封じ込め、宝珠へと成り果てた。
「ふん、これが当代か。頼りないのぉ」
「だっだれ!?」
「知らんのか? 全く。我が名はワルダ。世界を
それはロシェが
そして、目の前にある容姿から己との血縁は疑いようもない。
「姉姫、さま?」
「ほう。ぐだぐだと悩む愚鈍ではあるが、勘所は分かっておるらしい」
くるりと少女が宙に浮かぶ。
ふんだんに布を使った衣裳を引き連れて、暗闇にぼんやりと形が見える。
「あの、お父さまが、あなたを使おうとしていて、お母さまの声が、聞こえて、わたし、私どうしたらいいのか……」
「知らぬわ」
え、と声が漏れた。
半眼を向けられ、視線はついと逸らされた。
「我は死人。うつしよのことなど
途方に暮れる。
やっと乾いた瞳がまた潤みはじめる。泣いたって、どうにもならないのに。
「――まあ、久方振りにあれの顔を見たのは
ぴんと額を小さな細い指で弾かれる。
「
ワルダの言葉を最後に、アレクシアの体はふわりと浮上し始めた。
いつの間にか、湖岸に
「……よかった、息は、まだある」
顔は青ざめ、唇は紫に染まっている。けれど、
「早くしないと……」
土付いた身を起こし、ジルドを背負う。意識の戻らない体は重い。
幸いにも流れ着いたのは王都のすぐそば。戻ればきっと誰かが助けてくれる。
「そうよ、協会! 協会に行けば、きっと誰かが……!」
大粒の雨が
ジルドの、自分よりも
そして、ついに協会の建物が視界に入った。アレクシアは抜けかけた力を奮い起こして、最後の力を振り絞って、協会の扉へと近づいた。
「これで、大丈夫……」
アレクシアは抜けかけた力を何とか入れ直し、協会の重たい扉を開けた。
だが、目の前に広がっていたのは、アレクシアが知っているいつもの協会ではなかった。
部屋の中では、頭から血を流しながらもミネテに話している人がいる。腕や頭に包帯を巻いたミネテがその話を受けて、地図に情報を落とし込んでいる。
別の一角では、無理やり折れた腕の骨を
さらに、泥まみれの格好で血と汗にまみれた人々が、栄養剤を一息に飲み込み、休む間もなく外に出ようとしている。
彼らの足音と怒号が飛び交い、協会内は緊迫感に包まれていた。
アレクシアはジルドを背負ったまま、入り口で立ち尽くしていたが、すぐに誰かに
協会は、もはやかつての、騒々しくも活気に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます