昇るは虧月
窓の外に霜の声が降りる。時折吹き込む隙間風、炎が揺れ火花が弾ける。アレクシアは暖炉の
「大市の警護?」
「えぇ、頼まれたの。この間の宴で」
ぴたりと音を止め、眉を
「あ~、飲みすぎた……」
「お顔まっかですよ、ミネテさん」
ミネテが顔を赤らめているのを見て、アレクシアはふふっと笑った。
アレクシアは蜂蜜酒の甘い香りを感じながら、彼女の話に耳を傾ける。
「お前だけだよ、付き合ってくれるのは……
飲んでるとみんな
「ふふ、私でよければいくらでも」
酔ったミネテは普段の
そう言ったのはヘデで、周りの
少し距離を取られた酒場の一角で、 ぽつりぽつりと酒を
「……災難だったな」
話が途切れた時だった。
ミネテは、水を一気に
「でも、ああいうのは少なくない。特に、今は大市の前だしな」
アレクシアの心がざわつく。
人々が集まる場所では、常に
「……それは、とても怖い、わね」
絞りだした声は少し震えていた。一夜も明けていない。まだあの逃げ惑った恐怖が、まだしっかりと残っている。
「だから、お前も
ジルドだって一緒でいい。
ミネテは静かに提案した。その視線は真剣で、そこにはアレクシアへの思いやりが強い思いが感じられた。
それが
「……それなら、仕方ありませんね」
ジルドは大きく息を吐き、しぶしぶ了承してくれた。
「それに、品が多数集まるなら、宝珠が紛れ込んでいるかもしれませんし、丁度良い機会ですね」
ほっとしたのも束の間。彼が続けた言葉に、アレクシアは
すっかり忘れていたのだ。父に頼まれていた『エレシスの瞳』を取り戻していないことを。ジルドの本心や魔物の襲撃に気を取られ、頭から抜け落ちていた。
背中に汗がじわりと伝う。父に頼まれ、自信満々に任せてと
平静を装って
そして、ついに迎えた大市の日。
三つの開拓拠点から人々が集まり、街を
張り巡らされた通りのほとんどは売店で埋め尽くされ、色とりどりの看板や旗が風になびいている。通りを埋める群衆はまるで川の流れのように、絶え間なく動き続け、熱気と活気が辺りを包んでいた。
「わぁ……!」
アレクシアは、その
どこを見ても目移りするような品々が並んでいる。ぱあっと顔が輝き、まるで普通の買い物客のようにふらふらと売店に引き寄せられた。
興味深げに小さな置物や装身具に目をやりながら、アレクシアはふと思い出した。今日は楽しむために来たわけではない。彼女は
そして、何より『エレシスの瞳』を探すという大事な任務がある。
ぶんぶんと頭を振って、気持ちを入れ直したつもりだったのに、ジルドがすぐに甘やかしてくる。アレクシアがふらりと目で追った屋台の串を買って差し出してきたり、これが似合いますよと羽飾りを選んで手渡してきたりと、終始世話を焼かれている。
「ほら、
柔らかな笑みを浮かべながら、ジルドが優しくアレクシアの
ジルドの整った顔立ちと穏やかな笑顔は、明らかに取り入るためのものだとわかっているはずなのに、その優しさに心を揺さぶられてしまう自分が悔しい。いくら彼が野心を持っていると言っても、この甘やかしぶりには限度があるだろうと思わず
それでも、彼のその気遣いが
太陽が中天に差し掛かるまで、アレクシアとジルドは大市を巡り続けた。主に古物商の店を中心に回りつつ、警護として不審な人物がいれば取り押さえるなど、浮かれてばかりではいられない仕事もこなしていた。大市の
そんな中、ふと視線の先にヘデの姿を見つけた。
「あ、また二人でお出かけ!? よかったじゃん!」
目が合えば開口一番に飛び出た言葉に、アレクシアは思わず面食らってしまう。
その無邪気な言葉が、たった数日前の記憶を呼び起こした。以前にそう言われたときに、ジルドが彼女を利用していると聞いてしまったことを嫌でも思い出してしまう。胸の中に苦い思いがこみ上げ、言葉に詰まりそうになる。整理したはずの思いに振り回されて仕方ない。
「いいえ、今日は警護を任されているの」
アレクシアは、なんとか笑顔を作って答えた。
話題を変えたくて、ヘデの服に目を向けた。
「ヘデは、大市を楽しんでいる?」
「うん!
「わ、本当。とても
ヘデが取り出したのは黄一色で作られた糸だった。色むらのなさに驚く。アレクシアも目を輝かせて、見せられた刺繍糸をじっくり眺めた。細かく織られた糸は、光を反射して美しく輝き、その色は本当に鮮やかだった。
二人の間に暖かい空気が流れ、大市の
「アリィたちは? 警護って言ったって楽しまなきゃ損だよ。
欲しいものとかないの?」
ヘデがずいっと身を寄せて尋ねてきた。
アレクシアはジルドと顔を見合わせ、一瞬のやり取りで彼の
「このくらいのね、まぁるい宝石を探してるの」
彼女は
実際に間近で見たことはないけれど、その特徴は頭にしっかりと刻まれている。
「鮮やかな
聞くだけ聞いてみようと気軽な質問だった。
けれど、ヘデの視線が中空に動き、特徴を
何か思い出しそうな雰囲気だった。目を丸くして、
「あ、そうだ、それね、見たこと、
――――――――ないよ! ないない!! 見たことないな! うん!」
慌てたように
じゃ! と勢いよく去っていくヘデを、追いかけることすらできなかった。
「孤児院からもいくつか出してるから、後で寄ってね~!!」
遠くの方から叫ばれる声が聞こえる。
アレクシアはそれを聞きながら、ジルドがぽつりと
「……手がかり、とても近くにありましたね」
「そう、ね……」
アレクシアもそれ以外に言うことが思いつかず、ただ走り去っていくヘデの背中をじっと見送った。手がかりどころではないものを感じたが、今すぐ形にするわけにもいかず、少し焦りを感じ始めていた。
気もそぞろに、大市の終幕を見届けた。
「はぁ……」
夜空に浮かぶ蒼月が満ちようとしている。
戴冠式で母が持っていた宝珠が盗まれた。
それを取り戻してくれと。
けれど、そとの鮮やかさに心を奪われてしまった。見つけてしまえば帰らなくてはいけない。
そういう思いが、ないとは言えなかった。
しかし、不意に飛び込んできた手がかり。
ヘデの不自然な振る舞いが、すべてを変えた。
ヘデが『エレシスの瞳』を盗んだわけではないだろう。
だが、ヘデが知っている誰かが、その
アレクシアの胸に、確信と焦りが同時に芽生え始めた。
宝物庫にはきちんと
けれど、アレクシアは覚えている。壁をすり抜けて進める人を。つい先日、彼に助けられたことを。
「少し席を外しますね」
ジルドは、決断を
冷たい風がアレクシアの
日は沈み、街にはぽつりぽつりと
アレクシアはその静かな街並みを眺めながら、
だが、胸に残る疑念はまだ消えない。
「でも、本当にロシェが……?」
自分を助けてくれたひとを信じたいという思いが、アレクシアの心を大きく揺さぶる。彼の存在は安心を与えてくれたはずなのに、状況証拠は彼を指し示している。外れている可能性があることはわかっているが、それでも調べずに済ませるわけにはいかない。
冷たい風が
「どうしたらいいの……お父様」
アレクシアは悩みながら、自分に任せた父、エルンストに
月夜に仮託すると、蒼月を背に大きく翼を広げた梟が飛んできた。徐々に大きくなる姿は、脇目も降らずまっすぐにアレクシアを目指していた。腕を伸ばせば大きな翼を
「あ、ごめんね。すぐもらうわ」
手紙を解けば、ほのかな花蜜を集めた甘やかな香りがした。
「お父さまからの手紙……!」
時候の挨拶から始まった手紙には、父からの思いが
父はこんなにも信じてくれている。帰りを待たれている。
頼みを忘れていた後ろめたさと、信頼に応えたい気持ちが混ざりあう。
なら、選択はひとつきり。
「そう、そうよね……」
自分に言い聞かせ窓を閉めた。ジルドはまだ外にいるのかと思っていれば、丁度帰ってきた。湯気の立つお茶を手にし、差し出されるままに杯を傾ける。少しだけ乾燥した喉をほどよい熱が下っていく。
アレクシアは深く息を吸い、心の中で決めていたことを口にした。
「宝珠を取り戻しに行きます」
「……ロシェですか。ですが、どうやって?」
彼の問いに対して、アレクシアは考えたことを話した。どこにでも通り抜けられる、どこにでも逃げられる彼を捕まえる作戦を。
話し終え、ジルドを見れば、目を見開いて絶句していた。衝撃から立ち直ればジルドは考え直すように言い募った。けれど、アレクシアの意志は固かった。
だから、ジルドは深く深く息を吐き、静かに言った。
「殿下の、
「来なければいいなと思っていたよ」
月明かりの下、静かな孤児院の庭にひとり立つロシェ。その表情はどこか
「少し、話を聞いてくれるかい?」
彼は柔らかく声をかける。
しかし、アレクシアはすでに心を決めていた。決めたのだ。
揺るがせたくはなかった。
「いいえ、いいえ。問答など不要です。
心当たりがあるのなら、今すぐに渡しなさい」
冷ややかに聞こえるように言い放ち、弓を構え強く引き絞る。その矢の先をロシェに向ける。震えないよう、震わせないように懸命に力を込めて。
「全く、
ロシェはそう言いながら、懐から小さな球を取り出した。ぽんぽんと軽く手のひらで遊ぶように転がしながら、その
アレクシアの目は宝珠に
そして、ロシェがそれを持っていたという事実が重くのしかかる。
当たってほしくは、なかった。
「『エレシスの瞳』を返しなさい……!」
「そんな風に呼んでいるのかい? まあ、奪えるものなら奪えばいい。ただし、僕を捕まえられるものならね」
声を張り上げたアレクシアに対し、ロシェは
軽やかに去っていく姿を見て、茶番が
「追います」
「……はい、私は下から追います。どうか、どうかお気をつけて」
ジルドの
事前に練っていた作戦通り、二人は二手に分かれて行動を始めた。通りを走り抜け、いくつもの家を経由して屋根へと上る。アレクシアは月夜の空を駆ける。
「……見つけた」
二つ三つ屋根を渡った先、ついにロシェの姿が目に入る。彼もこちらに気づき、驚いたようにぽかりと口を開けた。その一瞬の隙を見逃さなかったアレクシアは、思いを込めて静かに言葉を紡いだ。
「あなたは私と誰かを重ねていた。あなたにとって、きっと大切な誰かを」
アレクシアにはわかっていた。ロシェが自分を通して過去に思いを馳せていたことを。そして彼が悲壮な罪悪感を背負っていることを。
それに触れれば、きっと彼は動揺するだろう。
彼女は心の中だけ謝った。手段を選んでいられなかった。
だから。
アレクシアは虚空に身を投げるように、屋根から飛び降りた。大きな月が視界を埋め、手を伸ばしても決して届くことはない。身体が宙に浮き、重力が引き戻すまでの一瞬の無重力に息を止めた。
「――何を考えてるんだ!?」
ロシェの驚きと焦りの声が、空を裂いた。その声は、アレクシアの耳に強く響き、彼が想像以上に己の行動に動揺していることがわかる。
賭けに勝った。
地面に
そして、それを理解していながらも、アレクシアはその感情を利用した。
計画は最終段階へ。
「捕まえましたよ」
耳元に
その隙をついて、アレクシアはロシェの懐から宝珠を取り戻す。手の中に収まるのは、細かな彫刻が施された美しい石。アレクシアはそれを月の光に
「……それが君の選択かぁ」
ロシェは
宝珠を盗み本当に自分のものとしたかったのなら、アレクシアなど見捨ててしまえばよかったのだ。けれど彼はアレクシアを傷つけることを
胸に残る罪悪感と、手にした宝珠の重さ。
遠くから駆けてくるジルドの気配を感じながら、アレクシアはロシェから離れた。
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