路地の風
「赤毛豚の足を二本と、それから
アレクシアは首から肩にかけてにぐるりと包帯を巻いたまま、大通りに並ぶ肉屋の前で軽やかに注文を告げた。包帯の白が青い髪に映えて、道行く人の視線を奪う。けれど、アレクシアは一切気にしていない。
店主は彼女を
「まいど! 随分と買い込んでるけど、宴会でもするのかい?」
「えぇ、遠征隊がみんな無事に帰ってきたの。それで祝勝会を開くの」
「勝ったのかい! そりゃあ一安心だ!」
肉屋の店主は彼女の言葉に
遠征隊の中でも、彼女たちは一番早く帰還を果たした。
疲労感に包まれながらも、勝利の余韻に浸る間もなく次々と他の隊も戻ってきたのだ。討伐の報告が掲げられるたびに街は徐々に活気を取り戻し、今では祝祭の準備が進んでいる。
ちなみに、一番遅かったのはジルドたちの隊だ。体は限界まで酷使されたのか、ジルドは帰ってくるなり泥のように眠り込んでいた。
彼らが目覚めたら、すぐに祝勝会を始めるつもりで、アレクシアは街中を駆け回り、食材を買い集めていた。街の出入りを危ぶんだ商人もいたが、迅速な解決に皆
「それじゃ、これは都を守ってくださった
店主がそう言いながら、両手いっぱいに抱え込んだ肉の塊の上にさらに大きな塊を乗せてくる。
「わ、こんなにたくさんもらっていいの?」
「いいよいいよ! ただ、ウチの肉だってことを
商魂たくましいとアレクシアは内心で感心する。彼女の視線が店の看板に向かうから、そこに書かれた店名をしっかりと覚え込み、頭の中で
両手も視界も高く積まれた食材で
「お姉ちゃん、大丈夫?」
声の方に顔だけで振り向くと、つい先日見かけたリーベン孤児院の子供が立っていた。まだ幼さの残る瞳にじっと見つめられている。
見覚えはあるが、
なんと呼ぼうか悩んでいると、少女の方が先に動いた。
「トゥーラだよ! お姉ちゃん、それ一人で運べるの?」
元気いっぱいに名前を教えてくれた少女、トゥーラはすぐにアレクシアの荷物の一部をひょいと手に取った。軽やかに動く彼女のおかげで、ようやく前が見えるようになり、アレクシアはほっと息をつく。トゥーラは慣れた手つきで風呂敷を取り出し、いくつかの食材を包んで背負った。
「ありがとう、トゥーラはいい子ね」
アレクシアはトゥーラの目線に合わせて、できるだけ優しく声をかけた。トゥーラは得意げににこっと笑う。その笑顔はヘデによく似て太陽のように明るく、アレクシアの胸も温かくなる。孤児院で育った子供たちはみな、こうして日々の生活の中で助け合い、優しく逞しく育っているのだろう。
「目的地までまだ遠いから、少し困ってたのよ」
「きょーかい本部でしょ? 大通りだと遠回りだよ!」
そう言うや否や、トゥーラは張り切って小走りで駆け出し、狭い
「ね、ねぇ、トゥーラ。ここって、通っても大丈夫?
ヘデは何か言ってなかった?」
「ヘデ姉はあんまりいい顔しないけど……みんなさっと通ってるから平気だよ!」
その言葉に、どうやったって胸中に不安が満ちる。
けれど、トゥーラがあまりにも慣れた様子ですたすたと進んでいくから、今更戻ろうにも、もうどこから来たのかすっかり分からなくなってしまった。
トゥーラの小さな背中が前方で揺れるのを見失わないよう、アレクシアは必死に足を動かす。路地を曲がるたび、どんどんと
ぶるり、と冷たい震えがアレクシアの背中を駆け抜けた。
嫌な予感が頭をもたげる。
「じゃあ、早く抜けてしまいましょう。早歩きできる?」
「できるよ!」
トゥーラが無邪気に元気よく答えた。
少女の先導に従い、しばらく早足で路地を進んでいった。だが、どれだけ歩いても不安は消えず、むしろ次第に強まっていく。
いつの間にか、周囲に気配が増えてきた。姿は見えないが、こちらを伺っているような感覚が肌に
かすかな物音が風に乗って耳に届くたび、アレクシアの心拍はさらに早くなる。トゥーラも気づいたのだろう、彼女の足取りがどんどんと速くなり、焦るように歩みを進める。
しかし、それでも一歩遅かった。
「そんなに急いで、どこへ行こうっていうんだい? 少しぐらい話していきなよ」
立ち止まれず、女に激突しかけたトゥーラを、アレクシアはとっさに手を伸ばして引き戻した。その拍子に、トゥーラの持つ風呂敷から果実がひとつ、ぽろりと路地に落ちる。
女はそれを拾い上げてにやりと笑った。底冷えするような笑みに背筋が泡立つ。
薄汚れ、あちこちが擦り切れた衣。それを幾重にも
「最近、
余裕と嘲笑。なにが楽しいのか、醜悪に口を
「駆除の時期だな、なんて話してたらさ。おや、なんだい。親鼠まで来やがった」
女は果実を軽く放り、不気味な笑みを浮かべている。アレクシアはトゥーラの小さな震える手をしっかりと握りしめた。だが、安心させるために抱き寄せることはできない。
アレクシアは女から目を
どうにかして、この状況を切り抜けなくてはならない。
「……ごめんなさい。あなたたちの家を荒らすつもりはなかったの。子供たちにもきちんと言い聞かせるわ」
アレクシアは、
だが、その声には確かな震えが乗った。
「謝りゃ済むと?」
女は嘲笑を浮かべ、にじり寄るように一歩前に出た。
アレクシアは必死に周囲を探った。
自分たちだけでは突破は無理。
そんな言葉が頭を過ぎる。
けれど、どうにかしてこの状況を打開しなければならない。
「もちろん、これはすべてあなたたちに差し上げるわ」
アレクシアはトゥーラと自分の腕に抱えた食料を指さし、崩れそうになる膝を折って地面に置く。少しでも事態を
だが、女はその提案に対して大声で笑い飛ばした。
「ははっ! 足りねぇなぁ!! 食い物なんぞで、ウチらの腹が満たされると思ってんのか?
身ぐるみ全部置いてきなぁ!」
交渉の余地はない。彼女はすべてを奪うつもりだ。
距離を保っていた人影が、女の声を合図に駆け寄ってくる。自分よりもはるかに大柄な男たちがこちらへと押し寄せ、逃げ場はない。恐怖が喉元を締めつけ、全身がこわばるような感覚に襲われる。
それでも――それでも! 怒ったミネテの方がよっぽど恐ろしかった!
「走って!」
トゥーラに叫んで、アレクシアは手を掛けたままでいた食材の袋を思い切り投げつけた。重い肉の塊が女に向かって飛び、顔に直撃する。女が
ただでさえ狭い路地は、家々の隙間に角材やら木材が
アレクシアは刹那の判断で、すれ違いざまに壁に寄りかかっていた不安定な角材を崩した。壁を
背後からの怒号に固まりかける足を
ひとまず、すぐに追いつかれることはないだろう。しかし、安心する暇はない。大通りに出なければ、この逃走劇は終わらない。路地ではまだ彼らの気配がちらついている。
「トゥーラ、どう行けばいいの!?」
「っ、こっち!」
トゥーラは次の次の角を素早く曲がった。彼女はこの街の
二人は息を潜めながら、狭い
しかし、曲がり角で影を見つけては引き返し別の道へ進み続けて、二人はますます迷い込む。大通りに
真綿で締められるような感覚がする。息苦しさが増し、頭の中に恐ろしい考えが浮かんでくる。
もし捕まったらどうなるのか。
そんな未来考えたくなかった。追手が身ぐるみを
では自分たちを売り飛ばすのか、それとも何か別の目的に使われるのか。最悪の想像は、都市伝説で耳にした人肉を好む魔物の餌になるという話まで行き着いた。
心臓はさらに激しく脈打ち、冷や汗が背中を伝う。それでも、大粒の涙を流すトゥーラを安心させたくて、必死に励ましの言葉を口にする。
「もう少し、きっともう少しだから、頑張って……!」
だが、幼いトゥーラの体力はすでに限界だった。小さな足を何度も
「トゥーラ!」
アレクシアは瞬時に彼女の小さな体を抱え込んだ。軽い少女の体は簡単にアレクシ
アの腕の中に収まるが、ずしりと重みがのしかかった。
***
アレクシアたちが必死に逃げている最中。
ジルドは討伐を終えて王都に戻り、
皆に不評で
深い眠りの中、ジルドは近づく気配にもまったく気づかなかった。その警戒心が薄れていたことに後悔する暇もなく、突然の衝撃が腹に落ちた。
「っぐ!?」
激痛とともに、意識が浮上する。苦しげに息を整えながら
「ねぇ、昨日の続き」
ぼやけたジルドの視界に、眉を
「はぁ?」
要領を得ない言葉に
「だから、昨日の続き。お前、アリィのことどう思ってんの?」
ヘデはじれったそうに繰り返した。
ジルドはやっと理解した。リーベン孤児院での会話を彼女が蒸し返そうとしているのだと。アリィ、つまりアレクシア殿下についての話題だ。二手に分かれた途端に殿下に関して聞いてきて、彼女がやたらと追及してきたのを何とかはぐらかしたのだ。ちょうど警鐘が鳴り、混乱の中で話は
ジルドの
「その話、まだするんですか? お前には関係ないでしょう」
ジルドは
「関係あるに決まってんでしょ。アリィは
彼女の声には、真剣さと
ヘデの瞳が鋭く、自分をじっと捉えている。彼女の視線から逃れようとするが、どこにも逃げ場がない。彼女の真剣な
だが、それでも彼女の問いに答えることは難しかった。
どう答えればいいのか、自分でも分かっていなかったから。
出世のために利用しようと、王宮で孤立したアレクシアに近づいた。
危険なんて承知の上で。
無知な彼女に適当に話を合わせつつ、
だが、女王亡き今、国の頂点に君臨する王佐に目を掛けられた。
もうすぐだと、つまらない日々ももうすぐで手放せるのだと思って、少しだけ心に風が吹いた。
そんな最中に旧友に出会って、酒に溺れて。
月の光が差し込んだ部屋の中。その
誰もが目にすれば醜いと
夢なのか現実なのかさえわからない。
「何とか言ったらどうなの」
ヘデはジルドの襟首を
しかし、その時――
「アレクシア、まだ買い出しから帰ってきてないのか?」
その言葉を聞いた瞬間、ジルドの全身から血の気が引いていくのを感じた。心臓が凍りつく。思考は一瞬で途切れ、ただ一つの思いが彼の中を
無事でいてほしい。
ジルドは自分の心をようやく理解した。それは職務や野心の感情では決してないもの。だが、その事実に向き合う暇はない。彼の体は無意識に動き、ヘデの手を振り払うと同時に飛び出した。
***
こんな治安の悪い場所があるなんて、アレクシアは今まで知らなかった。
これまでずっと見てきたのは、
涙を流す余裕すら、今は惜しい。感情に浸る暇もなく、ただ生き延びるために足を動かさなければならない。
トゥーラを抱えながら、アレクシアは痛む足を無理やり動かし続ける。だが、息が苦しい。溺れているように
もう限界。
そんな声が頭の中で
でも、でも。
「――手間かけさせやがって。さぁ、鬼事もこれで終わりだよ」
背後から迫る女の冷たい声が、アレクシアの耳に突き刺さる。
走って、走って、逃げた先に広がったのは、見上げるほどの高い壁。行き止まりだった。息を切らしながら振り返ると、女が悠々と歩いてくる姿が視界に入る。
その余裕ある歩調が、アレクシアの選択肢を奪う。逃げ場はもうどこにもない。高い壁を越える術もなく、背後から迫るのは今にも牙を
絶望がアレクシアの全身を包み込む。胸の中が空っぽになり、意識が沈んでいくような感覚さえ覚える。ここで終わるのか。
――誰か、誰か助けて。
渇いた喉は音を紡がず願いは言葉にはならない。
けれど、その心の中で叫んだ願いは、確かに誰かに届いた。
「こっちだよ」
不意に、アレクシアの体が壁の中に沈み込んだ。
何が起こったのか理解できずに反射的に暴れたけれど、その腕をしっかりと誰かに引っ張り上げられた。
「……ロシェ?」
驚いて見上げると、この場にそぐわない、穏やかな笑みを浮かべた男の姿があった。ロシェはしぃと静かに薄い唇に手を当てた。見知った、頼りになる人物の登場に、懸命に入っていた足の力が抜ける。その場に崩れそうになったが、ロシェにしっかりと手を引かれて立ち続けられた。
彼の力強い手が、悪い夢から引き揚げてくれた。
腕の中で気を張っていたトゥーラは、味方の登場にほっとしたのか、眠ってしまっていた。小さな体がぐったりと力を抜き、アレクシアの腕に重さが増す。
「まだ近くにいるから、静かにね。早く大通りに出てしまおう」
ロシェが
騒がしい市場の音が一気に耳に飛び込んできて、アレクシアは信じられない気持ちで周りを見渡した。
「助かったの……?」
動揺、焦燥、絶望、そして
「そうだよ。ヘデたちが必死に探していたよ。早く帰らないとね」
ロシェの声には、確かな安心感があった。
「アリィ!!」
空間を揺らす叫び声にアレクシアの肩がびくりと上がる。振り返ると、影が視界に飛び込んできた。声の主を確認する間もなく、熱が体を包んだ。伝わる鼓動は早鐘を打ち、頭上から聞こえる声は大きく荒い。
「……街中を探しました。ご無事で、本当によかった」
耳元で
でも、それが演技だと思うと、アレクシアの胸に空虚さが広がる。自分でも納得していたはずだった。それでも、ジルドの
アレクシアは重たい腕を持ち上げ、ジルドの背中に回した。言葉が
しばらくの間、二人は時を忘れて抱き合っていた。
だが、突然ジルドがばっとアレクシアに回していた腕を放し、ばっと後ろに飛びのいた。両手を挙げ、
「いえ、あの、申し訳ありません!」
行動の意図が読めず、アレクシアは首を
ヘデはただ大きく
「……トゥーラには後でしっかり説教しとくね。
あんなに危ないところを通るなんて、」
「それが、いいわね。危ない目には、遭わない方がいいもの」
ヘデは眠り込んだトゥーラをロシェから受け取ると、そのまま孤児院への道を静かに歩いていった。
「帰りましょう」
ジルドが差し出した手を見つめながら、アレクシアは一瞬手を伸ばしかけたが、その動きがぴたりと止まった。
ジルドが不思議そうに首を
「買い出し……できてないわ……」
「はぁ!? そんなことどうだって良いでしょう?!」
声を荒らげる姿に一瞬思考が止まる。
でも、初めて見た反応にアレクシアはふふと笑い、何も言わずにジルドをその場に置いて先に歩き出した。結局、買い出しが未遂のままだったことなど気にせず、彼女は討伐祝いの宴に参加し、
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