恋に恋して、夢を夢見た

 月夜にきらめくほのかな明かりを見た後、アレクシアはジルドと共にいくつかの依頼をこなした。

 湖に群生している蒼蜥蜴ザランドを釣りあげたり、畑を荒らす小猪を追い払ったりと、少しずつ狩人かりうどとしての経験を積み重ねていく。


 荒地に水をくように、白いキャンバスに色を乗せるように、アレクシアは目に映した全てを吸収していった。


 そんなある日、オリスから突然、大衆劇場の入場券を渡された。

 彼からのいつかのびであるらしい。


「いや、あいつのことだから、いらないものを押し付けたんじゃない?」

「そうなの? でも、もらったの初めてだから、楽しみ」


 ヘデは少し眉をひそめながら疑わしげに言うけれど、アレクシアはただ純粋にうれしくてふわりと笑みを浮かべた。

 王都の中心部に位置する劇場は、いくつかの劇団が入れ代わり立ち代わり公演している。観劇の場であり、ひとが集まる交流の場でもあるらしい。当然行ったことのない場所。しかも、オリスがくれた入場券は一階のものだ。間近で劇を見れるから、相応に高い額が書かれている。

 その純粋な反応に、ヘデもそれ以上の難癖はつけず、口を閉じた。


「じゃあ、ちゃんとカッコつけないとね! へなちょこ!」

可笑おかしな名前で呼ばないでくださいと何度も言っていますよね?

 あと、恰好かつこつけてなどいません。至って自然体です」


 矛先を失ったヘデはジルドに向かって茶化ちゃかすように声をかけた。たるの上に小さく身を丸めたヘデがゆらゆらと振り子のように揺れている。ジルドもふん、と鼻を鳴らしながらも、無視することなく応対している。


 そのやり取りを見て、アレクシアは微笑ほほえんだ。河岸での教導でどのようなやりとりがあったのはわからないが、口調こそ変わらないものの、ジルドとヘデの間には気安い雰囲気が生まれていた。


「――二人でお出かけだから、ちゃんとおめかししないとね」


 ヘデがひそひそと内緒話のように目配せしながらささやいてくる。その言葉に、アレクシアは一度目を丸くしてから、ふんわりと細めて笑む。彼女にとって初めての大衆劇場、そしてジルドとのお出かけ。

 その響きにどこか期待と胸の高鳴りが混じっていた。



 翌日、が山際から昇る前に起きたアレクシアはヘデと共にいた。あれやこれやと、服や靴に装身具を選んで着飾った。ようやく満足いくものになったのは待ち合わせのほんの少し前で。


 ぱたぱたと早足で待ち合わせの場所へと向かえば、噴水の前にジルドがもう立っていた。

 いつもの生成りの服とは違って、襟や袖口に刺繍ししゆうが施された洒落しゃれた装いをまとっている。前髪だって、いつもは動作の邪魔にならないように上げ、眼帯をあらわにしているのに、今日は下ろして眼帯を少しだけ隠すように見せている。


 王宮にいた頃のような美しくも堅苦しい雰囲気はなく、かといって狩人かりうどとしての合理を極めたものでもない。自然体の恰好かつこうが彼によく似合っていて、アレクシアは、ほうと息を漏らした。


 自分もヘデから借りた銀灰色の襟巻にほおを埋め、狩人かりうどの依頼の報酬で手に入れた可愛かわいい膝丈の衣裳いしように身を包んでいる。初めて王宮から出たときにジルドが買ってくれた羽飾りもある。ヘデも似合うと言ってくれた、と自分に言い聞かせる。自然体であるように意識して彼に近づいた。


「待った?」

「いいえ、それほど。では、アリィ、行きましょうか」


 ジルドは優雅な手つきを見せながら手を差し出した。アレクシアはその手に自分の手をそっと重ねると、劇場へと向かって歩き始めた。


 入場券に書かれていた劇場は、噴水から歩いてわずか五分ほどの場所にある。周囲より少し背が低く、入り口も奥まっている。

 券を見せて中に入ると吹き抜けを三方囲うように柵が覆っていた。柵と壁の間にはいくつもの円机が立ち並んでおり、立食形式のように自由に歩ける。決まった席はなく、アレクシアたちと共に入ってきた観客は思い思いに過ごしていた。


 次々とひとが入ってきて、広々とした劇場はあっという間に満員となった。にぎやかなざわめきが室内に広がっていった。頭上からも声が聞こえる。

 協会内部と同じかそれ以上に集まった人の熱気に圧倒されそうになったが、ジルドが優しく声をかける。


「アリィ、こちらに」


 その声に促されるように、アレクシアはジルドに身を寄せた。彼のぬくもりを感じながら、はやる鼓動が伝わらないことを心の中で祈る。その鼓動も舞台の幕が上がる瞬間には自然と静まっていった。


 周囲のざわめきが徐々に薄れ、場内が静まり返る。観客の視線は一斉に舞台に向けられ、アレクシアもまた、劇の始まりに目を輝かせていた。






 劇は、この王国の建国譚けんこくたんだった。

 アレクシアも学んだ歴史であるが、一人で書物を読んで知った厳粛で格式あるものとは異なっていた。物語は面白おかしく、観客にとって分かりやすく脚色されているように感じた。



 物語は数百年前。

 かつて世界を支配していた帝国が滅亡した後から始まる。


『あの、大丈夫? 怪我けが、してない?』

『行くところがない? ならば、私たちと共に来なさい』


 主人公はみすぼらしい少年。

 双子の皇女が彼に手を差し伸べたことで物語が動きだした。


『わあ力持ちだ! すごいね!!』

『無駄口たたいてる暇があるの? 休む時間もなくなるわよ』


 穏やかでどこか抜けている妹姫と、気位が高く誤解されがちな姉姫。

 二人に助けられた少年は、村の仲間たちと共に、貧しくも平穏な日々を送っていた。彼らの間には温かいきずなが芽生え、少年は安寧を知った。


『一体何?』

『空が、――空が落ちてくる』


 けれど、安寧は一瞬で奪い去られた。

 平和な生活は初めて見る狂暴な獣たちによって蹂躙じゆうりんされた。

 帰る地を失った村は二人の皇女を先導者として、安住の地を求めるたびに出た。


『これ、食べられる?』

『っ自分で確かめなさい! こっちに持ってくるな!』


 旅の中、妹姫は徐々に統率者としての才を発揮し始めた。

 対照的に、姉姫は体調を崩しがちになっていた。道中は背負い、寝台に食事を運び、少年が甲斐甲斐かいがいしく世話をしていた。けれど、いつしか姉姫の瞳には羨望せんぼうや嫉妬の光が宿っていた。


『私たちも、貴方あなたたちと共に――』

『――ええ、共に安住の地へ』


 旅を続けるうちに、住む土地を失った人々が次々と彼らの一行に加わった。 

 山を越え、海を越え、ついに彼らは目的の地に辿たどく。


 それは人里離れた山中の湖のほとり。神の宿る地。

 そこには豊かな食物と湧き出る清水があり、誰もが肌で理解した。この場所こそが、彼らの安住の地であると。

 たとえ魔物蔓延はびこる地であっても、これ以上はないと皆理解していた。


『やっと、やっと辿たどいた……!』

『長かった……でも此処ここだ』


 人々は感謝に涙し、そして妹姫を頂点として、新たな国が築かれた。

 しかし、旅の過酷さの中で、姉姫は弱り切り、もはや体を自由に動かすこともできなくなっていた。それでも、妹姫の懇願によって、彼女は生き続けていた。限られた資源の中で、姉は命をつなぎ止めていた。


『――私には何ができるだろう。妹のために、彼のために』


 悩み苦しんだ姉姫はついに決断を下す。


『神よ、わが身をささげます。どうか彼らにあなたのご加護を――』


 その祈りと共に、姉姫はその命を神にささげた。

 その献身により、妹姫が治め少年が愛する国は、魔物への守護を、絶対の安全地帯を得ることとなった。

 少年は愛する人を失ったが、その人が残した国を、彼は今も見守り続けているのだ。





 劇が終わると、アレクシアのほおには涙が静かに伝っていた。

 これまで文字を読み、話を聞くだけでは思いをせることもなかった建国の祖たちの物語が、舞台で演じられることで強く胸を打った。本人と見紛みまがうほどの演技と臨場感あふれる演奏。涙は止まることなく、声を出すことすらできない。


 そんな彼女に気づいたジルドが、そっと手を引いた。

 促されるままに劇場を出て、街灯の光がゆがんだことでアレクシアは自分が泣き続けているとやっと気づいた。目が腫れてしまうかもしれないと思いつつ、余韻に浸っていた彼女を、突然の若い男の声が現実に引き戻した。


「――あれ、ジルドじゃん?」


 軽快な声が響き、アレクシアは緩慢な動きでその方向を向いた。


「え、女のひと泣かしてる?! いや、いつかはやると思ってたけどさぁ」

「黙れ貴様……!

 アリィ、申し訳ありませんが、今日は一人で帰っていただけますか?

 危ないので大通りだけお通りくださいね」


 ジルドが静かに顔を強張こわばらせ、しかし急いだ声でそう言うと、男を厳しい目でにらみつけた。


「お前、ちょっとこっちこい……!」


 ジルドは男を引っ張ってその場を離れていった。

 茫然ぼうぜんと立ち尽くすアレクシアは、しばらくの間、何が起こったのか理解できずに目をぱちくりさせていたが、ジルドの言葉に従って家へ帰ることにした。  


 通るようにと言われた大通りだけを通って。


 帰路きろを半分辿たどったころだろうか。窓に映る自分の髪から羽飾りが消えていた。

 慌てて周りを見ても、見える範囲の地面に銀の輝きは見当たらない。


「ぁ、劇場の中……? まだ入れるかしら?」


 アレクシアは立ち止まり、劇場を振り返った。舞台の余韻がまだ胸に残る中、一度深呼吸をして静かに劇場の方へ向き直った。




***




 余計なことを垂れ流す青年――シュピィの耳をつかみ、ジルドは迷うことなく劇場の裏手へと引きずり込んだ。足は無意識に動いていた。頭の中では冷静さを保とうとする一方、怒りが沸き上がるのを抑えられない。がさつな足音が夜闇に響く中、シュピィは相変わらず軽口をたたき続ける。


たま輿こしに乗ったと思ってたんだけどな~いや真面目くんがまさかなぁ」

「違うと言っているだろう!? 耳が腐っているのか?」


 ジルドは怒りを堪えきれず、何度も短い間に声を荒らげた。鬱憤うつぷんがたまり、苛立いらだちを感じながら、どかりと無造作むぞうさに、放り投げられたたるに腰を下ろした。低く打った舌打ちも、シュピィには全く効かない。彼は素知らぬ顔で、まるで聞こえなかったかのように軽い調子で言葉を続けた。


「分かってるって、劇だよな。

 うれしいぜ、お貴族様が泣くほど劇にかってくれるとは、ね」


 言葉だけなら、自らの手掛けた観劇に観客が感極まったことを嬉しく思っているように聞こえた。けれど、彼の顔に浮かぶのは仮面のような笑みでしかない。色の抜け落ちた瞳がジルドを射抜く。


「……無垢むくなんだよ、だからなんでも染みる」

「無垢ね、無垢。いいなぁ~汚いこととかせずに生きてられたんだろうなぁ」


 その揶揄やゆするような言葉に、ジルドは返す言葉を迷った。そして沈黙を選ぶ。

 酒をあおり、返杯して場を濁そうとした。シュピィの言葉は皮肉じみていたが、強く否定もできない。

 だって、それが事実だから。


 アレクシアは箱庭の中で育てられてきた。母である女王メルキシアに、そして彼女が亡くなった後は父である王佐エルンストに、大切に守られていた。

 彼女は美しいものだけに囲まれ、外の世界の痛みや醜さを知らずに生きていた。川の冷たさすら、今まで知らなかったのだ。


「……あまり詮索するな。なんにせよお忍びだ」


 ジルドは声を低くして言い、シュピィのお喋りを制した。彼女の素性すじようが露見するわけにはいかなかったし、アレクシアに向ける感情を深堀したくなかった。


「そりゃそう。いや~俺と一緒に底辺で目ん玉ぎらぎらさせてたやつが、王宮まで上り詰めるとはなぁ。


 は~友の栄光にかんぱ~い」


 シュピィの掲げる杯が月の光を浴びて輝く。

 ジルドの脳裏に過去が鮮明によみがえる。


 あの頃は今のように眼帯をつけていなかった。家族に醜いと見捨てられ、路地裏ろじうらで残飯をあさり、何とか生き延びていた少年時代。痛みはもう感じないはずなのに、無意識にジルドは右目を片手で覆った。見捨てられた自分の手をつかんでくれたのは目の前にいるシュピィだった。


「お前こそ、今日の舞台楽師たちの責任者だっただろうが……。乾杯」


 ジルドは口ごもりながらそう言って、杯を持ち上げた。

 道は違えど、原点は同じ。ジルドは王宮で、シュピィは劇場で、それぞれの場所で身を立てている。共通の過去を思うと、邪魔をされても強く出られない。そしてそれが不快ではなかったから、また顔をゆがめる。


「よっしゃ、今日は飲むぞ~! あの嬢ちゃんの話、聞かせろよ!」

「だから、お忍びだって言ってるだろうが!」


 声を荒らげシュピィに吠えるジルドではあるが、樽から腰を上げることはない。口先だけの抗議であった。




 王宮に上がってからしばらく断っていた酒精は、いとも容易たやすくジルドの体をむしばんだ。顔を赤らめて、呂律ろれつも回らなくなった。自制は失われ、思うままに言葉を重ねた。


「だから、あの人を足掛かりにして地位を固めきゃいけないんだよ。お気に入りの楽師ってだけじゃ、まだまだなんだよ……」


 前言撤回し愚痴を垂れ流すジルドを見て、シュピィはけらけらと笑い声を上げた。


「お気に入りになってるんだから、充分だろ。ほんと強欲だよな~」

「初めて近くにいたから気に入ってるだけだろ。すぐに興味が薄れるだろうよ……。

 そうなる前に、なんだよ」


 何に?

 一体何にだろう。


 焦りのにじんだ言葉が空虚に溶けていく。

 ゆらゆらと揺らめく水面に映る自分の顔は判然としない。


 でも、アレクシアに捨てられる前に地位を盤石なものとしなければならない。だから、宝珠捜索も、早く終わらせてしまいたい。王女ではなく王佐の後ろ盾を手に入れたい。


「うーん、でも、お前がそこまでいうようなやつがいつか王様になんの?

 は~未来が怖ェなぁ!」

「あぁ、そうだな……あれ、酒はまだあるか?」


 酒瓶を逆さにして揺らすが、もう中身は空だった。

 ひょいと抜き取られ、中身の詰まった酒瓶がまた手の内にあった。


「あるある! 飲んで愚痴っとけ! 明日からもび売らなきゃなんだろ? 今だけでも憂さ晴らししとけ!」

「あぁ、きっとうまくやって見せる……」


 ジルドはうわごとのように繰り返しながら、再び酒を飲み干した。ついにはつぶれてしまい、たるの上で体をぐったりと倒した。


「お、つぶれたか。珍しいこともあるもんだな……。

 えーっと、家どこに借りたって言ってたっけ?」


 シュピィは困ったように頭をかきながら、酔いつぶれたジルドを見下ろしてつぶやいた。介抱せねばと思うが、いかんせんジルドの家を知らない。

 どうしたものやら。




***




「こっちかしら? えっと、お邪魔します」


 アレクシアは、静まり返った劇場の中にそろりと足を踏み入れた。舞台上空、開け放たれた天上から月明かりだけが薄く差し込み、場内がぼんやりと浮かび上がる。万一踏みつぶしてしまわないよう慎重に歩を進め、羽飾りを探した。暗がりの中、目を凝らしながら足元を探す。隅から隅まで、くまなく。


「あった! よかった……」


 羽飾りには傷も汚れもない。買ったときの綺麗きれいなままの姿にアレクシアは安堵あんどの笑みを浮かべた。大切に胸に抱きかかえ、安心して帰ろうとしたその時、どこからかかすかな話し声が聞こえてきた。


「……ジルドの声?」


 ふいに耳に届いたその声は、ジルドのものだった。低く響いて、聞いていると安心して眠くなってしまう声。

 青年の手を取り、姿を消してしまったジルドがどこで何をしているのか。


 ぴょこと芽を出したアレクシアの好奇心に背を押され、静かに足音を忍ばせて声の主へと近づいていった。


 息を潜めながら、彼らの声が聞こえる方へと向かう。距離が縮まるにつれて、ジルドが誰かと話しているのがはっきりとわかった。アレクシアは少しだけ躊躇ちゆうちよしたが、それでもどうしても気になってしまい、そっと耳を澄ませた。




「だから、あの人を足掛かりにして地位を固めなきゃいけないんだよ」

 



 息が止まった。

 頭の中が真っ白になった。

 続く言葉など聞きたくないのに、動けない体には簡単に刺さっていく。


 ひとりきりの庭園は寂しくて、忙しい父になどすがれない中で自らそばに来てくれたジルドは、自分にとって特別だった。

 月のような笑み、優しく伸ばされる手、頼りになる広い背中。


 彼の一面を知るたびに、父への親愛とはまた別の淡い感情が育っていった。歌と花に満ちた和かな生活がずっと続いていくと信じていた。


 でもそれは、彼の手で作られた幻想でしかなかったのだ。

 取り入り、利用するための、幻想。


 頭の中は混乱して、何をどう思っているのかすら自分で把握できない。ただ体が勝手に動いていた。足は無意識に後退を選び、真意を確かめることから目をそらして、反射的に走り出していた。


「アリィ!?」


 走っている中で、聞き覚えのある声が叫んでいた。ような気がした。

 それでも足を止めることはできなくて、ただがむしゃらに走った。胸の中でじぐじぐと痛む思いは、名前もつけられないまま、己を突き動かしていた。


「はぁ、はぁ……」


 アレクシアの息が乱れる。胸が苦しくて、まるで体が自分のものではないように感じていた。魔物に追われながら走った時よりもはるかに苦しい。心臓が音を立てて鳴り響き、涙がほおを伝い、ぽたぽたと地面に水滴が落ちていく。


 いつの間にか、ジルドの用意した家に辿たどいていて、ふと、てのひらの痛みに気づいた。ぐしゃぐしゃにつぶれた羽飾りが、握りしめた手の中にあった。


 あれほど大切にしていたのに、今はその形すらゆがんでしまっている。


 アレクシアは家の中を見渡す。

 目に映るすべてがジルドとの思い出に結びついた。短くも楽しかった日々が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。楽しかったのに、うれしかったのに、あの言葉がすべてうそだったのだと気づいた瞬間、胸が張り裂けるような痛みに襲われた。


「どうして……」


 涙が次々とあふれ、アレクシアは声を押し殺して嗚咽おえつした。



 どれほど時がったことだろう。月は雲に隠れ、時を教えてくれない。


「おーい、誰かいるぅ!?」


 扉が大きくたたかれ、その音にアレクシアの返事の声は裏返った。扉を開けると、先ほど劇場で見た青年がジルドを背負って立っていた。


「ありゃ、まだ泣いてたのか?

 ふふん、それほど心を動かしてもらえると楽師冥利みようりに尽きるね」


 彼は軽口をたたきながらも、何かを見抜くような鋭い目をしていた。アレクシアは一瞬戸惑ったが、精一杯の笑みを浮かべようと努めた。


「――ええ、素晴らしい音楽だったわ」


 言葉はそう答えたが、自分がちゃんと笑えているのかどうか、アレクシア自身にも分からなかった。

 それでも、青年に気づかれないように微笑ほほえもうとする自分がいた。


 それ以上会話は弾まず、青年はジルドを雑に寝台に寝かせ、帰っていった。

 寝息を立てるジルドのほおは酒精のせいで赤く染まっており、すやすやと安らかな眠りに就いている。彼の無防備な寝顔を見つめながら、アレクシアの胸には混沌とした感情が渦巻いていた。


 今は本当? うそじゃない? これも演技?


 そんな疑念がアレクシアの心を駆け巡る。ジルドのほおに手をわせていると、眼帯のとどひもが緩んでいたのか、ふいに外れてしまった。 


 あらわになったのは彼の右目を覆うあざだった。ただれたまま乾いてこびりついた火傷やけど跡。生々しい肉の色をしにした、きっと醜いとされる瘢痕はんこん。そしていつの日か揺すった秘密。


 それが目の前にある。

 でも、そんなことどうでもよかった。


 隠された眼帯の下が気になっていた幼いアレクシアは、もう姿を消してしまった。無邪気に見るものすべてを信じていた自分もいない。

 目に映るものに動く心は息絶えた。胸に込み上げる様々な感情の中で、ただ、彼と共に暮らした日々の余韻が深く残っていた。


「おやすみなさい」


 ささやくように言葉を口にして、彼の寝顔を見つめる。うそだったことも、裏切りを知ったことも、すべてを抱えながら、アレクシアは静かに彼の側に寄り添った。


 今だけは、その一瞬の安らぎを信じたかった。

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