恋に恋して、夢を夢見た
月夜に
湖に群生している
荒地に水を
そんなある日、オリスから突然、大衆劇場の入場券を渡された。
彼からのいつかの
「いや、あいつのことだから、いらないものを押し付けたんじゃない?」
「そうなの? でも、もらったの初めてだから、楽しみ」
ヘデは少し眉をひそめながら疑わしげに言うけれど、アレクシアはただ純粋に
王都の中心部に位置する劇場は、いくつかの劇団が入れ代わり立ち代わり公演している。観劇の場であり、ひとが集まる交流の場でもあるらしい。当然行ったことのない場所。しかも、オリスがくれた入場券は一階のものだ。間近で劇を見れるから、相応に高い額が書かれている。
その純粋な反応に、ヘデもそれ以上の難癖はつけず、口を閉じた。
「じゃあ、ちゃんとカッコつけないとね! へなちょこ!」
「
あと、
矛先を失ったヘデはジルドに向かって
そのやり取りを見て、アレクシアは
「――二人でお出かけだから、ちゃんとおめかししないとね」
ヘデがひそひそと内緒話のように目配せしながら
その響きにどこか期待と胸の高鳴りが混じっていた。
翌日、
ぱたぱたと早足で待ち合わせの場所へと向かえば、噴水の前にジルドがもう立っていた。
いつもの生成りの服とは違って、襟や袖口に
王宮にいた頃のような美しくも堅苦しい雰囲気はなく、かといって
自分もヘデから借りた銀灰色の襟巻に
「待った?」
「いいえ、それほど。では、アリィ、行きましょうか」
ジルドは優雅な手つきを見せながら手を差し出した。アレクシアはその手に自分の手をそっと重ねると、劇場へと向かって歩き始めた。
入場券に書かれていた劇場は、噴水から歩いてわずか五分ほどの場所にある。周囲より少し背が低く、入り口も奥まっている。
券を見せて中に入ると吹き抜けを三方囲うように柵が覆っていた。柵と壁の間にはいくつもの円机が立ち並んでおり、立食形式のように自由に歩ける。決まった席はなく、アレクシアたちと共に入ってきた観客は思い思いに過ごしていた。
次々とひとが入ってきて、広々とした劇場はあっという間に満員となった。
協会内部と同じかそれ以上に集まった人の熱気に圧倒されそうになったが、ジルドが優しく声をかける。
「アリィ、こちらに」
その声に促されるように、アレクシアはジルドに身を寄せた。彼のぬくもりを感じながら、
周囲のざわめきが徐々に薄れ、場内が静まり返る。観客の視線は一斉に舞台に向けられ、アレクシアもまた、劇の始まりに目を輝かせていた。
劇は、この王国の
アレクシアも学んだ歴史であるが、一人で書物を読んで知った厳粛で格式あるものとは異なっていた。物語は面白おかしく、観客にとって分かりやすく脚色されているように感じた。
物語は数百年前。
かつて世界を支配していた帝国が滅亡した後から始まる。
『あの、大丈夫?
『行くところがない? ならば、私たちと共に来なさい』
主人公はみすぼらしい少年。
双子の皇女が彼に手を差し伸べたことで物語が動きだした。
『わあ力持ちだ! すごいね!!』
『無駄口
穏やかでどこか抜けている妹姫と、気位が高く誤解されがちな姉姫。
二人に助けられた少年は、村の仲間たちと共に、貧しくも平穏な日々を送っていた。彼らの間には温かい
『一体何?』
『空が、――空が落ちてくる』
けれど、安寧は一瞬で奪い去られた。
平和な生活は初めて見る狂暴な獣たちによって
帰る地を失った村は二人の皇女を先導者として、安住の地を求めるたびに出た。
『これ、食べられる?』
『っ自分で確かめなさい! こっちに持ってくるな!』
旅の中、妹姫は徐々に統率者としての才を発揮し始めた。
対照的に、姉姫は体調を崩しがちになっていた。道中は背負い、寝台に食事を運び、少年が
『私たちも、
『――ええ、共に安住の地へ』
旅を続けるうちに、住む土地を失った人々が次々と彼らの一行に加わった。
山を越え、海を越え、ついに彼らは目的の地に
それは人里離れた山中の湖のほとり。神の宿る地。
そこには豊かな食物と湧き出る清水があり、誰もが肌で理解した。この場所こそが、彼らの安住の地であると。
たとえ魔物
『やっと、やっと
『長かった……でも
人々は感謝に涙し、そして妹姫を頂点として、新たな国が築かれた。
しかし、旅の過酷さの中で、姉姫は弱り切り、もはや体を自由に動かすこともできなくなっていた。それでも、妹姫の懇願によって、彼女は生き続けていた。限られた資源の中で、姉は命をつなぎ止めていた。
『――私には何ができるだろう。妹のために、彼のために』
悩み苦しんだ姉姫はついに決断を下す。
『神よ、わが身を
その祈りと共に、姉姫はその命を神に
その献身により、妹姫が治め少年が愛する国は、魔物への守護を、絶対の安全地帯を得ることとなった。
少年は愛する人を失ったが、その人が残した国を、彼は今も見守り続けているのだ。
劇が終わると、アレクシアの
これまで文字を読み、話を聞くだけでは思いを
そんな彼女に気づいたジルドが、そっと手を引いた。
促されるままに劇場を出て、街灯の光が
「――あれ、ジルドじゃん?」
軽快な声が響き、アレクシアは緩慢な動きでその方向を向いた。
「え、女のひと泣かしてる?! いや、いつかはやると思ってたけどさぁ」
「黙れ貴様……!
アリィ、申し訳ありませんが、今日は一人で帰っていただけますか?
危ないので大通りだけお通りくださいね」
ジルドが静かに顔を
「お前、ちょっとこっちこい……!」
ジルドは男を引っ張ってその場を離れていった。
通るようにと言われた大通りだけを通って。
慌てて周りを見ても、見える範囲の地面に銀の輝きは見当たらない。
「ぁ、劇場の中……? まだ入れるかしら?」
アレクシアは立ち止まり、劇場を振り返った。舞台の余韻がまだ胸に残る中、一度深呼吸をして静かに劇場の方へ向き直った。
***
余計なことを垂れ流す青年――シュピィの耳を
「
「違うと言っているだろう!? 耳が腐っているのか?」
ジルドは怒りを堪えきれず、何度も短い間に声を荒らげた。
「分かってるって、劇だよな。
言葉だけなら、自らの手掛けた観劇に観客が感極まったことを嬉しく思っているように聞こえた。けれど、彼の顔に浮かぶのは仮面のような笑みでしかない。色の抜け落ちた瞳がジルドを射抜く。
「……
「無垢ね、無垢。いいなぁ~汚いこととかせずに生きてられたんだろうなぁ」
その
酒を
だって、それが事実だから。
アレクシアは箱庭の中で育てられてきた。母である女王メルキシアに、そして彼女が亡くなった後は父である王佐エルンストに、大切に守られていた。
彼女は美しいものだけに囲まれ、外の世界の痛みや醜さを知らずに生きていた。川の冷たさすら、今まで知らなかったのだ。
「……あまり詮索するな。なんにせよお忍びだ」
ジルドは声を低くして言い、シュピィのお喋りを制した。彼女の
「そりゃそう。いや~俺と一緒に底辺で目ん玉ぎらぎらさせてたやつが、王宮まで上り詰めるとはなぁ。
は~友の栄光にかんぱ~い」
シュピィの掲げる杯が月の光を浴びて輝く。
ジルドの脳裏に過去が鮮明に
あの頃は今のように眼帯をつけていなかった。家族に醜いと見捨てられ、
「お前こそ、今日の舞台楽師たちの責任者だっただろうが……。乾杯」
ジルドは口ごもりながらそう言って、杯を持ち上げた。
道は違えど、原点は同じ。ジルドは王宮で、シュピィは劇場で、それぞれの場所で身を立てている。共通の過去を思うと、邪魔をされても強く出られない。そしてそれが不快ではなかったから、また顔を
「よっしゃ、今日は飲むぞ~! あの嬢ちゃんの話、聞かせろよ!」
「だから、お忍びだって言ってるだろうが!」
声を荒らげシュピィに吠えるジルドではあるが、樽から腰を上げることはない。口先だけの抗議であった。
王宮に上がってから
「だから、あの人を足掛かりにして地位を固めきゃいけないんだよ。お気に入りの楽師ってだけじゃ、まだまだなんだよ……」
前言撤回し愚痴を垂れ流すジルドを見て、シュピィはけらけらと笑い声を上げた。
「お気に入りになってるんだから、充分だろ。ほんと強欲だよな~」
「初めて近くにいたから気に入ってるだけだろ。すぐに興味が薄れるだろうよ……。
そうなる前に、なんだよ」
何に?
一体何にだろう。
焦りの
ゆらゆらと揺らめく水面に映る自分の顔は判然としない。
でも、アレクシアに捨てられる前に地位を盤石なものとしなければならない。だから、宝珠捜索も、早く終わらせてしまいたい。王女ではなく王佐の後ろ盾を手に入れたい。
「うーん、でも、お前がそこまでいうような
は~未来が怖ェなぁ!」
「あぁ、そうだな……あれ、酒はまだあるか?」
酒瓶を逆さにして揺らすが、もう中身は空だった。
ひょいと抜き取られ、中身の詰まった酒瓶がまた手の内にあった。
「あるある! 飲んで愚痴っとけ! 明日からも
「あぁ、きっとうまくやって見せる……」
ジルドはうわごとのように繰り返しながら、再び酒を飲み干した。ついには
「お、
えーっと、家どこに借りたって言ってたっけ?」
シュピィは困ったように頭をかきながら、酔いつぶれたジルドを見下ろして
どうしたものやら。
***
「こっちかしら? えっと、お邪魔します」
アレクシアは、静まり返った劇場の中にそろりと足を踏み入れた。舞台上空、開け放たれた天上から月明かりだけが薄く差し込み、場内がぼんやりと浮かび上がる。万一踏みつぶしてしまわないよう慎重に歩を進め、羽飾りを探した。暗がりの中、目を凝らしながら足元を探す。隅から隅まで、
「あった! よかった……」
羽飾りには傷も汚れもない。買ったときの
「……ジルドの声?」
ふいに耳に届いたその声は、ジルドのものだった。低く響いて、聞いていると安心して眠くなってしまう声。
青年の手を取り、姿を消してしまったジルドがどこで何をしているのか。
ぴょこと芽を出したアレクシアの好奇心に背を押され、静かに足音を忍ばせて声の主へと近づいていった。
息を潜めながら、彼らの声が聞こえる方へと向かう。距離が縮まるにつれて、ジルドが誰かと話しているのがはっきりとわかった。アレクシアは少しだけ
「だから、あの人を足掛かりにして地位を固めなきゃいけないんだよ」
息が止まった。
頭の中が真っ白になった。
続く言葉など聞きたくないのに、動けない体には簡単に刺さっていく。
ひとりきりの庭園は寂しくて、忙しい父になど
月のような笑み、優しく伸ばされる手、頼りになる広い背中。
彼の一面を知るたびに、父への親愛とはまた別の淡い感情が育っていった。歌と花に満ちた和かな生活がずっと続いていくと信じていた。
でもそれは、彼の手で作られた幻想でしかなかったのだ。
取り入り、利用するための、幻想。
頭の中は混乱して、何をどう思っているのかすら自分で把握できない。ただ体が勝手に動いていた。足は無意識に後退を選び、真意を確かめることから目をそらして、反射的に走り出していた。
「アリィ!?」
走っている中で、聞き覚えのある声が叫んでいた。ような気がした。
それでも足を止めることはできなくて、ただがむしゃらに走った。胸の中でじぐじぐと痛む思いは、名前もつけられないまま、己を突き動かしていた。
「はぁ、はぁ……」
アレクシアの息が乱れる。胸が苦しくて、まるで体が自分のものではないように感じていた。魔物に追われながら走った時よりもはるかに苦しい。心臓が音を立てて鳴り響き、涙が
いつの間にか、ジルドの用意した家に
あれほど大切にしていたのに、今はその形すら
アレクシアは家の中を見渡す。
目に映るすべてがジルドとの思い出に結びついた。短くも楽しかった日々が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。楽しかったのに、
「どうして……」
涙が次々と
どれほど時が
「おーい、誰かいるぅ!?」
扉が大きく
「ありゃ、まだ泣いてたのか?
ふふん、それほど心を動かしてもらえると楽師
彼は軽口を
「――ええ、素晴らしい音楽だったわ」
言葉はそう答えたが、自分がちゃんと笑えているのかどうか、アレクシア自身にも分からなかった。
それでも、青年に気づかれないように
それ以上会話は弾まず、青年はジルドを雑に寝台に寝かせ、帰っていった。
寝息を立てるジルドの
今は本当?
そんな疑念がアレクシアの心を駆け巡る。ジルドの
それが目の前にある。
でも、そんなことどうでもよかった。
隠された眼帯の下が気になっていた幼いアレクシアは、もう姿を消してしまった。無邪気に見るものすべてを信じていた自分もいない。
目に映るものに動く心は息絶えた。胸に込み上げる様々な感情の中で、ただ、彼と共に暮らした日々の余韻が深く残っていた。
「おやすみなさい」
今だけは、その一瞬の安らぎを信じたかった。
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