あかがり刻みて

 翌朝。

 協会に向かったアレクシアの目に飛び込んできたのは、しょんぼりと灰皿を持つヘデと、手すりにもたれかかりながら煙管きせるをくわえ、白煙をゆらゆらとたなびかせるミネテの姿だった。


 ミネテは眼光鋭くアレクシアたちを見やると、軽く息を吐きながら言葉を発した。


「やっと来たのかい。今日はやることがたっぷりあるんだ、さっさと移動するよ」


 冷たい声に、昨夜がよみがえる。まだせるには早すぎる記憶に、アレクシアの体がびゃっと飛び上がった。まごつき、ジルドの大きな背に隠れる。

 ジルドが一歩前に進み出た。離れた背を慌てて追った。


「お待ちください、協会長。狩人かりうどとは自分たちで依頼を選ぶのでは?」


「まあ、普通はね。けど、この子たちには罰則がある」


 ジルドの冷静な問いに、ミネテは一瞬目を細め、煙を吐き出しながら答えた。

 その言葉にヘデがびくりと肩を揺らす。彼女は恐る恐るミネテの視線を受け止め、身をすくませ居心地の悪そうな様子を見せた。


 次に、視線が前を向く。ジルドの背に隠れ、顔を半分だけ出していたアレクシアと、ミネテの目が合って、またぴゃっと背に隠れた。


「……そうですか、それでその内容は何だというのですか?」


「ヘデには、湖で度々目撃されている首無竜の討伐。アリィには禁書庫の整理をしてもらう」


 ミネテの言葉に、ヘデは目を大きく見開いていた。首無竜の討伐というのは、狩人かりうどにとってもかなり危険な任務らしい。

 

 それに対し、アレクシアは禁書庫の整理という比較的平和そうな仕事を任されるようだが、どういう仕事なのかは見当もつかなかった。


「禁書庫ということは、私は、」


「入れないよ、当たり前だろう」


「それは困る。私は彼女と、アリィと二人組を組んで狩人かりうどとして登録しているんです。別れて行動するなんて、はぁ、ありえない」


「そうはいってもね。勝手な行動を取ったやつらに罰則なしなんて、規律が乱れるだろう」


「アリィを連れて行ったのも、そのまま帰さずに郊外へ連れ出したのも、先達せんだつ狩人かりうどたちです。それで新人に多大な被害を負わせるのが協会の規律だとでも?」


 ジルドとミネテの、鋭い言葉の応酬に身が震える。

 木枯らしが地に落ちた木の葉を舞い上げる。柔らかな光を向けていた太陽が薄雲に隠れ、辺りが仄暗ほのぐらくなっていく。


「はぁ、仕方ないね。じゃあ、アリィは私と一緒に川で獣毛曝じゅうもうさらし、ヘデはジルドを連れてその付近で教導するってことでどうだ」


「結局、別行動ではないですか。それでは納得できません」


 ジルドは顔をしかめた。妥協案のように見えるが、結局アレクシアと別れることに変わりはない。

 ジルドの抗議にもかかわらず、ミネテは冷たく応じた。


「これ以上の譲歩はない」


 二人の間で、ぴりりとした緊張が走り、目に見えない火花がばちばちと散った。ミネテの平静とジルドの不満が互いにぶつかり合い、周囲の空気が一層重くなった。震えた手がジルドの髪を少しだけ引いた。 


「……仕方ありません。ここは譲りましょう」


 ジルドの小さないきとともに、張り詰めていた空気がふっと和らいだ。眉間みけんに刻まれていたしわが消え、ジルドは肩を落として折れた。


 アレクシアには思いも及ばない攻防が終わった。ジルドの背から顔を覗かせて目が合ったヘデは、疲れたように目を細め口角だけを挙げていた





「それじゃ、今から纏毛祭てんもうさいで採った獣毛をざらしていくよ」


 白い毛がこんもりと積まれたかごを持ち、ミネテが河岸に立つ。


 纏毛祭。

 それはデュウォル王国において、冬が終わり、春を迎える準備として行われる古くからの祭りである。


 冬を越え、換毛期を迎えた獣たちが木々に擦り付けて落とす冬毛を拾い集めるのだ。王国は結界に覆われており、作付けできる土地も少ない。貴重な土地は、農地や住居用地が優先され、装飾に用いるための余剰などない。


 だが、それでも人々は美しさや快適さを求め、結界の外にその資源を見出みいだしていた。春先に森の中で集められた獣毛は、一年かけて加工され衣類や装飾品に用いられる。さらにその中で最も美しく仕上げられたものは、王宮に献上されるという習わしがあった。


「そんなに距離取らなくったって、取って食いやしないよ。

 ほら、さっさとこっち来な」


 ミネテはざぶざぶと川の中を進みながら、振り返ってアレクシアに声をかけた。

 自分の前に立ってくれるジルドやヘデとは離れてしまった。昨日の今日でしっかりと〝怖い人〟と認識したミネテに対して、アレクシアは目を合わせられず、身を引いてしまう。震える手を握りこみ、距離を取ったままだった。


「……ほんと? 怒ってない?」


「はっ、もう怒ってないさ。あんたが同じことをやらかす頓馬じゃなきゃね」


 アレクシアのか細く風に吹き消されかねない問いをミネテは豪快に笑い飛ばした。けらけらと笑う姿に少しだけ肩の力を抜いた。


「やらないわ!」


「じゃあ、早くおいで。やるこた沢山あるんだからね」


 その言葉に、ようやくアレクシアの顔から強張こわばりが消えた。

 ミネテの元に行こうと、特に深く考えることなく足を川に向ける。水が靴に染みこみ、走った衝撃に全身が固まった。


「――冷たい」


 足元から一気に冷たさが駆け上がり、アレクシアは思わず声を上げた。それでも、少しずつ慣れてきた彼女はミネテの後を追い、川の中へと進んでいった。


「まずはごみを落とす」


 ミネテはかごから獣毛を一掴ひとつかみ取り、躊躇ちゆうちよすることなく冷たい川に浸した。浅瀬ではあるものの、勢いのある川の流れに従って、獣毛が揺れる。隙間から樹皮じゅひや小さなれきが次々とこぼちていく。


「大体取れたら、次は石鹸せつけんで汚れを落とす」


 ミネテは腰に下げた広口の瓶を開け、ねっとりとした石鹸せつけんを指ですくる。獣毛に馴染なじませ、手早くめば白茶の泡が獣毛を包み込む。


「洗い流して、水気を絞る」


 ミネテは泡を川の流れに任せて流し、獣毛をしっかりと絞る。その瞬間、先ほどまでくすんで見えていた獣毛は、すっかり汚れが落ち、かごの中にあった時とは見違えるほど綺麗きれいになっていた。


「できるだろう?」


 ミネテが少し笑みを浮かべながら、アレクシアに問いかける。無駄のない、洗練された手捌きを反芻はんすうし、力強くうなずいて答えた。


「えぇ、頑張る!」


 軽く握った両拳を胸の近くで小さく振り、意気揚々とかごに手を差し入れた。つかった獣毛のごわつきに一瞬驚きながらも、しっかりと握りしめて川へと浸す。


 ミネテに教わった通り、川の流れに毛を揺らし、ちりや汚れを落としていく。

 ちりを流し、石鹸せつけんみ、泡を流して、水を絞る。

 何度も何度もその繰り返し。


 向こう岸の草叢くさむらで悲鳴を上げながらヘデに指導されているジルドを横目に、アレクシアは淡々と作業を進めていった。幾度も川と岸を行き来し、河岸には白や黒が混じった茶色の窓帷のように獣毛が寒風に揺れていた。


 一体幾度、川の冷たさに足を震わせて、川中と岸を往復をしただろうか。手足の感覚は次第に鈍くなり、最初は驚くだけだった冷たさが、今では鋭い痛みを伴うようになっていた。

 それでも、かごにはまだ小高い丘のように獣毛が積み上げられている。


 アレクシアは水から引き上げた獣毛をしっかりと絞り、ほんのわずかに湿り気を含んだ糸を竿さおに掛けた。その間に手はじんじんと熱を持ち始め、痛みからかゆみに変わりつつある。何度も指を擦るようにし、はぁと息をかけて少しでもその感覚を和らげようとした。伏せた視界に大量の獣毛が映り、思わず不安げな声が漏れた。


「ねぇ、これ、あの……全部?」


勿論もちろん


 淡い期待はミネテの言葉に、冷たく、ばっさりと切り捨てられた。アレクシアを落雷のごとき衝撃が貫き、思わず振り向いて後悔した。


 ミネテはにっこりと笑みを浮かべていたが、その笑顔はどこか冷たく、瞳の奥は少しも笑っていない。その綺麗きれいな笑みの裏に潜む圧力が、アレクシアの背筋に冷たいものを走らせた。寒さではない震えが体を満たし、手の冷たさ以上に心の中で生まれた恐怖が広がっていった。


「も、もう手が痛くて辛いの……」


 アレクシアは、じんじんと痛む手を見つめながら許しを乞うた。水にさらされ、絞るたびに痛みは強くなり、とうとう限界が近づいていた。しかし、ミネテはにべもなくその要求を切り捨てた。


「じゃないと罰にならないだろう?」


 崩れることのない笑顔が、まるで壁のように立ちはだかる。ミネテの言葉にアレクシアは絶句した。彼女の笑みは柔らかく見えるが、その言葉には容赦がなく、温かみなどなかった。


「――ほんとは、怒ってる?」


「怒ってない怒ってない!」


 ミネテは笑い飛ばしながら答えた。アレクシアは少しだけ息をつくが、その直後、またミネテの口が開いた。


「でもな、怒りと罰は別もんさ。

 痛い思いすりゃ、もう二度と馬鹿なことやろうなんて思わないだろう?」


 ミネテの言葉は軽い調子だったが、アレクシアの胸に重く響いた。


「ま、こんなのあたしらにとっちゃ日常茶飯事にちじようさはんじで、ヘデなんかにゃなんの罰にもならない。でもあんたみたいな箱入りの嬢ちゃんなら、充分な罰だろうさ」


 アレクシアの心をちくりと刺した。確かに彼女は王宮で甘やかされて育ち、このような過酷な労働に触れたことすらない。ミネテの視線がそれを容赦なく突きつけてきた。


「ほら、手を動かしな。日が暮れちまうよ」


 ミネテの最後の言葉に、アレクシアは何も言い返せず、ただ手を動かすしかなかった。冷たい水にもう一度手を浸し、痛みをこらえながら作業を再開した。体は疲れ果て、手の感覚も鈍くなってきていたが、それでも耐え続けるしかなかった。




 柔らかな日差しが山の向こうへ消え、空には双月と星々がまばたき始めた時分。

 ようやくかごの中は空になった。その時点で、アレクシアの手はすっかり感覚を失いしびれに満ち、曲げ伸ばしさえ辛かった。


「う~……いたい……」


「ははっ、よく頑張ったじゃないか。ほら、あんたの成果だよ」


 ミネテが指し示したのは、アレクシアが散々苦労して干し続けた獣毛の干し場だった。もう嫌になるほど見た景色でしかない。一体何を、と期待せずにその方向へ目を向けたアレクシアだったが、思わず息を飲んだ。


綺麗きれい……」


 気づけば、彼女はその言葉を口にしていた。


 干し場にかけられた中間色の獣毛たちは、風に揺られながら双月と星明かりに照らされてきらきらと光を帯びていた。まるで満天の星を地上に写し取ったよう。

 昼間には感じられなかったそのかすかな輝きが、夜の静けさの中で一層際立って見える。ほのかでありながら確かなその輝きに、アレクシアは思わず目を奪われた。


「いいもんだろう?」


「……うん、頑張って、よかった」


 アレクシアは、満足げにそして少し疲れたように微笑ほほえみながら返した。心の中には、今まで感じたことのない充実感と達成感がじんわりと広がっていた。痛みと疲労を伴う過酷な作業だったが、この一瞬の美しさがその全てを報いてくれるかのようだった。




***




 月が中天にかかる。街全体が寝静まる中、窓明かりの漏れる部屋があった。

 簡素な寝台と机だけがある部屋で、ヘデは白布の上に飛び込んだ。


「疲れた~~~!!」


 干し立ての、太陽の匂いをふんだんに取り込んだ布に頭を擦り付け叫ぶ。固い寝台がヘデをやさしく受け止めることはなかったが、反発をねじ伏せて横たわった。

 体を返して両手両足を投げ出す。れた声が喉から飛び出た。


「疲れたのなら院に戻って休んだらどうだい」


 だらけきったヘデに声を掛ける者がひとり。

 柔らかな色の短髪を無造作むぞうさに散らかし、眠たげな瞳の下に五弁の花紋様を刻んだ男が、彼自身の寝台を占領した子供をあきれたように見ていた。


「そうは言ったってさ~。

 あっちにいてこんなことしたら、あの子たちに心配されちゃうじゃん」


「へぇ、僕は心配しない薄情者だって?」


「そんなこと言ってないじゃん! ロシェの意地悪!!」


 ふん、と鼻を鳴らしてヘデは枕を抱きかかえてロシェに背を向けた。ねた幼子のようだと自覚していても、どうしても直せない。何を言うでもなく、寝台の端に座り甘やかす、この男が悪いのだ。

 ロシェの熱が背中越しにヘデへと伝う。


「で、何に疲れたの? 新人連れ回した件をまだっている?」


「ミネテさんに散々叱られたんだからその話はしないで」


 ぶすくれた顔を向ければ、鼻をロシェに摘ままれる。大したことのない悩みだと判断されたのか、ロシェは作業の続きに掛かった。

 汚れ一つ無い、真白の布を膝の上へと寄せる。


 話を片手間に聞かれるのは腹立たしいけれど、それよりも喉奥で渦巻く愚痴を吐き出したかった。


「で?」


「……今日、新人の面倒みろって言われて! まあ、罰則だから仕方ないんだけど、もうやる気ないのこいつ! 自分から狩人かりうどなりたいって言ってたよね!? ってもうびっくりする!」


 布の中から水晶のような玉がのぞく。浮かび始めた曇りを徹底的に磨く。どこから見ても澄んで見えるように。

 手の内で転がして、力を込めすぎないようにして擦っている。


「やる気ないならアリィと一緒に依頼行きたいから適当に終わらせようとしたのに、それは嫌だとか言うし!」


 もう散々、と振り上げていた拳を下ろした衝撃で、寝台に預けていた体が少し跳ねた。

 玉を落とさないようにしっかりと抱え込む。


「わがままばっかりのくせに、体力全然ないし!

 まずは動けるようになってから大口たたけよ!!

 ほんともう疲れた!!」


「はいはい、お疲れ」


「そうなの! 疲れたの!!」


 適当に返事され、ロシェは磨き終わった玉を燭台しよくだいかざしていた。

 真ん丸の綺麗きれいなそれの中心には赤がともっている。

 傷も曇りも何もない姿に満足して、ロシェは台座に置き直す。作業の終わりと共に、聞き流されていた能弁も収まっていた。


「言い切った?」


 振り返ったロシェの低く丸い声に、照れくさく短く返事した。


「さ、そろそろ寝ないと。明日も早いんだろう?」


「……うん、ありがと。おやすみ。また明日」


「また明日、良い夢を」


「ん」


 目を擦る。もう寝るには遅い時間であると認識した途端に眠気が襲ってくる。自室に戻ろうと扉に手を掛けた。


「そういえば、何磨いていたの?」


 振り返ったヘデの視線の先には、ロシェが先ほどまで磨いていた玉がある。孤児院には不釣り合いな美しい琥珀色こはくいろの宝石。

 ロシェはぱちくりとまばたきした。

 そうしてゆっくりと笑って、廊下に押しやられる。


「――秘密。さ、子供はもう寝る時間だ」


 扉がゆっくりと閉まっていく。宝石はロシェの背に隠されて、もう見えなかった。

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