韓紅に吹く風よ
「風! ヘデっ風がとても強いわ!!」
「そりゃ
精一杯まで見開いた瞳が風に吹かれて渇きを訴えている。けれど
背から自身を包み込むヘデの
「乗ってみる?」
そう言われて
奔鳥。
それは、デュウォル王国の
身の丈ほどの
腰を下ろしても
「……ちょっと、難しいわ」
「ははっ奮励心はもう一人前だね」
手本見せるよ、とヘデと場所を入れ替わる。
「さ、どうぞ」
手が差し出される。アレクシアと同じくらいの手。
日に焼け、指の付け根や
その手を取れば引き上げられ、アレクシアはヘデの腕の中に収まった。
と、と、と。
ゆっくりと地を踏みしめていた趾が徐々に速度を増していく。露店の並んだ大通りを抜け、王都を囲う城壁を超え、アレクシアは生まれて初めての郊外へ飛び出た。
奔鳥の鋭い
大地を蹴る衝撃に身を揺らし、畑中を駆けて行く。
しばらく進むと、耕地がきっちりと途切れている。何かと思う間もなくその線を越え、振り向いてそれが結界の境界だったのだと思い至った。
「ここまでが、結界の範囲なのね……」
王都は
虹を溶かしたような彩がゆらゆらと揺らめいている。
遠ざかるにつれ、
「そう。その範囲の認識は重要だよ。何に追われてもここまで逃げ込めれば安心だからね。まあ、耕地がぎりぎりまで広がってるからわかりやすいでしょ?」
結界は魔物の侵入を拒絶する。ゆえに魔物の
ヘデの言葉に
頭上の木々はまだ緑をつけているが、足元の草花は色をなくして、茶色い地面が
吹き抜ける木枯らしが首を
「あぁ、寒かった? もう少しくっついていようか」
そう言って、
「あったかい……」
「そりゃよかった。子供体温ってよく湯たんぽにされるんだよ」
「じゃあ、これから大活躍ね」
友達のような気安い軽口が楽しい。
風を切って走って、揺られていればヘデが奔鳥を止めた。
さっと降りたヘデに次いで
「ここ、
宝箱を開けて中に詰まった思い出を語る子供のような
声も出なかった。
人なんて点のようで、どれもこれも区別がつかない。けれど、通りを
いつも街を見下ろしていた、王宮も眼下にある。
自分がいつもいた、庭園すら。
こんなにも遠くに
そんな思いが、心を支配してやまない。
「――っねぇ、あそこに
腕を引かれ、物思いから浮上する。
目の前の、少し焦ったようにけれど痛みがないように優しく腕をつかむヘデに首を
崖の下、渓流の
「あれが、珠角羚というの?」
「そう! 多分群れから
若いし、いいお土産になるかも」
そう言って、ヘデはするりと背に担いでいた弓を持った。黒ずんだ細木がしなやかな弧を描いている。両端を結ぶ強く張られた
これできっと狩りをしているのだろうと簡単に思えるほど彼女に
「私!?」
「しぃ~、静かに。大丈夫大丈夫、ちゃんと教えてあげるから」
いい笑顔で、ぱちりと星を出すように片目を閉じる先輩
「……弓なんて、一度の扱ったことないのだけれど、いいの?」
「
ま、もちろん当たった方がいいけどね!」
不安は軽く笑い飛ばされた。
水浴びしている珠角羚に正対する。
ヘデが後ろに立ち、手を取られた。毛羽立つ
力いっぱい弓を引き、もう指を離せば矢が放てるといったところで、ヘデが離れて行った。
姿勢を保つの精一杯なのに、ヘデはさらに言葉を重ねた。
「気を静めて、
じわりじわりと、体内から魔力が流れていく。腹から腕を手を伝い、矢の先へ。
ヘデの呼吸も、風のささめきも、水のせせらぎも
思考が抜け落ちるような感覚がする。
ただただ、的だけが視界にあって。珠角羚の
とさり
いつの間にか右手は矢から離れていた。放たれた矢は寸分も違わず珠角羚の頭を射抜き、ふらつく間もなく体を地面に横たえた。
吐いた息の荒さに、やっと息を止めていたことに気づいた。
ゆっくりと弓を下ろし、後ろを振り向けば、飛び込んできたヘデの勢いに負け、倒れ込んだ。抱き合ったまま地面を転がって、土塗れになったけれど、ヘデと顔を見合わせれば思わず笑ってしまう。
ああ、よかった。
「あっ! やば、
「え、え、何が?」
「肉だよ! 早く血抜きしないと!」
泥にまみれてはしゃぎあっていたけれど、射抜いた
「はい! 戦利品!!」
そう言って渡されたのは、角に生ったままのいくつもの宝石だった。
思わず受け取ったそれを、落ちかけの太
ずんぐりとした
あぁそうだ、王冠や首飾りに使われていた。こうやって採れたものだったのか、と納得して
「
手を引かれ、
二度目の騎乗はもたつきながらも一人でできた。揺られ、来た道を帰っていく。帰りは下り坂だからか、来たときよりも早く進んでいるような気がする。
「帰ったら、協会で買い取ってもらえるからさ。
「でも、きっともう一回はできないわ。次は当たらないかも」
「いいのいいの! まぐれでもなんでも今回当たったのは変わらないんだから! それになんだかんだアリィは次も成功させそうな気がするなぁ」
そうかしら、と
今にも閉まりかける門を慌てて潜り、協会へと向かう。奔鳥も街に入ってから速度を落とした。足跡を
何かを忘れているような気もしたが、心地の良い揺れと初めての友人との冒険によって疲れていたアレクシアの思考から抜け落ちていた。
そうして、協会へ
痛いほどの冷気の漂う、協会へ。
「あ、やば」
協会の入り口。
仁王立つ彼女を見て、ヘデは素早く足元に座り、
「……怒ったミネテさんほんとに怖いから神妙な顔して」
そっと
これから何が起こるのだろうか。
「よぉく分かってんじゃないの」
頭上から表面上冷めた、けれど奥底にどろどろとした炎が燃え上がるような声が降ってきた。その声に座っていながら体が跳ねる。
「ねぇ、ヘデ。私はあんたがもっと賢いと思ってたよ」
「新人の教育もよくやってくれてたからね」
「不安定だった結界も最近落ち着いて来た」
「何も心配はいらないって」
「それがなんだい?
登録も終わっていない酔った新人をつれてこんな時間まで狩り?」
「どれだけ危険なことか分からないわけじゃないだろう?」
「えぇ?」
畳みかけられる言葉の数々にヘデの頭がどんどん下がって地面に近づいていく。つい先程ではあれど仲良くなった友が
「あ、あの……わたしが行きたいと言ったの……だから」
「あぁ」
どうにか
――矛先がアレクシアに向いた。
「あんたもあんたさ。
「一撃で仕
「技量があろうが心持ちがなってないね」
「身の程が分かってない馬鹿の功績なんざ蛮勇だね」
組んだ腕を
熱も色もない瞳。冷え切った視線に喉が締まる。出そうとした声は喉にへばりついて吐き出せない。じわり、視界が
「ア、アリィは悪くない! あたしが行くかって誘ったんだ!」
「そうさ、お前が悪い。流されたアリィも悪い」
アレクシアを背に
びりびりと震える空気に、ついに涙がこぼれる。周りの音が遠くなり、吐く息の荒さだけが耳に響く。
怖い、怖い。
この人はどうして怒っているの。
言葉は口から出てこない。ミネテの冷淡な瞳が柔な心を凍らせ砕く。
怒られたことがなかった。いつも温かい言葉に包まれていた。初めて触れる怒りに、ただ身を震わせることしかできない。座りこむ地面が揺れている。
弓を引いたときのあの高揚が、遠い過去のことのように思える。初めて外に出て、風を感じて、心から褒められた。胸の内が熱くなり、何もかもが輝いて見えたのに、その喜びが今、地の底へと沈んでいくのが分かる。
弱り果てた二人の様子を見てか、ミネテが
「――無事で良かったよ、ほんとに。
ふわり、と抱きしめられる。
柔らかな
ミネテの語尾が少しだけ震えていた。鼻がつんとして、目頭が熱くなる。
「……してない」
「あたしも……」
「そうか、なら入りな。アリィ、あんたは早いとこあいつ安心させてやりな」
ばっと顔を上げる。
アレクシアには、ミネテの言っているだろう〝あいつ〟がすぐにわかった。
「やんちゃな新人のお帰りだ!」「初日から
早く抜けていきたいのに、
肩や頭を
つんのめり、風に吹かれた木の葉のように
自分を抱きとめたその体温に、アレクシアは覚えがあった。
ジルドだ。よかった。そう思って顔をあげようとして、――あげられなかった。
ミネテのように怒っていたらどうしよう。
初めて触れた怒りに
ジルドにまで失望されたらどうしよう。見捨てられたらどうしよう。
頭上から、ジルドが口を開く気配がして、力強くぎゅっと目を
「あなたが無事でよかった」
「――え?」
柔く優しい、いつも通りの声が降ってきて、ぐるぐると終わりなく渦を巻いていた思考もどこかへいった。
思わず伏せていた顔を上げる。そこには幻滅も
「
「怒って、いないの……?」
「御身に何かあったらと心配は致しました。けれど、怒るなどと」
不安を軽く吹き飛ばすように笑うジルドに、肩の力が抜ける。安心した途端、体が鉛のように重く感じる。崩れ落ちそうになった体をしっかりと抱えられ
「ひゅー! 嬢ちゃん帰ってきてよかったな坊主!」
「嬢ちゃんのこと心配していろいろ手についてなかったもんなぁ?」
「えぇ、大事な方ですから」
口笛と共に
「家を借りてあります。明日もありますし、お早くお休みください」
「わ、わかりました。ジルドもおやすみなさい」
ぱたりと扉の閉じる音が、いやに響いた。
***
アレクシアが疲れ果てた様子で部屋に入って行くのを確認したジルドは、長い間貼り付けていた笑みをようやく消した。張り詰めていた緊張が途切れた瞬間、彼の端正な顔は
「はぁ、最悪だ。
どかりと乱暴に椅子に体を投げ出し、天井を仰ぐ。そこには先程までの朗らかな雰囲気は一切残っていなかった。半眼は冷ややかで、薄い唇から不満を
「協会に席だけ入れて動くつもりだったってのに、これじゃ本格的に活動しなきゃならないじゃないか」
ジルドは机に伸ばした指先で
勝手なことをしやがって。その言葉が喉の奥でこぼれそうになる。だが、口にすることはしない。それはアレクシアへの思いやりなどでは
「大体、宝物庫に保管されるような国宝を箱入りの王女が探せるわけないだろ……こんなのままごと以外の何だって言うんだ。
いや、いい。茶番なら茶番で演じてやるさ」
皮肉げな笑みがその顔に浮かぶ。
「殿下……いや、王佐閣下に有能だと見せつけられれば、もっと出世できる。こんな事件、さっさと解決して王宮に戻るに限る」
王女の側付きとなり、国の最高権力者に名も顔を覚えられていた。楽師としてしか出仕できなかったが、これを機に文官職を得られるかもしれない。
ジルド机の上に置かれた水を少し飲んだ。そして、立ち上がり鏡の前に向かう。自分の顔の半分を占める眼帯が忌ま忌ましい。この下に隠した傷さえなければと、思わない日はない。
それでも、鏡にはアレクシアや他の
「そういえば……美しいというだけで逸話もないものを戴冠式に使うのか?
王家の趣味はわからん」
ぽつりと
草木も寝静まる夜。差し込む双月の光が鋭く差し込んでいた。
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