罅入る心臓
速水ひかた
箱庭の蓋が開く
――冬よ来たりて
連なる山々から届くような透明な歌声が庭園を包み込む。それは、冬の冷たい息によって、
――いざ帰りこむ
淡々とした
窓から見下ろす景色は、遠く遠く離れていて、手が届かないものだ。
曇った
王都は冬支度を始めていた。
収穫祭が終わり、もう
「これが王都で
身を乗り出して問いかけるアレクシアの声には好奇心が混じっていた。豊かな青い髪を耳にかけ、
楽師ジルドは、軽く目を伏せ答えた。面を上げてもその
「そうです、殿下。
冬の寒さと
雪解けを待ちわびる王都の民の思いを乗せたという。
アレクシアは、ちらと部屋の隅を見やる。暖炉の炎は尽きることなく盛んに燃え、寒さに身震いすることなどない。整然と並ぶ花壇にはいろとりどりの花が咲き乱れている。目の前に広がるのは冬の寒さも
「へぇ……そんなに寂しいものなのね」
遠い、見たこともない異国の話を聞いているように現実味がない。
アレクシアは、そっと
白く傷一つない指先に、身の内から湧く魔力を静かに流し込む。固く閉じた
「また
「お父さま!」
穏やかな声が背後から聞こえて、顔をほころばせながら振り返った。
そこには白髪を柔らかく揺らし、目元に深い
ぱたぱたといとけなく父の元に駆け寄った。
「どうかなさったの? お忙しいと聞いていたけれど」
しばし
「ねぇ、お父さま。私にも何か手伝えることはない?」
かつては王たる母の補佐に尽力し、今は亡き母に代わって政務を一心に背負う父。王女たるアレクシアは、王位継承権を持っているものの、まだ即位は早いと止められ、ただ静かに穏やかな日々を送っている。
父の力になりたいとずっと思っていた。それを断られ続けていたけれど。
「あぁ、お前に『エレシスの瞳』を取り戻してほしいのだ」
だから、初めての頼み事に少しだけ面食らってしまった。
「……『エレシスの瞳』?」
アレクシアは、父の言葉を
何だっただろうか、と記憶を
「あ。お母さまが肖像画でお持ちになっていた
ふいに、鮮やかな絵が頭に
空の玉座の背後に掛けられた母の肖像画。戴冠式での一幕を描いたその絵の中で、母は右手に
それが『エレシスの瞳』という名ではなかったか。
「あぁ。そうだよ、よく覚えていたね」
エルンストの声は、どこか驚きと喜びが混ざっていた。彼の大きな手が、優しくアレクシアの頭を
「きちんと宝物庫に
「宝物探しね。任せて、お父さま」
アレクシアは笑顔を浮かべ、父の頼みに胸を張った。
宝物探しという響きが、子供心をくすぐる。幼い頃、こっそりと王宮の裏庭を探検し、秘密の小箱を見つけたときの高揚感が
わくわくと
「あぁ。お前も、もう十三になる。外の世界を知るにもちょうどいいだろう」
「そと」
アレクシアの海のような深い青の瞳に、夢見るような輝きが宿る。己が知る世界は、王宮の庭や廊下、それに箱庭の狭い範囲だけ。広大な世界の一端しか知らない己にとって、〝外〟は未知であり、憧れだった。
だからこそ、外について話すジルドに懐き、歌と話をいつも楽しみにしていた。
外にはどんな景色が広がっているのだろう?
どんな人々が暮らし、どんな物語があるのだろう?
考えるだけで胸が躍る。
「だが、王宮とは随分勝手が違うゆえ、ジルドを付かせる。
あやつがいけばお前も安心だろう?」
いつの間にか部屋の隅に
「お任せください。命に代えましてもお守りいたします」
さらりとした黒髪が、彼の顔を隠してしまう。けれど、強く言い切ったジルドにアレクシアは胸を
楽しみではあるけれど、不安もあったから。
「えぇ、ありがとう! お父さま、必ず取り戻してくるわ」
「あぁ、頼んだぞ」
父の声は笑みに満ちていたが、その姿は逆光に隠れなぜかはっきりと見ることはできなかった。
「ああ、そうだ。ここを出る前に一つ花を」
「あぁ、お母さまにね?」
庭園を少しだけ歩いて母の墓前に添えるべき花を選ぶ。きっと、白く
初めて触れた〝外〟はあまりにも多くの刺激に満ちていた。
「さぁ、こちらですよ」
防寒着として渡された分厚く重たい布で作られた大きな
ぽかんと口を開けたアレクシアの前を歩くジルドが、振り返って先を示す。けれど、アレクシアはあまりにも多くの情報を処理するので精一杯だった。
視界は
目が、耳が、鼻が。アレクシアの許容量を
「大丈夫ですか?」
目が
細く頼りないジルドの腕が、けれどしっかりとアレクシアを支えていた。
慣れた暖かな体温が頭の中で渦巻く情報を落ち着かせてくれる。
「ありがとう。ちょっと、ふらついただけよ」
「そうですか。ですが、まだ被っていた方がよろしいかもしれませんね」
彼の助言に、こくりと
視界は半分ほどに狭くなり、厚手の布は
何度も空気を取り入れていると、アレクシアを誘う香ばしい匂いに気づいた。
「これから協会に向かいます。市井に降りるのなら、彼らに紛れるのが一番ですから」
「協会……。
正解だと教師のように笑むジルドに
アレクシアが王女として生まれたデュウォル王国。
かつて大国に追われ、逃げ延びたひとびとが作ったとされる王国は、カデンステラ山地にぽつりと孤立して存在している。生命力に優れ他の獣よりも狂暴な魔物が数多く巣くう、魔の山岳地帯。ひとが住むにはあまりにも険しい環境。
ゆえにこそ、デュウォルの民は魔物を狩って、日々の糧にせんとした。
狂暴な魔物がなんだというのか。
そう考えたひとたちが国の始まりに多くおり、今も
そう。
今、アレクシアの面前で焼かれている肉も
拳ほどの大きさに切り分けられ、串に刺され、くるりくるりと回されながら、揺らめく炎に
滴り落ちる油に炎の勢いが増し、燃え上がる炎がより一層表面を焦がす。
ごくりと唾を飲む音がした。
茶色く、湯気の上がる姿から目が離せない。
「店主。串をふたつ、いやひとつ」
「まいど」
動けないでいるアレクシアを置いて、ジルドが慣れたように店主に注文する。串が炎の上から引き上げられ、店主の手元で串がくるりと反転した。
硬貨と引き換えに串を受け取ったジルドが大きく口を開ける。歯と舌を覗かせながら串肉に
二つ刺さったうちの一つが抜き取られる。口いっぱいに
粗暴、と言ってしまえるほどに豪快に肉を食らったジルド。面食らっていたアレクシアは、彼の持つ串の意味が分からずに手を胸の前でまごつかせる。
「とても美味です。是非どうぞ」
「え、うん、ありがとう」
促すような言葉に、
細く削られた木で出来た串。そこに刺しこまれた拳ほどの塊肉。
表面は浮き出た脂で
冷める前、ということは温かいうちに食べるものなのか。
アレクシアにとって食事とは冷え切ったものであったが、店主が言うのなら間違いはないはず。現にジルドも冷やさずに食べていた。
彼の食べ方を思い出し、けれど同じように口を開け広げることはできずに、串肉に小さく
途端、熱が口内を襲う。吐き出しかけ慌てて
見開いた目をそのままに、ジルドと店主を交互に、何度も見てしまう。
こんなにも
「いい反応する嬢ちゃんだなぁ。王都は初めてか?」
「えぇ。今日初めて連れてきまして。一番初めですから、良いものを食べさせてやりたかったんです」
「いい兄ちゃんじゃねぇか! ほれ、こいつも食ってけ!」
もぐもぐと美味を堪能していると、ジルドが店主から小さな黄色の果実を受け取っていた。小さな、それこそ親指の先ほどしかない大きさの、ころんと丸みを帯びた果実。四つ五つと落とされた果実が、アレクシアの手の内の串と交換に渡される。
先程まで口の中を占領し
人前で口を開けることへの抵抗はすこしだけ薄れ始めていた。
表面に味はない。わずかに弾力のある実を、ぷちと
「さ、行きましょうか」
差し出された手の、その反対に握られた空の串をどうにか視界から外して、アレクシアはジルドの手を取った。
協会は大通りを抜けた先にあるらしい。
刺激に
甘い匂いを漂わせる蜂蜜酒に、
興味を
そうして、
木壁には幾年もの雨や汚れが染みつき、
表面が削れて丸みを帯びた石段を登り、ジルドが押し開いた扉を潜る。
「わぁ……!」
そこは、大通りなど比べ物にならないほどのひとの熱気に
この一員になるのだと、心が湧きたった。
「それでは私は
「それなら、私も一緒に」
「いえ、たくさん歩いてお疲れでしょう。ここでお待ちください」
着いていこうと思っていたアレクシアであったが、ジルドににっこりとした笑みで封じられる。疲れてはいないつもりであったアレクシアだが、椅子に腰かけた際に思わず深い
秋の花の蜜を集めたものらしい。口の中で散る花のように消える甘さを追いかけて、ちびりちびりと唇を潤した。
協会の中はひとで満ちている。
アレクシアの待っている場所にはいくつもの机と椅子が並べられ、待ち合わせや作戦会議に使われているようだ。反対側には背丈よりも大きな掲示板が飾られている。いくつもの紙が貼り付けられ、三人組が一つを破り取っていった。
ジルドがいるのは入り口正面に設けられた受付である。背筋に定規を差し込んでいるかのごとくぴんと伸びた姿勢で、流麗に筆を走らせている。いつも通りのジルドなのに、どうしてか周りの視線を集めているようだ。
ぼんやりと、浮き立つような気分でアレクシアは待っていた。
「アリー! どこにいる!!」
ふいに、自分の名前が呼ばれた。正確には、使おうとしている偽名だ。
市井に溶け込むにあたり、本名では目立ちすぎるとジルドが言ったのだ。けれど、
今、その名が呼ばれている。
声の主は知らない人間だった。
「アリィは私だけど、どうしたの?」
返答にずかずかと粗野な男が近づいてきた。彼の
「貴様か!! どこで道草を……いや、いい。そんなもの後だ。さっさと来い!」
座っていたアレクシアを、男は乱暴に腕を引いて立たせた。その強引な動きに、顔から地面へ転げそうになり、慌てて足を踏み出した。
「どこへ行くの? 待っていないといけないのだけど」
「だから迎えに来てやったのだろうが! 全く、手間をかけさせやがって……」
そうなの?
自信満々に言う男に、そういうものなのかと思ってしまう。
男は盛大に舌打ちをし、アレクシアの腕をさらに強く引っ張った。ずんずんと協会の扉を抜け、通りへと向かって歩き始めた。アレクシアは、その勢いに引きずられるように、足を急がされる。
「やっと雑務を押し付けられる
ぶつぶつと文句を言い続ける男の言葉を右から左に抜けていく。アレクシアの興味は、銀に
「ねぇ、
「研究所に決まっているだろうが!」
男の足取りは速くなり、腕を
通り過ぎていく景色は、王都から降りたばかりの逆回し。けれど、先程は見なかった露店を見つけた。香りもしない花が飾られている。あとでジルドと共に見に行こう。
ふわふわと浮き上がる思考は、揺れる片腕を取られてぱちりと弾けた。
「あやしげな男が女の子連れてるって聞いたんだけど。何してんの? オリス」
振り向けば、赤毛が風に揺らし、鋭い瞳で
オリスは、ふんと鼻を鳴らしながら立ち止まった。その
「どうして俺がそんなことをする必要がある。
こいつはうちの新しい助手だ。随分
アレクシアの腕を
「アリーだ」
彼が付け加えると、ヘデはさらに
「
酒精の影響か、地に足付かぬ感覚のままアレクシアは明るく答えた。その言葉に、場に雷が落ちる。ぴしゃりと体を固まらせた二人はこわごわ顔を見合わせた。
「ほんとにこの子が助手なの? 絶対違うくない?」
「……いや、さすがに」
ヘデが眉をひそめて尋ねた。
「……商家の三男で、
「いや、え、女の子じゃない……?」
二対の視線を受けて、アレクシアは小首を傾げる。ヘデが目の前で腕を広げて見せたから、
表と裏をじろじろと観察されていたが、オリスが大きく
「人違いだったようだな」
オリスは疲れた声で
アレクシアは、何が起こっているのかよくわからぬまま、ぽつんとその場に残された。隣で同じく残されたヘデが、大きく溜め息をついた。
「ごめんね、悪いやつじゃないんだけど……」
「うん? 大丈夫よ」
「え、いやいやいや、オリスのこと知らなかったんだよね!? 危機感持ちな?」
声を大きく張り上げたヘデに目を向け、そして、アレクシアの視線は彼女の横にいる大きな生き物に
そこにいたのは、アレクシアよりも大きな一羽の鳥だった。くりくりとした真ん丸の目がこちらを見て、
広げればアレクシアなど優に包んでしまえる両翼の付け根には、革で作られた
「ねぇ、その子って
興味の
「え、う、うん。そうだよ。私の相棒。初めて見るの?」
「えぇ!」
アレクシアはその答えに
「……乗ってみる?」
頬を掻くヘデの提案に、アレクシアは目を輝かせ大きく頷いた。
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