第16話 深淵を覗く

 封魔学園に戻った後も、戦いの疲労は体から抜けず、思わずその場に倒れ込みたい気分だった。


 だけど、治療室で重傷の生徒たちが運ばれてくる様子を見ていると、そんな気分にはなれなかった。


 自分たちはまだ命を落とさずに済んだ。


 それでも、学園の仲間の半分近くが命を落とした事実が重くのしかかる。治療の待ち時間、氷結先輩の言葉が頭の中で何度も反響していた。


「闇に近づけばいい…」


 無情にも響いたその言葉が妙に記憶にこびりつき、どうしても気になって仕方がなかった。


 その強さを得るには、闇に触れなければならないのか? その意味を探るため、俺は治療を受けた後、誰にも告げずに図書館へと向かった。


 封魔学園の図書館は、闇と相対する学園、故に、封印術や異界の力に関する資料も多く収蔵されている。中には一般生徒が閲覧できない禁書も含まれていたが、それでも十分な情報があるはずだった。


 静かな館内に足を踏み入れると、冷たい空気が身体を包み込み、息を呑んだ。


「深淵……」


 氷結先輩が言っていた“闇”とは何なのか、手がかりを探し始めた。


 俺はゲームという表面的な部分で全てが攻略できると思っていた。


 だけど、ここでは実際に妖魔が出現して、命を奪い合う。安全な場所から、奴らを倒すだけのゲームじゃないんだとやっと理解した。


 古びた書物や文献の中から「深淵」という言葉を含む物を次々に引っ張り出し、奥の机に並べた。


 重厚な背表紙が並ぶ光景に、心臓が高鳴るのを感じた。


 慎重に一冊一冊を開き、ページをめくると、書物に記された封魔の知識が目の前に広がっていった。


「……やはり、“深淵”は封魔と繋がるのか」


 目に飛び込んできた言葉に、息を呑んだ。


 深淵とは、学園に封印されている闇そのものを指していた。


 それは触れることが禁じられていて、避けられている領域でもある。


 そこに潜む力は、強大で危険だが、同時に魔力を極限まで引き出すとされていた。だが、その反面、深淵に近づきすぎた者は“闇に呑まれる”リスクがあるという。


「深淵の力を引き出すと……魔力の流れが増幅される?」


 もしも、強くなるにつれて、封魔に近づき過ぎたことで、闇堕ちをするならば、真を闇堕ちさせないためには強くさせない?


 他の文献には、魔力の覚醒や強化が、闇を通じて可能になるとあった。


 そこに触れることで、力の限界を超えられるという。しかし、その代償として失われるものも多く、魂の安定や心の平穏さえも蝕まれる危険があると記されていた。


「そんな……」


 ページをめくるごとに、闇についての記述はどんどん暗い内容になっていく。


 闇の力を操ることができるようになるが、やがてそれに呑まれてしまう者も多い。


 幾人もの魔道士たちが、強さを求めて深淵に手を伸ばしたが、戻ってきた時には別人のように冷酷になっていたという記録もあった。


「もし、氷結先輩が……」


 その考えに身震いした。あの冷たく感情のない瞳は、もしかすると彼女が深淵に触れた結果なのかもしれない。


 もしそれが真実なら、あれほどの力を手に入れるには、どれほどの代償を払ったのだろう。


「でも、それでも……強くなりたい」


 そう心の中で呟いた瞬間、胸の奥から込み上げてくる熱があった。


 仲間たちが無惨に倒れる様を何度も思い出していた。


 無力さに打ちひしがれたあの瞬間を二度と味わいたくはなかった。たとえ闇に近づくことになっても、俺は強くなりたかった。


「……」


 その一方で、恐怖が心に巣食っていた。


 闇に触れるということは、単に魔力が増幅されるだけではなく、自分自身をも変えてしまうのではないかという不安。もし、氷結先輩のように冷酷な人間になってしまったら。


 自分自身が変わってしまうのは、果たして代償として支払えるのだろうか?


 思わず手を握りしめ、拳に力を込めた。


 迷いや恐れが入り混じり、思考が絡まり合う。


 ふと図書館の周囲を見渡すと、静寂が支配する空間が余計に心をざわつかせる。古びた本棚が並ぶこの場所で、自分だけが静かに闇を覗いているような孤独感が胸を締め付けた。


「闇は、あらゆる力を引き出すが、闇に呑まれるか……」


 記録の最後のページに、そんな言葉が書かれていた。闇の力は持つ者の意志をも試すという。力を得るには、その意思を捧げる覚悟が必要だと綴られていた。


 その言葉が突き刺さるように胸に残り、まるで深淵から手招きされているかのような錯覚を覚えた。


「もし俺がこの力を得たら、あの場で仲間を守れたんだろうか」


 強さを追い求める思いが、自分の中で渦を巻く。だが、それと同時に、力の先に待つものが果たして本当の救いなのか、疑念も膨らんでいった。


 仲間を守るためには力が必要だと信じてきたが、その力が自分を変えてしまうなら、その問いに答えが出ないまま、俺は目を閉じた。


「氷結先輩も……こうして、この力を求めたのか?」


 真実は知る由もなかったが、あの冷たく氷のような瞳を思い出すと、どうしようもない焦燥感が押し寄せてきた。


 俺は、どうしても彼女の力に憧れている。だが、その力を得るために、あのように冷たい心を持つことが必要だというなら、俺はその代償を払えるだろうか?


 気がつけば、朝日が昇り始めていた。


 封魔学園の図書館の窓から漏れるわずかな光が、本棚の隙間を照らし、あたりを淡く染め上げていた。


「俺は……」


 呟きながら、まだ迷いが消えない心を抱えたまま、ゆっくりと図書館を後にした。

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