第16話
グィネヴィアは、おもむろに起きあがる。
額から溢れ出る血が目に入り、視界が混濁している。
しかし、目の前にいるミーナの姿は、はっきりと視認することができる。
愛しい愛しいミーナ。たとえこの目が潰されようが、鼻と耳をもぎ取られようが、決して見過ごしたりはしない。
『ミーナ……』
そのときだった。
グィネヴィアの背中を一本の長槍が貫いていた。
続けて、一本、また一本とグィネヴィアを貫いていく。
『ぐおぉぉっ……!』
グィネヴィアは大量の血を吐いた。激痛が全身を駆け巡る。
だが、
『うおおおおぉぉぉ!』
最後の力をもって、翼を回転させると、辺りに集っていたペガサス共を振り払う。
振り下ろされた騎兵の頭を踏みつぶし、気絶させる。
もう追っ手の気配を感じない。排除することに成功したようだ。
しかし、グィネヴィアの体には、7本の長槍が突き刺さっていた。
もはや虫の息だ。
だが、まだ終わっていない。さらに力を振り絞ると、翼の切っ先で、足元で呻く”そいつ”の喉元をかっきった。返り血がグィネヴィアの顔にかかる。
それは群れを率いていた族長だ。
群れのみんなを食わせるためとは言え、≪パージ≫に協力することを決めたこいつだけは許すことができなかった。そして妻がいるにもかかわらず、愛しいミーナを寝取ったこいつを。
グィネヴィアは、おぼつかない足取りでミーナのもとへと歩いていく。
『ミーナ……一体どうしちまったんだよ……こんな奴らなんかに手を貸すなんてよ……』
『……族長が決めたことよ。そうでもしなければ、この子は殺されていたから』
ミーナは、まだ小さいペガサスを連れていた。まだ世の不条理さを知らない無垢な目だ。自分もかつてこんな目をしていた時期があったのだろう。150歳となった今にしてみれば、あまりに遠い昔のことだ。
『あの野郎との間に拵えたガキか……』
ミーナは首を横に振る。
『あなたの子よ』
『え……?』
グィネヴィアは目を見開く。
『私は、あなたの子を身篭っていた。あなたとの愛の結晶を守るために、私は族長に身を捧げて、妾になったの。……ごめんなさい。あの人に脅されていて、私は、ずっと黙っているしかなかった……』
『そうか……そうだったのか……』
グィネヴィアは再び吐血する。
『あなたに似て、とても勇敢で逞しい男の子よ』
グィネヴィアは血を吐き続けながらも、涙を零していた。
今この胸に宿るは、もしかすると、幸福という感情なのかもしれない。それは、150年間生きてきて、初めて抱いた感情だった。
『できればずっとお前らとずっと一緒にいてやりたいが……どうやらオレはもうだめみたいだ……。
最後の頼みだ。あいつらを……キースを、クララを……少しだけの間でいいから見守っていてくれないか……?
しょせんただの人間風情だが、どこに行っても鼻つまみ者だったオレと心を交し合えた初めての”マブダチ”だったんだ。
だから……頼んだ……ぜ……』
『……分かったわ。約束する』
『…………ふ…………ありがと……な……』
そして、グィネヴィアは事切れた。
その死に顔は、全てをやりきったようで、微笑んでいるようにも見えた。
ミーナはグィネヴィアの亡骸を優しく翼で包む。
『グィネヴィア……さようなら……』
◇◇◇
最奥の部屋に飛び込んだ僕の目に入ってきた光景は、純白の法服を纏った3人の高官たちに殴られ、蹴られるステラの姿だった。
ステラはうずくまり、抵抗の一つもしない。
「さっさと預言を授けろ!」「時間がねえんだよ!」「早くしろ、おら!」
「うぅ…………」
ステラの表情は、悲痛に満ちていた。
「ステラ!」
僕がステラの声を呼ぶと、高官たちが一斉に振り返る。
「なんだ、お前ら!」
そのとき、クララの放った火弾が高官を撃ち抜いた。
3人とも仰臥して、気絶したようだ。
「……キース……クララ……どうしてここに……?」
ステラは虚ろな目で、こちらを向く。
僕らは、ゆっくりとステラのもとへと歩みを進めていく。
「ステラに会いに来たんだよ」
「言ってやりたい文句がたくさんあります! でもその前に、ステラのこと、もっと聞かせてほしい! 本当の気持ちを聞かせてほしい!」
「ああ。そのために、僕らは幾百もの空騎士を蹴散らして、ここまで来たんだ」
横たわるステラの手を、そっと取ろうとしたそのときだった。
床一面が真っ黒に染まった。
「これは……」
僕は目を見開く。
「な、何が、起きているんですか?」
「……分からない」
それは荒波のように波打つと、蠢きながら、一箇所に集い、人の形を形成していく。
「ここにいたらだめ……はやく……逃げて……」
ステラが言う。
だが僕とクララの意志は固い。こんな状況にありながらも僕とクララは互いの心を確認するように、目を見合わせ、頷く。
「わたしのことはいいから! 早く!」
ステラが声を張り上げる。
しかしそのときには、すでにそれは、はっきりとした輪郭を帯びていた。
「ザカライア……」
胸当てはひしゃげ、顔は苦悶の表情で歪み、どうにかこうにか立っているという感じだ。
「どうしてこの男がここにいるんですか!? だってこの人はあのとき……」
そうだ。確かにあのときザカライアは、ライナスと刺し違えて奈落の底に落ちていったはずだ。この目にしっかりと焼き付いている。
「……我輩は、見ずに死ぬわけにはいかないのだ。我輩が幸せに導いたエーデルフェリアが、有終の美を飾る姿を……」
僕は息を呑む。今、この男は何と言った? 有終の美? まさか、今まさに起きようとしている終焉をザカライアは待ち望んでいたとでも言うのか?
「そうだ……。これは我輩の復讐であり、芸術でもあるのだ……。大多数の人々に安寧をもたらしてから、ある日突然それを奪い去る。一度幸せを噛みしめた者が、絶望に染まりゆくその顔は……実に美しい」
「……狂っています、この人」
クララが目つきを険しくさせ、吐き捨てるように言った。
僕は込み上げる感情を抑えて、そっと問いかける。
「ザカライア……。今のお前は、もしかしてあの子の力で、具現化された存在なのか……?」
ザカライアによって偽の≪アカシックレコード≫として仕立て上げられた少女――彼女の能力は、人々の心を読み取り、人々の欲しているものを具現化する術だった。
「そうだ。民が我輩を求めた。民は我輩を必要としている。我輩は、不滅の指導者なのだ!!」
「……何を言ってるんですか? それは、壮大な勘違いですから。ほとんどの民は……あなたなんか求めていないと思いますよ」
クララは軽蔑の眼差しでザカライアを見据える。
「なるほど……。指導者を失って途方に暮れた空騎士たち……そしてガーレイス総帥がお前を求めた結果、あの子の力がそれに反応して、地獄の底から蘇らせたというわけか……」
「……キース。そういえば、貴様は、≪ジョーカー≫だったな」
「そうだ。お前が”グレイ”と呼んでいた人物だ」
「……何だと?」
「今だからこそはっきり言ってやる。元からお前に協力するつもりはハナっからなかった。変装をして紛れ込んでいただけの、諜報員だ」
「あたしは、クララです。こう見えて、一応≪ジョーカー≫指定されてまーす! ……姉の仇、ここで討たせてもらいますから」
ザカライアは長槍を構えると、僕らの前に突き出す。
「……ふん、そういうことか。では、我輩の独断の下、≪パージ≫を開始しようではないか。エーデルフェリアの民は、滅びゆくその直前まで、大多数が幸せであるべきなのだ。それこそが指導者たる我輩の務め。……最初の≪パージ≫の対象は――貴様らだ」
言い終えると、地面を踏み込み、風を切って僕らへと迫ってきた。
「横に跳ぶんだ! クララ!」
咄嗟にクララは体を捻る。しかし避け切ることはできず、ザカライアが突き出した槍の先端がクララの肩口を抉った。
「……凄まじい速度です」
この僕でさえ、どうにか残像を捉えるので精一杯だった。
だけど、やるしかない。この手でザカライアを討ち果たすのだ。
「ぐおおおああああっっっっ!!!!!!!!」
ザカライアは咆哮を上げ、突きの連続を僕に仕掛けてくる。
「くっ……!」
僕は奥歯を噛み締める。どうにかその連撃を受け止めるだけで精一杯だ。腕の筋肉が激しく疼く。
「ひゃははははは!! ぐひゃあああはっはっっはっ!」
ザカライアは大声で笑う。まるでこの状況に、心からの幸せを見出しているかのように。
この男は、歪んでいる。
率直に、そう思った。
おそらくあの日――妻と娘を喪ったそのときから、ザカライアの心は壊れてしまったのだろう。取りつかれたように≪パージ≫を執行し続け、やがてそこにある種の芸術性を見出すに至った。それは復讐の名を借りた芸術なのか、それとも芸術の名を借りた復讐なのか……。
「……逃げて……二人とも……!」
ステラは立ち上がりながら、声を振り絞って言う。ステラは訴えかけるように僕らの目を見る。しかし僕らの心は決まっている。
「逃げないよ」「逃げませんから」二人の声が重なった。
クララの火弾が炸裂する。しかしザカライアは撃ち出されるそれらを全て見切り、横に跳び、上に跳び、僕へと迫る。
「ザカライア! お前は、ガラハッドとライナスの仇だ! この手で必ず討ち果たす!!」
僕はザカライアと打ち合いながら、声高く宣言してみせた。
「くくく……ははは……面白い……実に面白いぞ! ひゃああああァァァァァァハッハッハッハッッ!!」
ほんの一瞬だけでも判断を間違えれば命を落としかねない死闘だ。あのとき、ライナスが僕に告げた言葉――。
『キース。はっきり言うぜ。今のお前に勝ち目はない』
その一言が、現実味を帯びてくる。
あの子は、最後に見た、ライナスによって火口へと突き落とされる直前のザカライアをそのまま復元したのだろう。
満身創痍のはずなのに、立っているのもやっとのはずなのに、どうしてこんなに強いんだ――。
隙一つ見出せない。
ライナスがどうにか相討ちに持ち込んだこと自体が、もはや驚嘆に値するほどだ。
僕も全力で打ち返すが、膂力は相手の方が格上だ。
一歩、また一歩と押し出されていく。
「ぐおらあああぁぁぁ!!」
「ぐうっっ!!」
僕は背中から壁に激突する。
僕はそっとクララの方に目をくれた。
「はぁ……はぁ……」
クララはひざまずき、激しく息を吸ったり吐いたりしている。力を使い果たしてしまったようだ。
「往生するのだな。”グレイ”よ」
ザカライアが思い切り長槍を振りかぶったそのときだった。
「お願い!! どうか!!」
ステラが祈るように両手を天に向かって突き上げた。
すると、ステラの両手から淡い光が溢れて――それは爆発するように広がっていった。
眩いばかりの光に僕は刮目する。
光の中にいたのは、二人の人影。
思わず、僕は目を見張った。
「ライナス……ガラハッドも!!」
すでにこの世を去ってしまった、かけがえのない人たち。
一体、どういうことだ……。
「どうやら苦戦してるみてえじゃねえか」
ガラハッドが長槍を手に、僕へと近づいてくる。
「手助けしてやるよ。相棒」
ライナスもまた長槍を手に、僕の横に立つ。
「くっ……貴様ら、≪アカシックレコード≫によって”手繰り寄せられて”きたのか……」
はっと思った。
あのとき、ステラは、別の世界から巨大涙石を手繰り寄せたことによって、一難を退けた。
そして今、ステラは、同じようにライナスとガラハッドを招いたんだ。そう、二人が命を落としていない、別の世界――並行世界から。
ザカライアは槍を振りかぶったまま、そう言うと、奥歯を噛み締め、きりきりと鳴らす。
「そういうことだ。弟がピンチだと聞いて、黙っているわけにはいかねえわ」
「役者は揃ったな。んじゃ、そろそろ怨敵撃破といくか」
「ガラ兄……ライナスも……ありがとう……」
「あたしも、まだまだやれます!」
クララは立ち上がると、さっそく詠唱を始める。
ステラは、僕たちに向けて、一言言った。
「……みんな、頑張って」
もう恐れるものは何もない。僕は揺るぎなき決意を込め、声高に宣言してみせた。
「よし!! 最後の闘いだ!! 全身全霊で立ち向かおう!!」
僕の合図を皮切りに、再び戦いの火蓋が切って落とされる。
響く刺突音。連射される火弾。壁は穿たれ、扉は真っ二つに割れ、闘いは激しさを増す。
「ぐおらああああっっっァァァァァァ!!」
ザカライアが吠える。
三人がかりでザカライアを壁際まで追い詰め、もはや逃げ場はない。
仕留めるなら今だ……!
僕が渾身の一打を繰り出す。
しかし、ザカライアは踵で壁を蹴り、舞い上がった。
僕の突き出した一打は、むなしくも虚空を掠った。
上を向くと、ザカライアは頭を下に向けて、不敵な笑みを浮かべている。手にしている長槍の先端は一直線に僕に向けられていた。
……僕を脳天から貫こうかという魂胆か!
僕は咄嗟に後ろに引いた。
僕がいた床に槍が突き立てられる。
ザカライアがそれを引っこ抜こうとするが、深くまで突き刺さっているため苦戦しているようだ。
僕の脳裏に、ガラハッドの、あの言葉が浮かんだ。
『攻撃を繰り出すときは、どんな相手であれ一瞬だけ隙が生まれるんだ。そこに切り込み、一気に崩せ』
「ザカライア!!!!」
僕が叫んだときにはすでにザカライアは槍を抜き、僕へと突き出していた。
僕の額を貫こうとしたその直前――。
おそらくこれまでの実践において、これほどの速度で攻撃を繰り出すことができたのはこれが初めてだろう。
僕の長槍は、ザカライアの心臓を貫いていた。
ザカライアの手がぴたりと止まる。あと0.1秒遅かったら、僕の脳漿は弾け散っていた。
続けて、ライナスがザカライアの喉を穿ち、ガラハッドが額を穿つ。
「ぐおおおおああああっっっっ!!」
ザカライアはうつ伏せになって倒れた。
まるでザカライアの心の色をそのまま映し出したかのような黒ずんだ血が、床に広がっていく。
「まだだ……まだ……死ぬわけには……我輩の復讐は……芸術は……終わ――」
ここで、事切れた。
「どうやら一件落着がついたみたいだな」
ガラハッドが長槍の先端についた血を布で拭いながら言った。
「俺らの役目もこれで終わりだ。さて、そろそろ元の世界に戻らねえと」
「だな」
二人は頷き合う。
「ちょっと待って!」
二人は僕を見る。
「もう少しだけ一緒に……」
言いかけて思い留まる。
それは決して口にしてはいけない言葉だった。彼らには彼らの世界があって、守らなければいけない人たちがいるのに……。どうして僕はこんな身勝手なことを、一瞬だけでも願ってしまったんだろう……。
「あの、一つだけ教えてください」
クララが切り出す。
「二人が今いる世界は……。美しいですか?」
「ああ、とても美しいさ」
ガラハッドがそう言うと、ライナスは、
「そして、同じくらいに醜い世界だ」
「…………」
クララは目を俯ける。込み上げる感情を押し殺すように、口を震わせている。
ガラハッドが言った。
「そんな顔すんなよ、おめえら。それでも俺らはこの世界で生きていかなければいけないことには変わりがねえんだ。俺に言わせりゃ、世界の美醜なんてものは、ただの飾りに過ぎん」
「肝要なのは、己の生き様だ。そうだろ? キース?」
ライナスに問いかけられ、僕ははっとした。静かに顔を上げる。
「そうだね。僕は最後まで足掻いてみせるよ。こんな世界でも、僕には守り抜かなければならない人たちがいるから」
「そうだ、その意気だ」
ライナスは笑う。
「お前は、俺を超えていけ」
そして二人は背を向ける。
ステラが頷くと、ステラの手のひらから淡い光が広がっていく。
そして、それは二人を包み始めた。
「じゃあな」
ガラハッドが言う。
「せいぜい頑張れよ。”ヴァンダーファルケ”」
光が拡散していき、そしてそこには、二人の姿はなかった。
束の間の邂逅。
僕の胸の内で何かが呼び起こされようとしていた。
それはきっと――どんな過酷な状況にあれ、生き抜いてみせようという確固たる意志だ。
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