第20話 名誉挽回
赤橙色に燃える
なにかがおかしい。自分は誰かに見張られているのではないか?
そのような思いが聡吉の頭を過りました。
先ほどは近くで水汲み作業をしていた樋引(排水夫)が、いまは腰を下ろして昼食をとっています。
「あんたがやったのか?」
聡吉が詰め寄ると、押し込みすぎて餅のようになった弁当のご飯を口に運んでいた樋引が顔を上げ驚いた表情で問い返しました。
「いったいなんのことだい?」
「とぼけるな、竪坑の下に岩を落としたろう」
「知らないよ。おれは朝からずっとここで作業をしていて、いま昼飯を食いはじめたところだ。ここからは一歩も動いちゃいない」
嘘を言っているようには見えなかったので、質問を変えます。
「さっき話し声が聞こえたんだけど、誰かいたのか?」
「ああ、さっき昼間にしようって、トロ押しが来たんだけど……そのへんで弁当食っていなかった?」
そうは言われても、竪坑の近くには空の鉱車が放置されていただけでした。
聡吉は逃げたトロ押しを探すため、外につながる大切の坑道にむかって歩き出します。
薄暗い道でどこから襲われるかわかりませんので周囲を警戒していると、急に上から
「うっ……くっ……」
という呻くような声が。
なにかと思い
結び目を横にして手拭を頭に巻いた……そう、坑内にきて一番初めに見かけたあの若いトロ押しです。
「お前……なにやってんだ?」
聡吉が声をかけると男は驚いてこちらを一瞥し、そのあと慌てて視線をそらします。
そしてもう一度こちらに顔を向けると同時に、岩を投げ捨て横穴から飛び降り、竪坑の方にむかって走りだしました。
「待て!」
坑道内は狭くなったり広くなったりするうえ、足下が岩なのでゴツゴツとしていて走りづらい。
竪坑から下へ。再び下三番坑道へ降りた聡吉は、そのまま奥へ奥へとトロ押しを追っていきます。
枝分かれした道を迷うことなく慣れた足運びでどんどん先へと逃げていくトロ押し相手に、ふりきられないよう必死に食らいつく聡吉。
水溜まりに足を取られ息をきらせながら進んでいくと、あたりはだんだん地下の熱気で蒸し風呂のような暑さになってきました。
そして二人は最深部の近く、周りに穴を支える支柱のない岩がむき出しとなった場所までやってきます。
岩肌には白茶から黒茶へと地層のように斜めに入る見事な鉱脈が見え、至る所から吹き出す水が
鉱夫達は日々この鉱脈を追いながら、奥へ奥へと穴を掘り進めているのです。
トロ押しはここにきてついに観念したのか
「勘弁してくれ、たのむから見逃してくれ」
と聡吉に懇願しはじめました。
しかし、ここまで
「友造となにを企んでいたのか白状してもらおう」
聡吉が問い詰めると
「へ、友造? 女工のことじゃないの?」
とはぐらかそうとするので
「この期に及んで見苦しいぞ。だから逃げていたんじゃないのか」
と話を戻しますがどうも噛み合いません。
「おれはてっきり、あの娘と逢引していたことを咎められるのかと……」
それを聞いた聡吉は、さきほど備前の鉱夫達が、トロ押しの若いのが女工と……という話をしていたのを思い出します。
よもやの勘違いで思考が停止していたところ、前方から突然ものすごい轟音が。と、すぐに煙もやってきました。
喉の奥につき刺さるようなイガイガとした煙の香り……黒色火薬を試用したようです。
このころはまだ鑿岩機がなく、どこの鉱山でも手掘りが中心でしたが、同時に各地で火薬の爆破利用が試されていた頃でもありました。
瞬く間に聡吉達の周囲を煙が包みこむと、同時に今度は
「大変だ、水が暴れた! 逃げろ」
と奥から叫び声が聞こえ、続々と鉱夫達が避難してきます。彼等は聡吉達を押し退け我先に走り去ってゆきました。
先ほどの爆破で、
目まぐるしく変わる状況に身動きがとれず、右往左往する聡吉。
一方トロ押しの方も同じで、どうしたものかとしきりにあたりを見回しています。
岩肌からは水がちょろちょろ、さらにひび割れからはピシリと小さな音が聞こえてきました。
嫌な予感がしたその瞬間、大きな音とともにひび割れから一気に水が飛び出し、はっとする間もなくトロ押しの身体が横壁へと押し流されます。
その衝撃で彼は意識を失い、足下の冷たい水の底へ顔を埋めたまま動かなくなりました。
一方こちらの足下に目をやると、水位が膝を超えそうなくらいにまできているではありませんか!
しかも前屈みの状態なので、実際の水は顔のすぐそばにまで迫っています。
「急げ、
坑内に叫び声が飛び交うなか、聡吉は水に浮かぶトロ押しをどうにか救出しました。しかし戻る道がわかりません。
そのとき
「竪坑はこっちだ! 早く来い!」
と
そこからは皆で協力し、坑内に残った他の者達の避難を手伝います。
気を失ったトロ押しはいったん大切坑道まで運びあげ水を吐かせ後で、山の中腹にある町の診療所へと運び込みました。
藩政期までは風呂屋であった角野診療所の建物は、洒落た
雨戸を開放した大広間は風通しがよく、鉱山町の全景も一望できるので患者の治療にはもってこいの場所でした。
襖に沁みわたるセミの声を聞き、ようやく外に出られたことを実感する聡吉。
そこへ横で手当てを受けていた鉱夫の一人が、誰に吐くでもない呻きのような言葉を洩らします。
「ここの鉱山はただでさえ水が多いことで有名なんだ。掘ればすぐに水が出てきて、人力では排水が間に合わない。排水の便がもっとよくなるといいんだが……」
やるせない顔をしていた彼は、こちらの存在に気づくや
「おっと、すまない。あんたにぼやいても仕方のないことだったな。上にも言えないからつい……」
と苦笑いをしてみせました。
苦しいのが辛いのではない。苦しいのに苦しいと言えないことが辛いのだ。
そう言いたげな彼の様子を見て
「どこの鉱山も同じじゃないのか」
と聡吉が尋ねると
「いいや、他の鉱山の方がよほど楽だとトロ押しのトクさんが言っていた。そういえば、最近、トクさん見かけないな……」
と鉱夫はそのまま布団にくるまり、寝息をたてはじめます。
主任はこうした鉱夫達の実情を、どれほど把握しているのでしょうか。
ふわりと風がきて気付いた身体にまとわりつく金気の香り。
聡吉はたったいま彼等が働く過酷な現場を目の当たりにしてきただけに、このとき自分がなにもしてやれないことにもどかしさを感じるのでした。
神社の祠官が坑内の穢れを祓い終えると、町中に鍛冶屋の槌の音が鳴りだします。
ちょうどその頃、西陽を受け中紅花に染まる鉱山分局事務所の一室に、直立不動で主任と対峙し命運を賭けんとする小男の姿がありました。
「追跡をしておりました友造ですが、山の要所に見張りをおいたうえで捜索をいったん打ちきり、体制が整い次第、改めて山狩りを行うこととなりました」
エンマコの報告を聞いた主任は、オーク材の
「そういえば今日、坑内の方で出水騒ぎがあったそうだが、その際に部外者が率先して鉱夫の救助にあたっていたらしい。山事務所の話ではその部外者は門監から派遣されてきたとのことだが?」
主任の問いに、エンマコはすぐ山本の仕業だと直感しました。
あいつ……また余計なことを!
毎回毎回、勝手な行動をとりやがって。
常に情報を共有し、俺に相談をしろ。
具体的な指示は出さないから、良きに計らって責任はお前がとれ。
なにかあったとき、すぐに俺が記憶を失くせるよう御膳立てをしておけ。
まったく、あの役立たずめ!
両手で扇子を握りしめ、理不尽な怒りを爆発させるエンマコ。
深く呼吸をして息を整えます。
さて、この場をどう切り抜けるか。
ここはトカゲの尻尾切り……もとい正直に話をして、山本に全責任を負わせるか?
だがその場合、上の監督不行き届きを問われる危険性が十分に考えられる。
安全に退避するための免罪符が不可欠だが、なにかあるか……?
ん、まてよ。主任の表情が穏やかだ。
まさかとは思うが、自分の指示だと嘘を言って誉められたりすることはないか?
白い
絶え間なく宙を泳ぎ回るエンマコの視線、額からは粘り気の強い妙な汗がにじみ出てきました。
保身だけを生きる糧とする男のちっぽけな大博打がはじまろうとしています。
坑内に部外者を入れたことを責めているのか、それとも救出を手伝ったことを誉めているのか、いったいどっちなんだ?
考えろ、考えろ
ここが分水嶺だ、ここを読み違えると被害は甚大だぞ。
不意に静寂を破るような置時計の鐘の音が鳴り響き、てかてかと光沢を放つリノリウムの床に汗の雫がこぼれ落ちました。
エンマコは、さんざん逡巡した挙げ句に裏返ったしわがれ声で
「も、もちろん! ぼ、僕の指示であります!」
と答えます。
これが吉と出るか凶と出るか……。
すると返事を聞いた主任はそうかよくやったと大に喜び、エンマコの予想が見事に的中。彼は難局を乗りきることに成功しました。
こうしてその場を凌いだエンマコでしたが、彼の綱渡りはこれからも続いていくことでしょう。
不本意とはいえ、山本の機転と聡吉の活躍により結果的にみごと名誉挽回を果たすことができたエンマコ。
そのため山本が飲み干した酒の件は、口封じの意味もあってめでたく不問となりました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます