第17話 大風の夜に
「あい、奸賊を追ってここまで来たとぎゃ? 大難儀なんしな、まんつ休んで
土間に広がる囲炉裏の煙。
沢でおっかあと遭遇した聡吉は、そのまま中野の飯場まできていました。
「せっかくだども、そうはいかねんす。一刻も早く門監にいるおっちゃんにこのことを知らせないと」
そう言い腰を上げようとしたのですが、走り続けてきたせいでこむら返りをおこしてしまいます。
「痛ってて……」
「雨も降っとることだし、落ち着くまで雨宿りしていくとええ」
聡吉はその言葉にありがたく思うのと同時に、焦りと後ろめたさを感じていました。
「すんません、このあいだの提灯もまだ返してないのに……」
「なんもなし、ゆっくりしてって
おっかあは背負ってきた籠を下ろしながら、しわくちゃな顔をさらにしわだらけにして笑います。
しとしとと降りしきる雨の音が聞こえるなか、雨戸が閉めきられた居間では行灯が昼なお灯されていました。
その横の壁板にはおっとおの物でしょうか、マンダ(シナノキ)の皮とミゴ(ワラの先端)を使って拵えた上等なケラ(雨具)が掛かっています。
おっかあはそれをぼんやり見つめ
「まんつ、今年なば雨が多くてんしな……」
と独り言ちました。
雨は止みそうもなく、足の状態も良くならない。
焦っても仕方が無いので、それならばと聡吉は気になっていたことをおっかあに聞くことにします。
「このあいだの大水の日に、沈澱池の水門を抜いたって聞いたんすけど本当だすか?」
「誰がそっただごど……亀蔵きゃ? 抜いてねんした。うちの人達が見に行ったども、沈澱池の水は溢れでいながったと聞くんす。川に流れだのは、上流の堤の水なんし」
大雨の日の被害については、聡吉もある程度把握をしています。鉱山町では山津波(鉄砲水)に民家がのまれ、別所村でも増水した川に流された家がありました。
また坑内では甚大な浸水被害が発生し、坑外ではおっかあがいうように鉱業用水を溜める堤が決壊をし土砂が流出したという話も聞いています。
「そのときのことを詳しく聞かせてください」
そう聡吉が水を向けると、おっかあは
「今回の大水は酷いものでした」
と言ってこちらに膝を向け話しはじめました。
いまから半月近く前のこと。
朝から降り止まなかった雨は、今夜は荒れるだろうというギアシの予想通り夕方になるにつれ横なぐりの雨に変わります。
家中にガタガタと揺れる戸板や、柱がミシミシと軋む音が聞こえ皆が起きてきました。
おっとお等は、慌ただしくどこか壊れているところはないか手分けして家の状態を確認します。そのさなかでした。
「堤が切れる! 泥の溜池ももうもたん、沈澱池も溢れる前に早く抜け!」
そう言いながら押しかけてきたのは、あの友造です。
「いぎなり怒鳴り込んで来て、なに言うがど思えば。そっただ
ギアシが反論すると友造は益々上気し
「溢れてからでは遅い。つべこべ言わずにさっさと抜いてしまえ!」
とがなり散らしてきました。
そのあまりの剣幕にさすがのおっとおも
「まず、そう
と宥めて人員を分け、篠突く雨のなかおっとおは沈澱池へと向かいます。
「沈澱池の水は溢れていなかったそうだす」
「抜いてきたんじゃないのすか?」
「はあ、おらは実際行って見だわげでねすども……池の周りさ土嚢を積んで、溜池の方にも同じように養生してきたんすど」
これについては亀蔵も人の姿を見たというだけでなにをしていたかまでは見えていなかったはずですし、中野の鉱夫達もはじめから水を抜くのが目的であればわざわざ土嚢を積んで対処する必要などありません。
そうなると、毒水の原因は鉱泥の溜池や沈澱池ではなく他にあったということになります。
「滓山の泥でねえべか?」
おっかあが言うには堤の氾濫に伴う沢の増水によってズリ山や滓山に水が流れ込み、亀蔵の田まで毒が流出してしまったのではないかと。
可能性としては十分考えられることです。
悪水や毒水と地域によって呼び方は様々ですが、大雨による氾濫等によって鉱山から流出する金属を含んだ強酸性の水が及ぼす農作物への被害は、いまに始まったことではなく昔から知られていたことではありました。
ただ、近年鉱業の急速な発展にともない、それが拡大、表面化しつつあったのです。
毒の水は鉱石に含まれる硫化鉱物が空気に触れることで酸化し、それが水に溶けることで生成されます。
その出所は主に採掘現場のある坑道から湧き出す場合と、掘り出した鉱石を砕いた残り滓から生じる場合の二通りがありますが、当鉱山ではいずれの場合も一旦池に集めてそこに石灰などを加え中和処理をしたうえで泥と水に分離をし、無毒化したうわ水を川に流す。
そうすることによって下流への被害を抑えていたわけですが、問題は大雨などによって毒水が川に流出してしまうところにありました。
「堤はもともと小さいもので、しょっちゅう溢れていたのだす」
「だったら大きくすればいいんじゃないか?」
「
つまり国が堤を直したとなれば毒水被害を認めるということになり、ひとたびそうした前例を作ってしまえば堰を切ったように他の鉱山でも同じような騒ぎが起こることとなる。
それらを踏まえると、鉱山側としてはおいそれと動くわけにはいかないというのです。
「ううむ……」
その場でよい考えがうかばず聡吉は閉口してしまいますが、少なくとも中野の鉱夫達が沈澱池の水門を抜かなかったということだけはわかって胸を撫で下ろします。
不意に雨戸の隙間から一筋の光が射し込んできました。それまで大人しくしていたセミが、再び声をあげはじめます。
「そろそろいかないと、どうもお世話になりました」
そう言い中野の飯場を出た聡吉は門監に向かうため、神社の方を通らず山津波の被害があったウド沢沿いの小路を歩きました。
おっかあからその方が近いと教わったのです。
その道すがら目の当たりにしたのは、沢の両岸に残された手つかずの瓦礫や土砂のかたまりでした。
町屋千軒の言葉通り、鉱山町には沢沿いの狭い土地に折り重なるようにして家々が建てられています。
今回の山津波では、沢縁ぎりぎりの所に建てられていた十数軒余りの家屋がそっくり流されてしまいました。
ほとんどの住人は避難できて助かったのですが、逃げ遅れた子供を救おうと引き返した老婆は濁流に呑み込まれいまだに行方がわかっていません。
土砂の中から突き出した、柱にとまってヒラヒラと、羽を動かすオハグロトンボ。
聡吉が暫しの間手を合わせ、顔を上げるとトンボはふわりと飛び立ちました。
梁朽ちて
何処に逝かん初孫や
風に揺られて惑いしハグロ
沢じゅうに泣き暮れるような蝉時雨。漂うトンボは薄曇りの空に吸い込まれるようにして見えなくなっていきます。
そして鈴音坂を越え門監まで辿り着くと、聡吉を出迎えたのは不貞腐れて酒に酔う赤トンボならぬ山本でした。
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