第16話 脅迫者

 夜半空を覆っていた分厚い雲は明け方には流れ、雲の隙間からは光芒が射し込んでいます。

 

 朝日を受けて輝く濡れた中庭の飛石。

 殺風景な十畳間で糊の利いた折襟の襯衣シャツに袖を通す男の面持ちは、森厳と落ち着き払ったものでした。


 

 藩主に仕えていた頃となにも変わらず身を賭して役目を全うするだけ。

 刀に代わって明治から携えるようになった懐のコルトドラグーン(M1848)が平坦ではなかった彼のこれまでの人生を物語っています。

 


 日向国(宮崎県)出身の上卒であった彼は、明治になって開設されたばかりの生野鉱山学校に県の官費生として就学しました。

 卒業後は工部省に出仕し、東京に居を構えながら各地の官営鉱山に勤務したのちにこの別所鉱山分局の主任となります。


 幕末の動乱と御一新の激動を経験してきた彼は、この時代に生きる者が持つ落ち着きと大胆さという相反する特有の気質を兼ね備えており、鉱山学校修業中に起きた播州土民による鉱山焼打ちの際には死者を出しながらも帳簿類や官金を他の官員達と共に護りぬきました。


 理性を失った群衆を前に、説得を試みた彼はそのときに思い知らされたのです。


 いったん凶徒と化した民は、いかなる声にも聞く耳を持たない。

 説論が通じないのだから、力で押さえつける以外に解決する方策はないのだと。

 そしてなにより民は、自ら秩序という名の差別と支配を求めているということを。


 去年起きた暴動では、そんな彼の教訓が生かされました。

 被害は出たものの騒動を鉱山町だけに留めることに成功し、懸川地区の主要な施設や家族を守ることができたのです。


 家族のことはここへ赴任する際に気がかりでしたが、共にゆきたいという彼女等の意思を尊重し一家で移り住むことにしました。


 個は家や組織のため、家や組織は国のため。

 国家の繁栄なくして人民の幸福は無い。


 それがこの世の中の仕組みであることを、彼は確信していたのです。



 和洋併設の主任官舎は、通りに面した洋館と棟続きで通りからは見えないところに普段家族が暮らす和風邸宅がありました。


 彼が支度を済ませると、玄関には見送りのために家人一同が集まります。

 細かい気泡で歪んだ窓から、柔らかい光が射し込んできました。



「あの……お父様」

「後になさい」


 物言いたげな顔で父を引き留めようとした多美子を、母がそっと諌めます。

 このとき多美子を一瞥した逸太は、大方ギアシとその娘夫婦のことであろうと考えました。


 金輪際彼等と関わらないことを条件におナツを事務所の給仕として雇ったのですが、その後もおそらく会っているのだろう。

 弟が産まれたから厄介払いに嫁入りの話がもちあがったのではないかと勘違いをし、自分達に当てつけをしているのだと妻のリキは言うものの、逸太としてはこの大事な時期に彼女が危険なことに巻き込まれなければ良いのだがと案ずるばかり。

 

 出かける前に少々釘を刺しておこうかとも考えましたが、あいにくすでに門前には荷物を抱えた小使の青年と彼が手配した駕籠が控えています。


 要求通り金券ではなく金貨が入った袋を受け取り、行ってくるという言葉の代わりに少し会釈をして駕籠に乗り込み向かった先は、指定の場所であった大伽耶峠の東にある小さな観音堂。


 山の中腹にあるお堂の周辺には、あらかじめ警察や巡視と駒政をはじめとする地元の若い衆が待機していました。



「えっくし! ……んむ、いつでも来い」


 朝露に濡れる茂みのなかで鳶口を握りしめる駒政の若い衆。

 おリンは昨日のテァン衆の件で、父親の政右衛門からこってり搾られ謹慎中です。


 ここに来ることを楽しみにしていた山本に関しては、新米巡視と共に内門鑑の留守番についていました。

 出がけになって、エンマコこと上司の茶野に呼び止められたのです。



山本やーもと君、山本やーもと君。そっちじゃない、きみの行くところはそっちじゃないよ」

「は? どういうことですか?」


 山本が聞き返すと、エンマコはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべ

「我々が出かけている間、きみにはここで彼と一緒に留守番をしてもらおうと思うんだ」

と扇子でパシパシ、山本の腕を軽く叩いた後でその先端を詰所の方へと向けました。

 

 これに開口絶句する山本、それを見たエンマコは嬉しそうな顔でさらに続けます。


「このような重要な役は山本やーもと君にしか任せられないからねえ。よ・ろ・し・く。くくく……」

とのことでしたが、体良く爪弾きにしたことは誰の目にも明らかでした。


 山本は事件があるといつもあっさり解決してしまうので、直属の部下である下掛達も頭が上がらずエンマコにとっては疎ましい存在です。

 そのエンマコですが、どこから漏れたのか先の脱獄騒動が主任の預かり知るところとなったことで窮地に陥り、汚名返上のため是が非でも自ら手柄を挙げねばならないと躍起になっている様子。



 そして肝心の聡吉はというと、呼ばれもしないのに朝早くから樫の棒を持参し観音堂に馳せ参じていました。


 脅迫状の差出人は一体誰なのか、未だ黙秘を続けるテァン衆ということも考えられます。

 そもそもこのような厳戒態勢のなかで、果たして現れるのでしょうか。

 聡吉はしきりに跳梁しようとする憶測を抑えながら定刻になるのを待ちました。



「だす(です)、だす(です)、はえっ(はい)!」


 主任は警官の指揮を執るオニガワラと、再三にわたり打ち合わせをしています。

 少し前には持ち場をめぐって警察と巡視の小競合いが起き、主任に諌められる場面もありました。


 そしていよいよ定刻の鐘が打ち鳴らされたわけですが、いくら待っても現場にはだれも現れる気配がありません。


「なんだ、虚仮威しかよ」


 若い衆の一人が呟いたそのときです。



「うわあ、友造だあ!」


 お堂の裏側に控えていた巡視の悲鳴を聞きつけ、真っ先にオニガワラが動きました。


「警察に遅れをとるな! 追え、追え!」

 

 そこへエンマコ達も一緒になって追いかけるものだから大渋滞を引き起こしたうえ、片方ががら空きになりそこから男が逃げ出しました。

 

 友造と呼ばれたその男の左腕には、見覚えのある龍の絵柄が彫られています。



「あいつ! あの時のカヤ場にいた奴だ!」


 聡吉は他の者達がもたついている間に友造を追って駆け出しました。


「待で蕎麦屋。おが(あんまり)、てかひかすな(でしゃばるな)て!」


 オニガワラの制止を振り切り追いかけましたが、山中で友造を見失ってしまいます。



 タアン、タアン、タン。

 バサバサ……ダシン。


 突然聞こえてきた大きな音に驚く聡吉、ちょうどすぐ側では別の杣達そまこが倒れた杉の皮を剥いでいます。


「あの、こっちに誰か来なかたっすか?」

「ああ、男がさっき峠の方に走っていったよ」


 その特徴を尋ねたところ、友造に間違いありません。

 そして峠に出ると友造はちょうど崖の向こう側にいて、こちらに気づくなり再び藪の中に入っていきました。

 その先にあるのは鉱山町や懸川地区です。


 聡吉も急いで追おうとしますが周りを見渡しても対岸に渡るための橋は見当たらず、キツネかなにかに摘ままれた気分になりました。



「正気かよ……」


 そのとき目に写ったのは、深い谷川にかかる一本の綱。


「これで、むこうに渡ったってのか……」


 対岸まではおよそ四、五間(八メートル強)あり、谷の深さは六間をゆうに超えています。

 さらに下には、岩を噛むような大伽耶川の激流が飛沫をあげながら流れているのが確認できました。



 風に揺られて軋むそれは、さながら地獄に架かる蜘蛛舞の綱。

 そこから落ちれば、ただではすまないでしょう。


 さすがに二の足を踏む聡吉でしたが、それでも躊躇している暇はありません。


 なんとも心もとなく感じるブドウ蔓の綱にしっかりと足を掛けながら両手で掴み渡ってゆきます。

 いくらも進まずまごついていると、にわかに風に煽られ横に大きく揺さぶられてしまいました。

 あせればあせるほど、時間がかかってしまいます。

 

 そうこうしながらなんとか渡りきりますが、一息つく暇もなく友造を追いかけます。

 向かった先は鉱山町か、あるいは抜け道のある山地か?

 すでに相手の姿が見えなくなってしまっている以上、手がかりになるのは藪を掻き分けて進んだと思われるわずかな痕跡だけ。



 クヌギやコナラの合間にマツやスギが交じった手つかずの山地では、足下に生い茂るシダやワラビ、ササなどが行く手を阻んで進むこともままなりません。

 

 オニガワラ達はどの辺りを捜しているのか、山本やおリン、マル蕎麦の人達は今頃どうしているのか。

 そのようなことが、絶えず森を歩く聡吉の頭の中を飛び交っていました。



 蒸し暑さと焦りで朦朧とした意識のなか、少し開けた場所に出て見つけたのは周りから頭一つ飛び抜け生えていた一本のスギの巨木とその根元にあった小さな水溜り。


 あれは、飲める水だろうか?


 不意に思い出したかのように喉の渇きに襲われた聡吉は、フキの葉で即席の柄杓を作ると降り積もったスギの枝葉でブワブワと浮わついた足下を跨ぐように歩き池に近づいていきました。


 こんこんと水が湧き出す杉の根元。コケに覆われた岩の隙間から流れ出している水を汲み上げ一口含みます。

 するとその冷たさと雑味のない澄んだ味のおかげで止まらなかった汗が引き、散漫だった意識も落ち着いて聡吉は再び冷静な判断ができるようになりました。



 そこで新たに発見したのは、踏み折られたようなスギの枝や斜面に真っ直ぐ伸びるむき出しの土肌。何者かがここに来て滑った跡です。


 そしてその先には両側に掻き分けたように薙がれた藪の新しい痕跡もありました。

 クマのような大きな動物かもしれませんが、滑った痕跡には爪跡のようなものは見られません。


 これを頼りに追ってみるしかない。


 こうして藪を掻き分けた跡を追い聡吉が山を下っていくと、今度は茂みの中からガサゴソと音が聞こえてきます。


 クマであっては大変だと息をのむ聡吉。樫の棒を持つ手に力が入ります。

 


「あんい、どでん(びっくり)した!」


 なんと現れたのは、中野のおっかあでした。

 おっかあに聞くと、友造はこちらにはきていないとのこと。


 ぱらぱらと雨も降りだしてきました。昨日のように本降りになられては厄介です。

 悪天候による視界不良のなか聡吉一人で捜索を続けることは難しく、追跡は断念する以外にありませんでした。

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