第10話 十六夜

「洗い物がすんだら、あんたもひとっ風呂行ってきな」


 亀蔵の田んぼから戻り、店の手伝いをしていた聡吉。

 おかみさんに言われ、手拭いを持って中町地区にある与左衛門よんじゃの屋敷へむかいます。



「行きたくねえな……」


 雪隠(トイレ)や風呂が一家に一つはなかった時代、この辺りでは気軽に行き来できない鉱山町と柳町遊郭にしか湯屋がありませんでしたので、村人達はこれまで川原に設置された風呂桶を共同で使用していました。

 ところがその風呂桶が先だっての大雨による増水で流されてしまったものですから行き場を失った村人達、めいめい据風呂を備えている商家や地主達を頼るより他はありません。

 冬場はどのみちそうしなければならないのですが、聡吉は与左衛門の風呂に行くのが億劫でしかたがありませんでした。

 行けば必ず嫌味を言われ、少しでも長く湯船に浸かろうものならお内儀さんから剣突をくらってしまうからです。



 重い足取りでため息をつきながら歩く中町地区の街道常盤通り。

 暮れなずむ夕陽が、かつては武家町のあった通りの黒塀を眩い焦げ茶色に染めあげていました。



「ちゃあ、ごめんください。お風呂、貸してい」


 屋敷の門前で聡吉が叫ぶと、奥の薄暗い戸口からくさい顔をした女中がいまたまたま通りかかったといった素振りで

「ああ……どうぞ」

と一言。

 そして土間の方へそそくさ戻っていきます。



 風呂場へ行くには与左衛門らがいる茶の間の前を通らねばなりません。

 猫背猫足でそろりそろりと歩いていきますと……。


「そういえばこないだ、お風呂場の手桶が壊れておりました」


 さっそくきました。笑った顔を見たことがない吊目のお内儀さんです。


 手桶なんかいつも使ってねえし。と心のなかで舌打ちをしながら聡吉は一礼をして走り去りました。



 こうしてようやくのことありつける風呂ですが、お湯はたいていぬるま湯で少なく桶の底は一家と先客の垢で滑りやすくなっています。

 明かりのない小屋のなか、身を屈めて顎まで浸かり、うとうと微睡んでいたところで女中達の声が聞こえてきました。


「昨日、いづも手習いに来られる副島のお嬢さんが峠の駕籠かきと話してるのを見ただ」

「なに、それならいつものことだ。おらも四日前に、お嬢さんが峠に行くのを見だもの。駕籠かきなんぞ頼んで、何処さ行ってらなべな」


 

 多美子がいつも通っている手習い先というのは、どうやらこの与左衛門家のようです。

 彼女は峠からどこに向かおうとしていたのでしょう?


 気になって聞き耳を立てていた聡吉でしたが、茶の間からお内儀さんの咳ばらいが聞こえてくると女中達は蜘蛛の子を散らすように仕事へ戻ってしまいました。


 小屋の煙出けぶだしから、薪の煙が勢いよく流れてゆきます。

 


 中野の飯場とギアシ、鶴松夫妻と亀蔵。


 それぞれの話を聞いてきたわけですが、昨日発見された脅迫状と直接結びつきそうな話はありませんでした。


 やはり友造かテァン衆が関わっていると考えるのが妥当ではないか。


 いずれにせよ脅迫状にあった受け渡しの指定日は二日後なので、ひとまず明日は山本のところに報告しに行こう。



 お湯につかりながら聡吉はそのように考えていましたが、それとは別にある思いも頭をもたげていました。


 それは、ギアシや亀蔵達のわだかまりをなんとかできないかという個人的な感情です。


 山本に相談をすれば下手に首を突っ込むなと釘を刺されるでしょうが、聡吉には自分と重なるところがあってどうにも放ってはおけないのです。

 彼等のもつれた関係の原因がもし誤解からきているのだとすれば、それを解くことで和解させることも可能ではないのか?

 

 などといった様々な思念が聡吉の頭の中で目まぐるしく交錯します。


 

 すると、今度は衝立の向こうからお内儀さんの節を回した清元のような大息が聞こえてきました。


 そろそろあがれという意味です。



 外は薄墨色の闇に包まれ、あたりはカエルの大合唱。

 東の空に棚引く薄雲の隙間からは、月が見え隠れしています。

 

 聡吉は灯りを持ってきてはいませんでしたが、勝手知ったる道なので迷うことなく田子橋を渡り新町地区までやって来ました。

 そしてコロリ地蔵の三又路まで来たところ。

 

 地蔵の裏から突然ひょいと飛び出してきた小さな影。現れたのは狸の様なアナグマです。 


 アナグマは聡吉を見るや一目散に茂みの方へ逃げて行きました。 


「あいつ、朝間に見たやつかな」




 このまま真っ直ぐ小蔵通りに入ればマル蕎麦に戻れるのですが、聡吉は立ち止まってふと猶予いざよい、たまには回り道もよいかと川岸通りへ入ります。


 おぼろげに霞む月を見ながら歩いていますと、提灯の灯りが一つ、長屋の方からやって来ました。

 

 女性でしょうか? 顔を見せぬよう格子柄の小袖を被衣きぬかつぎのようにして頭からかぶっています。


 むこうは灯りを持たぬ聡吉に気づいていない様子で、辺りを気にしながらカヤの生い茂る小道へと入ってゆきました。


 そして、彼女のすぐあとからやってきたのは、頬被りに股引きを履いた百姓のような出立ちをした男。

 その手足は泥まみれで、頭に被った手拭いもなんだか薄汚れています。



 彼等がむかった先は大伽耶川に通じる小道で、川原には例の風呂桶があったのですが洪水で流されたいまは残っていません。


 聡吉は直覚しました。


「ははん。こいつはきっと、逢い引きだな。面白いものが見られそうだ」

 

 茅葺き屋根に用いられるカヤは、夏になると人の背丈を越えるほどにまで成長します。

 大人が用意に身を隠すことのできるカヤ場と呼ばれるこの一帯は、若い男女が人目を忍んで逢瀬を遂げる場としても知られていました。



 助平心は健全なる大和男子の証です!


 これといった日々の楽しみがなくどこへ行っても煙たがられる十かいの身の上である聡吉からしたら、たまにこういうことでもなければやってはいかれないのです。

 期待と鼻の穴と、その他色々なものを脹らませながらニマニマ男の後についていった聡吉。

 

 ところが、その頬被りの男を待ち受けていたのはさきほどの女ではありませんでした。

 着物の胸元を大きく開け下馬付きに着流した、お世辞にも柄の良いとは言えぬ風貌の男です。


「さっきの女はどこにいったんだ?」


 がっかり肩を落とす聡吉。先に行った女の方について行けば良かったと後悔しながら退散しようとしたところ、男の一人が急に怒声をあげたので驚き慌ててカヤ原のなかに身を隠しました。

 聡吉の足下で、トノサマガエルが猛々しく声を張り上げています。



「いまさら取り止めるってえのは、どういう了見だ?」


 そう言葉を発した頬被りの男は、心中穏やかではない様子です。


「想定外のことが起きた」


 そう言い着物を着た方が腕を組んだまま左袖をたくしあげると、提灯の明かりで龍の半身が浮かび上がりました。


 それを見た聡吉は来なければよかったと後悔しましたが、いま帰ろうとして見つかってしまえばそれこそことだと、彼等がいなくなるまでその場に居続けることにしました。


 そんな聡吉のことなど一切存ぜぬ頬被りの男は、片足を投げ出し話を聞く彫り物の男に

「全部手筈どおりだろう? あんたから話を持ち出されてから、こっちはずっと準備してきたんだ。それを取りやめだなんて……連中にはなんていえばいい?」

と不満をぶつけます。


 彫り物の男は頬被りの男に背を向け答えました。


「連中には俺に騙されたとでも言っておけ。とにかく計画は取り止めだ」


 それを聞いた頬被りの男はなおも納得がいかぬようでしたが、彫り物の男は他にも回るところがあるといって一方的に話を切り上げその場から去ってしまいます。


 取り残された頬被りの男は、彫り物の男の跡を追うように通りへと走り出て

「あんたがやらんでも、オレ達はやるからな!」

と叫びながら地団駄を踏み、最終的に彫り物の男がむかった方角とは逆の方へ帰っていきました。

 

 

 やれやれ、ようやく解放されたと胸を撫で下ろす聡吉。


 そろそろいいだろうと頃合いを見てカヤの中から出ようとしたところ、今度は向かいのカヤ原からガサガサッと音が……。


 思わず叫びそうになって身構えますが、なんのことはない、またあの狸の様なアナグマです。

 

 アナグマは聡吉に気が付くと、慌てた様子で走り去ってゆきました。


 その時ふと聡吉の頭をよぎったのは、今朝オニガワラが叫んでいたムジナに騙された、というあの言葉。


「まさかあの女……」


 みちのくの山村は、初夏といえども朝晩が冷え込みます。


 止まらぬ震えは湯冷めのせいだろうと思いながら淡黄に輝く月の下、聡吉は帰路につくのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る