第9話 私憤

 ひらひらと川面に瞬く薄縹。 

 凝灰岩の白くのっぺりとした岩肌の上を、翠色の灯芯が揺らめいていました。


 別所村の周囲を蛇行して流れる大伽耶川は、盗賊沢や金洗沢、ガニ沢が合流すると一気に水量を増し新町地区の北端に聳える立瀬山の山腹にぶつかって北東へと流路を変えます。


 その曲がり角にあるマガリ淵で釣糸をたらしていた村の太公望、今日は籠瓮かっこべ(魚を入れる籠)からはみ出るほどに魚を釣りあげご満悦の様子。

 


ないだこのクギザッコ(ウグイ)だば、背中へながひしゃげでら(曲がっている)ねが」


 などと釣った魚にケチをつけている間に、岩場に置かれた籠瓮に黒い影が忍び寄ります。

 

 不意に数匹のイトトンボが飛び立ち、その気配に気がついた老人でしたが時すでに遅し。


「こりゃ、待でえ!」



 魚を咥え逃げるアナグマを追いかける老人。

 そこへ聡吉達がやってきました。


「捕まえでけれえ!」


 叫ぶ老人を見て状況が飲み込めた聡吉、おもむろに足下に転がっていた石を拾いあげるとアナグマめがけて投げつけます。


「ギャフン!」


 石はアナグマのなずぎに見事命中。


 アナグマは咥えていた魚を落としながらも藪に飛び込み、命からがら逃げ延びました。


 魚を取り戻した老人は大喜びで聡吉に駆け寄ります。


「いやあ、助かった。まったぐ、あのムジナ(アナグマ)なば……ん? 亀蔵の田? ああ、そんならこの道を真っ直ぐ行げばいい」


 そういわれるがままに向かった先にあったのは、懸川地区にある谷間の小さな谷戸田。



 その黒い水田の前で立ち尽くしていた初老の男が、雁爪がんづめ(除草用の鉤爪)を握りしめため息混じりに呟きました。


「今年の稲は全滅だ」


 見ると黒く変色した稲は折れて枯れ果て、ヘドロが残る田からは悪臭が立ちこめています。


 雪解けから続く天候不良、もう二月ふたつきも降り止まないでいた長雨。

 特に先日の大雨では、大伽耶川沿岸の広大な田畑が洪水による被害を受けました。



「あなたが、広仲亀蔵さんですか?」

「そうだが、何の用だ?」


 初対面の相手を前に舌っ足らずな聡吉では難があったため、ここへきた理由をおリンがかいつまんで説明します。



「こうなったのも全部鉱山のせいだ。奴等は、あの山は……わしから跡取り息子を奪っただけでは足りずに、代々守り続けたこの田も奪うつもりなのだ!」


 憎しみをたたえた彼の瞳は目の前に聳える薄灰色のズリ山と真っ黒いカス山の奥、金洗沢の対岸に設置された木柵のさらにむこうにある製錬施設を見据えていました。


「どうしてそんなに鉱山を目の敵にするんだ? 巳年の飢渇けかち(天保の飢饉)の時には、鉱山に納める炭焼のおかげで多くの百姓が救われたっていうじゃないか。この村でもそうだろう?」

「それは昔の話で今は違う。御一新で頭がすげ替わってから、奴等は南蛮の鬼とつるみはじめた。洪水の度に田が黒くなるのは前からだったが、酷くなったのは異人共があんな妙な物を建てたからだ」

「証拠はあるのか?」

「有る」


 聡吉の問いに亀蔵は即答します。


 そしてこの田に用水が注ぎ込む金洗沢の上手、ズリ山とカス山に通じる運搬用の丸太橋を指差しこう言い放ちました。



「あの橋の下には水門がある。柵の向こうにある沈澱池の水門だ。大雨の降った大風(台風)の晩に、わしは見た。ギアシが……中野の奴等が、橋に集まっていたのを……」


 恨めしそうな亀蔵の表情を見ていると、聡吉も怒りが込み上げてきます。

 胸中に浮かぶのは過去に囚われ怒りにまかせ、声を荒らげさえすれば周りの人間を思い通りに動かせるなどと僻目していたあの男……。


「だからって……製錬所を打ち壊したり、脅迫状を叩きつけたりすることが……許されるとでも思っているのか?」



 そう、全てのものが己のために存在しているのだなどという、謬見に満ちた思い上がりをしていたあの男を思い出し……。


 声音がみるみる気色ばんてゆく聡吉をはん、と笑い飛ばした亀蔵は不適な笑みを浮かべます。



「敵と戦うのに、お前はなにを使う。脅しか? それとも匕首か? あの鉱山はな、そんな生半可なことではびくともしね。わしはこれだ」


 そう言い、亀蔵が出して見せたのは一通の願状。それにはこのようなことが書かれていました。

 


 大伽耶川沿岸ノ百姓ヨリ願申出候。

 奥羽別所鉱山ノ採鉱製錬ニヒテ生ズ毒水ノ被害ハ甚ダ酷ク、水呑百姓気息奄奄、これニ耐ヘ兼ネ居候。何卒広太ノ御慈悲ヲもって、右難儀ノ始末、乍恐以書付奉願上候おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそろ


 

 そもそも原因自体が毒水なのかもわからないなかで、調査という前段階を差し置いてただただ窮状を訴える、具体的な要望すらなにも書かれていなかったこの文書。


 聡吉は

「上手くいくわけがない」

と断じますが、亀蔵は

「近隣の村々から承諾を得る。連名で訴えるのだ」

とあくまでも鉱山側と争うつもりいるようです。



「あんたを見ていたらさ、思い出したくもないクソ親父のことを思い出しちまったよ。たいして米の穫れやしない田んぼなんか、本人がやりたくないと言っているんだから押し付けるなよ。息子を奪っただと? あんたの息子は自分の意思で鉱山に行ったんだ。それを、よりにもよって……当人からしたらな、勝手に逆怨みのネタにされたらえらい迷惑なんだよ」

「キサマになにがわかる? よりによって奴の娘なんぞと……鉱山に騙され、あの娘にも唆され……」


 そんな亀蔵の言葉に、今度はおリンが上気しました。


「ちょっと待ちなさいよ。唆されたって、どういうこと? 唆されたのはおナツさんの方でしょう? 女は嫁ぎ先を選べないんだからね」


 おナツのおかれた現状を慮れば、看過できなかったのも無理はありません。。

 しかし、怒りで周りが見えなくなっているいまの亀蔵には、そうした彼女の憤りもとうてい許容できるものではありませんでした。


「ええい、小愛こやらしぐえ(憎たらしい)童子共わらしどもめ。帰れ!」


 声をあげる亀蔵に心の中で舌を出し、聡吉達はその場をあとにします。


 

 ついカッとなってしまい最後は物別れのようになってしまいましたが、聡吉は帰りの畦道で冷静になって立ちかえりました。


 亀蔵が鉱山にたいして訴えでる気でいるとすれば、その前に脅迫状を出して金銭を要求するのはおかしい。

 打ち壊しの件はともかく、脅迫状の件に関しては少なくとも彼は関わっていないとみて間違いないでしょう。


 けっきょく有力な情報はここでも手に入れる事はできませんでした。


 曲がりくねった畦道を、足駄を履いたおリンが飛び跳ねるようにして器用に渡っていきます。

 葦の葉の隙間から、まだ羽の生えぬキリギリスが薄曇りの空をめがけ跳ねあがりました。

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