第7話 蝸牛角上の争い
湯気に混ざって辺りに立ちこめる芳醇な香り。竈にかけた囲炉裏鍋に蕎麦が踊ります。
脇に鎮座する竹製のつゆ入れには、水あめのまろやかな甘みとシイタケの香りがたつ生がえしの辛汁がたっぷり。
隣に添えられた薬味とともに、いまかいまかと真打ちの登場を待ち構えていました。
「開店前なのに、なんでお前は来てんだ?」
「なんでって、あなたの練習に付き合ってあげてるんじゃない」
聡吉は不満げな顔で
「んで、味はどうなんだ?」
ちゅるちゅるとたどたどしく蕎麦を啜るおリンは、うんと唸りながら一丁前に腕組みをして答えました。
「んー、まだまだね。じゅんちゃんの味には程遠いわ。性格が出てるのよ。なんて言うか、味が雑」
つっけんどんに言われて腹が立った聡吉は
「人を見て言いやがって、そんなの印象の違いだろ? 粉と水、つなぎの
と反論しますが、おリンは確たる証拠があると言い聡吉を指差します。
「水回しのときについた粉が手に残っているわ。じゅんちゃんの手はいつも綺麗だもの。それにここからちらっと見えたけど、使った道具もそのままだったわ」
手について乾いた粉が生地に混ざると、ぼそぼそと蕎麦が切れて口当たりが悪くなる原因となります。
道具も使ったらその都度かたずけ、一つ一つの動作に気を配る。
彼女がそのことを知っていたかどうかは別として、的を得た指摘に聡吉はぐうの音も出ませんでした。
そこへ追い討ちをかけるようにして、板の間から賛辞の声があがります。
「いやあ、おリンちゃん、さすがだわあ」
「そば打ちにならないか?」
ぼそりと発せられたじゅんちゃんの一言は、あながち冗談でもなさそうでした。
「くそ……偉っそうに……」
おかみさん達から称賛され、まんざらでもない様子のおリンを見た聡吉は怒り心頭。
叩き返してやろうと握り締めた五厘の蕎麦代は、思いとどまりけっきょく帳場にあった銭函の中へと収まります。
グツグツと沸騰する鍋のお湯。板の間から聞こえてくる規則正しい包丁の音。ちゅるちゅるというおリンが蕎麦を啜る音。
それらが虚しく店内に響いていました。
「さ、お腹もいっぱいになったことだし、そろそろ行きますか」
なんだかんだ言いながら最後の蕎麦湯までしっかり飲み干したおリンは、おもむろに床几から立ち上がります。
「どこへいくんだ?」
「おナツさんところに決まっているじゃない。確たる証拠を掴みにいくのよ」
おリンはの表情はそのために来たのだと言わんばかり。
「なんでお前が仕切ってるんだよ」
納得のいかない様子で聡吉が不満を漏らすと、おリンはくるりと踵を返し
「言い出しっぺは、わたしよ!」
と親指で自らの顔を指し示して、見得をきってみせました。
マル蕎麦が店を構える別所村新町小蔵通りは、街道のある東の新町本通りから一つ入ったところにあって小規模な店が建ち並ぶ閑静な区域です。
少し南に歩けば新町地区の東西を貫く樽辺通りと交わる十字の辻(交差点)に、そこをまっすぐ南へ西洋通りを突っ切っていくと、製錬施設のある懸川地区へとたどり着きます。
「ねえ、見て見て、これ市川五右衛門とおそろいのやつなんだ」
おリンはそう言うと、贔屓の歌舞伎役者と同じ格子柄の着物を見せびらかしながら聡吉の目の前でくるりとまわって見せました。
しかし着物にも歌舞伎にも興味のない聡吉にはその良さがちっともわかりません。
仏頂面で歩く聡吉とは対照的に、おリンは手にした巾着袋をぶらぶらさせいつになく上機嫌です。
なぜなら一週間後に行楽座で行われる歌舞伎を父と観に行く予定でいたからでした。
村唯一の芝居小屋である行楽座は、駒政の加工場や内国通運会社などの大きな建物が集中する通りの辻にあります。
行楽座ができたのは一昨年のことですが、娯楽の少ない田舎にあって杮落しの際にははるばる県外からも客が来る程の大変な賑わいでした。
行楽座のある小蔵通りも芝居目当てにやって来た旦那衆相手に旅籠や芝居茶屋、仕出し屋などが次々と建ち殷賑を極めましたが、その賑わいも虎列刺が流行りだすと一変します。
芝居小屋にはどさ廻りの一座が来なくなり公演数が激減、さらに芝居で成り立っていた通りの店も苦境に立たせれてしまいました。
近隣にあって恩恵を受けていたマル蕎麦も当然のことながら対岸の火事では済まされず、客の入りが目に見えて少なくなってしまいます。
そんな皆が下を向くような状況下で、真っ先に立ち上がったのが行楽座を拠点とする地歌舞伎の一座でした。
一週間後の鉱山祭りの日に合わせ、感染対策を万全とした上でこのたび公演をとり決めたのです。
さあこうなると、その日に寄せる人々の期待はいやがおうにも膨れ上がります。
さらにその地歌舞伎の二枚目を務めるのがほかならぬ市川五右衛門とくればなおさらのこと。おリンの推し心にも火が付きました。
彼等の心意気に応えねば!
おリンがこよなく推し通す市川五右衛門というのは大層評判の色男で、できてまもない芝居小屋で一座の存在すらまだあまり知られていないにもかかわらず、すでに彼の噂は他県にまで及んでいます。
その推しも推されぬ人気ぶりは、地元の業者が洒落で彼に因んだ品を売り出せば即完売してしまうほどで、今回の公演も始まればこうした贔屓の客で大入りになるに違いありません。
「五右衛門の勧進帳、楽しみだなあ」
芝居小屋の看板絵に描かれた五右衛門を眺めながら、だらしなく頬を緩ませ歩くおリン。
その姿をなんとも不快な思いで見ていた聡吉は、辛抱ならず先程のお返しとばかりに毒づきました。
「けっ……このまま祭りが中止になれば、歌舞伎の方も中止になるだろうよ」
おリンはこれにすぐさま反応します。
「この、わたしが……そんなことにはさせないわ!」
彼女の物凄い剣幕を見て、聡吉ははたと気がつきました。
「まさかお前、そのために犯人捜しを……」
「な、なんのことかしら」
聡吉達が歩くすぐ横を荷馬車が土埃をあげて通りすぎていきます。
聡吉から顔をそむけ、そそくさと歩きだしたおリン。
十字の辻を西に曲がって柳町地区に通じる思案橋ほとりに人だかりを見つけるとこれ幸いとばかり
「なにかしら、いってみましょう」
と駆け出しました。
うまく話を打ちきられたなと思いながら、叫び声の聞こえる川の方を覗きこむ聡吉でしたが……。
「オニガワラ!」
なんと川にはまってずぶ濡れになりながら叫んでいたのは小川原巡査でした。したたか飲んでいたせいか足元がおぼつかない様子です。
「ちょっ……朝まっから
厳密にいえば職務質問ではありません。
巡査は昨日、仕事が終わってから飲みに出かけ、そこで
彼に落ち度は全く無いのですが、この状況だけで見ると如何にも体裁が悪い。
普段から彼に横暴な態度をとられて悔しい思いをしていた聡吉には、これが可笑しくてたまりませんでした。
「
大衆の面前で恥をかいた巡査がそれを誤魔化すためにムジナだのと出まかせを、そう思うと聡吉は余計に笑えてきてしまいついには欄干にもたれかかってしまいます。
しかし、人々の心の中に妖怪変化が当たり前に存在していたこの時代、聡吉のように巡査の言葉を疑う者はほとんどいませんでした。
「花街が出来る前まで、柳町の辺りはアシがぼうぼうに生い茂る湿地じゃった。ムジナに騙されるなんぞしょっちゅうじゃったわい」
見返り柳のそばで野次馬をしていた丁髷頭の老人が呟くのをよそに、なおも笑いをこらえ続ける聡吉。
「ねえ、笑ってないで助けてあげたら?」
おリンに諌められて、しぶしぶ聡吉が他の者達の手も借りながら巡査を川から引き上げます。
すると、巡査はおリンを指差し
「あ、あ……ムジナ、ムジナ……」
と急に狼狽しはじめました。
「へ? なに、わたし? 急になにを言い出すのよ、この酔っぱらいは。誰がムジナよ。失礼しちゃうわ!」
おリンが怒ってその場を去ろうとしたので、聡吉が慌てて追いかけます。
川沿いに面したでこぼこ道の両側に軒を連ねているのは、等間隔に重石を乗せた杉皮葺きの粗末な棟割り長屋。
異臭が立ち込める浅いむき出しのどぶ溝の横を、鼻を滴しながら裸で走り回る子供達。その足下を、ニワトリが早足で駆け抜けていきます。
おナツが住むこの新町川岸通りの長屋には、仕事を求めて近隣集落からやってきた日雇い人足や店を持たない商売人など様々な人々が暮らしていました。
聡吉達がやって来たのは朝飯前で、ちょうど人々が外に出てきて各々煮炊きをはじめるところ。
棟割り長屋なので、家の中はお隣同士が天井のない粗塗り壁で仕切られているだけです。
一棟十戸の上部は端から端まで吹き抜けなものですから、誰かが家の中で七輪を炊こうものなら棟中が煙で燻製になってしまう。
そんなわけで煮炊はもっぱら外が基本です。雨の日は別ですが、晴れたときにはこうしてぞろぞろみんなで外に出て、七輪の前で団扇をパタパタやるのが日常の光景でした。
住人達の目を気にしながら二人が通りを歩いていると、道端にあった掘立小屋の板戸から生首がぬうっ。
驚いたおリンが飛び退き、聡吉が目を白黒させると
「何見てんだい」
と、へんち(共用のお手洗)で用を足していた老婆が二人を睨みます。
軽く会釈し早足で過ぎ去ろうとしたそのとき、その先にあるおナツの家の方から叫び声があがりました。
近所の者達も集まって、なにが起きたのかとその様子を見守っいます。
「あれって……百一の我助じゃない」
なかから現れた男を見て、おリンが驚きの声をあげました。
「金貸しかよ」
どうやらおナツの家は取り立ての真っ最中のようで、けたたましい怒声や物の壊れる音がこちらにまで聞こえてきます。
よほどの変わり者でもない限り、好きこのんで騒動に巻き込まれたいと思う人間はいないでしょう。
「そういえばお前……言い出しっぺだったよな?」
「無理」
言い出しっぺというのは、たいてい口は出しますが自ら動こうとはしないもの。
「行かないならお前、背中にナメクジ入れるぞ」
「ぐ……わたしだって、あなたの背中にカメムシ入れるわよ」
「カメ……お前、ほんとタチ悪いな」
顔をひきつらせながら互いに牽制しあう聡吉とおリン。
行かぬなら、泣かせてやるぞ、いやがらせ。
不利益を被らせてまで相手を言いなりにさせようとするより、意外と自分から動く方が早かったりするものですが……。
二人でいけば良いものを、じたばたと見苦しい争いを続けるばかりでいつまでたっても踏み出せずにいる二人なのでした。
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