第3話 懸川地区の亡霊

 「脅迫状を送りつけられた主任の娘が、こんなところをほっつき歩いて呑気なもんだな。まあ、主任殿ともなれば、千円なんてはした金なのかもな……」


 脅迫状で犯人が要求してきた金額は、千円という大金でした。


 一円が百銭、一銭が十厘です。


 一杯五厘の蕎麦を、いったい何杯売ったらそれほどのお金を稼げるのでしょう?

 きょうび東京では八厘、県下でも七厘はする蕎麦切りですが、聡吉が働くマル蕎麦では開業当時からの価格である五厘を守り通しているのでした。



「千円なんて金がありゃあ、えっしゃっしゃ……。土地買って、金貸して、でっかい家建てて、そんでもって毎日女に酒に鯛のお頭とくりゃあ、もうたまんねえな!」


 真昼間から捕らぬ狸の皮算用。しなびれた大根片手にヨダレを滴しながら語る聡吉の野望は止まるところを知りません。



 このご時世、金に目が眩んだ愚か者が脅迫状を送りつけたに違いないと聡吉は睨んでいました。

 内と外の両門鑑は、夜間は閉めきられるので誰も通ることはできません。


 脅迫状は早朝、鉱山町の出入口である内門鑑に投書されていたらしいので、少なくとも別所村の人間ではない。

 選鉱、製錬施設で働く労働者達は夕方になると皆引き上げて、この懸川地区には人っ子一人いなくなる。

 前日の夜のうちに投書されたのだとすれば、下手人は間違いなく鉱山町の人間ということになる。


 というのが聡吉の読みであり、町でお金に困った人間を探して問い詰めればこの件はすぐに解決するだろうと彼は考えていたのでした。

 そして、そうした捜査を担う者こそがこれから訪ねる山本のような巡視と呼ばれる人々なのです。



 青黒い蛇のようにうねりながら流れる金洗沢は、赤毛山のところでいったん大きく右へ流路を変えたあとで、鉱石庫裏手の大沢山のところで再び折り返してコの字型に流れています。


 川にかかる直利橋を渡ると、選鉱所の脇でわっぱ弁当を広げて談笑している女工達の姿が目に写りました。



「今夜も出るんでねえべか」

「あや、おらんだその話」


 肘を曲げて両手の甲を胸の前に揃えて出してみせる中年女工を見て、周りの若い女工達は皆眉を寄せています。


「あの、すんません。ちょっといいすか?」


 割り込もうとする聡吉でしたが、彼等は話に夢中で気づいていないようです。



「なあに、トロ押しの話なの、嘘に決まってるべし」


 トロ押しから聞いたという幽霊の噂は女工達からいまいち信用されていませんでしたが、先ほどから黙って話を聞いていた古株の女工が

「その女子おなごの幽霊なら、おらも見たことあるだ。たしか格子柄の着物だったな……」

と相づちを打つと一変、他の女工達は顔面蒼白となって弁当をつつく箸が止まりました。


「い、いるわけねえべさ……ここには部外者は入ってこれねえだ」



 さて、一同お通夜のようになったいまが話に加わる好機です。


「部外者の女子おなごだったら、さっき主任の娘さんを見かけたんだけど」

「ああ、お多美さんならギアシさ会いに来たんだべ。しょっちゅうだ……って、なにあんつぁ? いつの間に来ただ?」


 突然話に割り込まれて驚く女工達に構うことなく、大根を持った部外者は話を続けます。



「そのギアシってのは、製錬所で働いているの?」

「え、ああ、義足ぎそくを着けた片足の元鉱夫で、いまは沈澱池のドロコ揚げをしているだ」

「しょっちゅう会って、なにしてるの?」

「なんも、ただ話コして帰るだけよ。あの二人、デキてるだ」

「ええ! あんただよぼよぼのじさま、おらだばんだ」


 多美子嬢と同い年くらいの若い女工が顔をしかめると、隣にいた中年女工が

「お多美さんなら、このたび縁談が決まったみたいだなや」

と言い周囲を驚かせました。



「それは初耳だ、相手は誰よ?」

「たしか、海軍の少尉さんだった」

「ハア……いいなや。おらも嫁コさいきて、こんただ暮らしはもうんか……」


 溜め息をつく一同。


ぜんコ欲しな、ぜんコ……」



 選鉱女工はそれほど貰いが少ないのでしょうか?


 彼女らの弁当には、たっぷり詰まった麦飯の上に焼いた塩鮭の切身まで乗っています。

 聡吉は大根一本。


 お給金も虎列刺が流行りだしてからは滞ったままでした。



 おかみさんは厳しい人ですし、じゅんちゃんも無口でなにを考えているのかわかりません。

 そばの打ち方にしても、聡吉は彼に手取り足取り教わったわけではなく見様見真似で覚えたのです。


 聡吉はちょうど店を辞めたいと思っていたところでした。



「そういえば、あにさはなにしにきただ?」

「ああ、鉱山町に金に困ってそうなやついないかなって。誰か知らない?」


 坪井から口止めされている関係上、直接聞くことは憚られたのでそれとなく聡吉は聞きました。


「ああ、それだったら……」



 ここで鉱山に恩を売っておけば、あわよくば選鉱夫あたりで使ってもらえるのではないか?

 

 そんな淡い希望と大根の葉を握りしめながら、聡吉は麦飯を頬張る女工達を眺めます。



あにさ、ぜんコあるならおらにも貸してい!」


 貸してほしいのはこちらの方だと思いながら、聡吉は彼女等の話を笑ってはぐらかし内門鑑へと向かうのでした。

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