第2話 一山は一国たるべし
両脇に水捌けを良くするための溝を掘り、平らにならされた馬も通れる広い道。
左手には真新しい木造の警察別所分署や官員官舎などが建ち、反対側には貴重な赤煉瓦をふんだんに使用して建てられたコロニアル様式の異人館(外国人官舎)が二棟と、和洋併設の小洒落た擬洋風木造二階建て主任官舎が見えます。
辺鄙な山奥の村に突如として現れた別天地のようなこの通りを、人々は西洋通りと親しみを込めて呼んでいました。
主任官舎の奥隣、別所村の地区と地区を隔てる
物々しい鉄柵に守られた敷地内には、全面に
そして、その傍らにはオオシマザクラの老木が悠然とたたずみ、芽吹いたばかりの輝く新緑を初夏の風になびかせていました。
「なんだお
門柱に鉱山局別所分局の大看板を掲げた
大伽耶川に架かる永島橋の前に設けられた
実際には存在しない巡査頭なる役職を自称する小川原巡査は、その住民にたいする傲慢で高圧的な態度と、大きくえらが張ってゴツゴツとした顔立ちや偉丈夫から、オニガワラというあだ名で呼ばれていました。
「その
オニガワラは肩を聳やかして白木の長柄をトントン地面に打ちつけながら、鼻の下についた板海苔のような髭をむずむずさせ聡吉を睨みつけます。
鉱山町で一般鉱夫相手に商売ができるのは、ひと月のうちでも三と五のつく市の日だけで、場所も山神神社前の広場と決められています。
それ以外のときには、たとえ大根一本でも売ることは許されないのです。
そうした物の出入り、そしてケツワリ(脱走)のような人の出入りを厳しく取り締まるために、山に囲まれた鉱山町と唯一隣接するここ別所村との間には門鑑と呼ばれる関所が二ヶ所設けられていて、南の鉱山町側にある内門鑑を鉱山分局の巡視が、北の別所村側にある外門鑑を警察が見張っているのでした。
聡吉がこれから会いにいこうとしているのは、内門監にいる
マル蕎麦の常連で、放浪の身であった聡吉に蕎麦屋の仕事を紹介してくれた恩人でもあります。
聡吉は大根のあまり辛くない先の方にかぶりつき、口をシャクシャクさせながら答えました。
一口食べてしまえば、売り物にはならないからです。
「これは、おらの
「
「はあ」
相変わらずの物言いにむっとした聡吉でしたが、最終的には
ただその話を今してしまうと、たちまちてかひかするな(でしゃばるな)と追い払われてしまうのが関の山。
門をくぐれば別世界。
聡吉の眼前にあるのは、かつて一山は一国たるべし他の指揮に及ばずと山例五十三ヶ条に記され、いまもなお独自の法が存在しているこの国の中の異国です。
警察をやり過ごし異国に足を踏み入れた聡吉は、大伽耶川源流の一つである金洗沢の渓谷をひたすら上流に向かって南に歩いて行きました。
狭い道の中央には鉱山の各坑口からここ懸川地区の選鉱、製錬各施設、また新町地区西洋通りにある貯鉱場までを繋ぐ
「今日は風もなく、一日晴れそうだな」
目前に迫る赤毛山から真っ直ぐたちのぼる白煙を見て聡吉が呟きました。
剥き出しになった赤土の斜面から煙が出ているのは火事ではなく、熔鉱炉から発生した煙を逃がすための煙道と煙突が土中に埋め込まれているからです。
赤毛山の裾を流れるタライ沢の銀のせせらぎは、猫の額ほどの土地に所狭しと建ち並ぶ製錬施設の隙間を縫うように流れて下の金洗沢へと合流します。
おっと、上ばかりを気にして歩いていてはいけません。
なぜならこの道には鉱石運搬のために
別所鉱山は以前は藩直営でしたが、明治になって政府管轄の官営鉱山となると、近代化のために中央から御雇い外国人技師と官吏達が派遣され、蒸気機関を使った各施設や採鉱、選鉱、製錬、仕上げまでの全工程に関わる施設を一本の軌道で繋ぎ搬送を効率化するなど、最新式の技術を導入して大改革が行われました。
谷間の地形を利用して新たに懸川地区に建てられた大規模な選鉱、製錬施設では人手が大量に必要となり、鉱山町だけでは足りない労働力を近隣農村にも求めるようになります。
別所村にはそうした労働者の暮らす長屋が次々と建てられ、村の人口はここ数年で急速に増えていきました。
山の話をされたところでなんのことやらなマル蕎麦の人達にも、ようやくその恩恵がめぐってこようとしていた矢先に広まった昨今の虎列刺と天候不順です。
今年は長雨の影響から、間違いなく米が不作となるでしょう。
価格の高騰で米が手に入らなくなると、人々の需要は蕎麦を含めた他の穀物の方へと流れてゆきます。
蕎麦の原価が上がるであろうこの状況下で、虎列刺による客入りの減に加え、頼みの綱であった祭りまでもが中止となるやもしれないのです。
おかみさんが声を荒らげるのも無理はないことなのでした。
左手に迫る山々と右手を流れる金洗沢との間には、煉瓦造りの煙突が突き出た木造の製錬各施設がところせましと建ち並び、沢の付近には廃石を積み上げてできた薄灰色のズリ山と鉱滓が積み重なってできた真っ黒なカス山が見えます。
聡吉が軌道の上をひょこひょこ歩いていると、ちょうど分析所の方から日傘を持つ女性がやってきました。
高島田に
「ごきげん姉ちゃん……」
そう、彼女は先ほど駒政のおリンから話しかけられていた、ごきげん姉ちゃんこと副島多美子嬢です。
彼女はおリンと同い年の親友で、一家で村に来る前は東京の竹橋女学校(東京女学校)に通っていました。
語学に長けた彼女は、御雇いの外国人坑夫から通訳を頼まれるほどの才女なのですが、どういうわけだか出会ったときにも別れるときにも、また、病めるときにも健やかなるときにも、誰にたいしても必ずごきげんようと言うので、聡吉は承認なしに彼女のことをごきげん姉ちゃんと呼んでいるのです。
急いでいたのでしょうか、彼女は聡吉に気がつかずに行ってしまいました。
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