マルキそば屋準備中

古出 新 (休止中)

第1話  序

「武士になれ、お前は侍の子なんだ」


 赤銅色をした怨嗟の炎が、男の顔を赤黒く浮かびあがらせました。

 大きく裂目のはいった掘っ建て小屋の支柱は、吹き付ける風雪にあおられ悲鳴のように軋めく音をたてています。



「うるせえよ。お前のせいで母ちゃんが死んだんだ。キュウニンだかジュウニンだか知らないが、大昔の話だろう? いい加減に今を受け入れたらどうなんだ」


 土間に立つ少年は、囲炉裏端で火にかじりつく男の背中をじっと睨みつけて言いました。

 板戸の隙間から入ってくる冷たい風が、少年のまだ柔らかい肌を切りつけるようにして流れてゆきます。



「いまに戦が始まるぞ。俺達が、木崎家が、ようやく武士に戻れるときがきたんだ……」


 背を向けた男の表情を伺い知ることはできませんが、少年には彼がドロンとすわった目をして歪んだ笑みを浮かべているのが解りました。

 いつもああして浴びるほどに酒を飲んでは、男が嬉しそうにではなく悔しそうにして口の端を曲げているのを傍らで見ていたからです。


 少年は男のその顔が嫌で嫌で仕方がありませんでした。



「そんなふうに助平根性だして一揆なんかに加わったから家が滅んだんだろう。武士になりたけりゃ、お前一人で勝手になれよ」


 そう唾棄するように男の背中に吐きかけると、少年は雪が渦を巻いて吹き込む戸口の外側に広がる闇の中へその小さな身を投じ旅立つのでありました。


 戊辰の役がはじまる五年前の、ある吹雪の夜のことです。



 それから時代は変わり、明治十一年1878ねんの初夏。


 目まぐるしく移ろう世の中に合わせるようにして、北国の季節もまた雪に花に緑に雨にと追い立てられるように慌ただしく色を変えていました。


 南州翁(西郷隆盛)や甲東大久保公(大久保利通)といった維新の立役者達が次々とこの世を去るのを惜しむかのごとく、今年の雨はいつまでも止むことなく続いていましたが、この日はどうやら待望の晴れ間がやってきそうな空模様です。


 朝露輝くブナの林ではテッペンカケタカとホトトギスが鳴き、凝灰岩の岩肌に根をはるクヌギの枝葉で羽を休めていたハルゼミ達が、これまでの鬱憤を晴らさんと朝早くから発声練習に勤しんでいる様子。

 

 久しぶりの晴天に活動を活発化させるのは人もまた同じで、ここ別所鉱山にある製錬所の沈澱池では、降り続いた雨でいっぱいになった鉱滓こうかすのヘドロを汲み出すドロコ上げの作業が急調子で行われていました。



「おい、聞いたか? 昨日、備前のところにいた友造がケツワリ(脱走)したって」

「ああ、なんでもケツワリのトモってあだ名までつけられていた常習犯らしいな」


 金子かねこ(請負業者)である中野の飯場が、工部省の別所鉱山分局から一人一日二十銭の手間賃で請け負っているこのドロコ上げ作業は大変な重労働で、夏は熱と湿気で蒸せかえり、冬などは氷の張った池に入らなければならないので、誰もやりたがらない仕事です。


 この日もまた朝から強い日射しが照りつけ、池はすでにムンとした湿気で息ができないほどになっていました。

 これではとてもでないが仕事にならないと、舎弟しゃでえ等は兄分しぇなぶんの居ぬ間にギアシ一人を残し、各々仕事の手を止めて雑談をはじめます。


 そしてその間に話題の方も、一週間後に迫った山神神社の祭典の話に変わっていました。

 


「今年は虎列刺ころり(コレラ)でお祭りやらえねがど思ったども、どうやらやるらしいな」

「んだ、がった」

「しっかし、虎列刺だばおっかね。西南の役に参加した連中も、とんでもねえお土産背負って帰ってきたもんだ」


 明治十一年1878ねんは、謎の奇病として恐れられていた虎列刺が全国的に蔓延した年でもあります。

 治療法が確立していなかったこの時代、できることといえば予防策のみで、それも消毒をする、できるだけ人との接触を避ける等といった基本的なことばかりでした。


 

「それにしても、腹減ったなや。早く昼間の鐘、鳴らねえがなあっしょ」

「詰所の連中、鳴らすの忘れでらなでねえが?」


 冗談を言い笑い合う同役どやぐ達をよそに、ギアシは一人黙々と作業を続けています。

 

 と、そこへ現場を離れていた兄分しぇなぶんが、血相を変えて沈澱池へ駆け戻ってきました。


「大変だ!」



 その大変な事件の急報は、さっそく鉱山町の山神神社境内長床にある組合役場(町役場)にももたらされます。

 役場では、お偉いさん方が集まりちょうど祭典についての話し合いをしていたところでした。



「ちゃあ! ちゃあ! マル蕎麦でぇい!」


 杉木立に囲まれた神社の境内は、昼なお静かでひんやりとしていています。

 聡吉の金切り声は、他に遮るものもなく境内の隅々にまで響きました。


 ちょうど昼間の寄合になるので、終わった後に皆で昼食をと、別所村にある人気のそば茶屋マル蕎麦に出張を依頼していた町の書記役。

 すっかりそのことを忘れているのか、蕎麦の道具を持参し聡吉が長床の入り口前で大声で叫んでいるのに返事一つかえってきません。



「まだ会合中かな?」


 入り口にかかるきざはしの周りには、値のはりそうな雪駄やら塗り靴などがずらりと並んでいます。

 聡吉は一先ず担いできた屋台を下ろして草鞋を脱ぐと、ぺたぺたと階をあがっていき戸口の前で立ち止まりました。


 そして額の汗を手拭いで拭いたあとで、大きく息を吸い込み

「ちゃ……」

と言いかけたのですが、中から脅迫状という不穏な話し声が聞こえてきたので、思わず聞き耳を立ててしまいます。



 この日、集まっていたのは、主任の副島逸太そえじまいつたや技術主任の真木まきをはじめとした工部省別所鉱山分局の官吏達と警察、それに役場の関係者や神社の祠官しかん(神主)といったお偉方。


 穏やかではない話の内容は、匿名で三日後の朝に峠近くの観音堂までお金を持って来なければ、来週行われる山神神社の祭典を妨害する旨が書かれた脅迫状が届いたというものでした。



 大変なことになったと聡吉が口を開けたまま固まっていると、長床から出てきた書記役の坪井が聡吉を見つけ

「ああ、そば屋か。すまないが、蕎麦どころではなくなったので帰ってくれ」

と言いました。


 事情を知ってしまった聡吉も、これには返す言葉もなくただへえ、と答えるしかありません。

 そして

「ああ、この話はくれぐれも口外せぬように」

と釘を刺され、店へ空戻りすることになりました。



 沢に沿って続く山道を、屋台を担いでとぼとぼと引き返していく聡吉。

 わきを流れる金洗沢のせせらぎと、森の中に反響するシャアシャアというセミの声が、彼の疲れた心と身体に染み渡ります。


 するとそこへ、偶然やってきた知人のおリンがその大きな瞳をパチクリさせながら声をかけてきました。


「あら、こんなところにまで出前なの?」

「今回は出前ではなく出張だな」

「こっちは店にもどる方向だけど、荷箱は重そうだからまだ済んでいないようね。道を間違えたとか?」

「いや、帰るところだよ」



 おリンは別所村の新町にある木材商、駒政こままさの一人娘で、男衆に囲まれていたためか大変おきゃんつくに育ちました。

 どこかに面白い話の種はないかといつも周囲に目を光らせている彼女はそうしたものをかぎわける嗅覚に優れているので、今回も青ざめた聡吉の顔色を見るなりすぐにこれは何かあったなと確信します。


「なにかあったのね?」


 獲物を見つけた猫のような目で、おリンは聡吉に探りをいれました。

 

「ああ、それがな……」


 聡吉は坪井から口止めされていたにも関わらず、うっかり町事務所で聞いた会話の内容をおリンに話してしまいます。


 すると案の定おリンは、生き生きとした顔になり

「よし、わたし達で犯人を捜すわよ!」

と無茶なことを言いはじめました。



 しまったなあ、と聡吉は思いましたがあとの祭りです。


「ちょっと待て、わたし達ってなんだ? その、達、のなかには、ひょっとしておらも含まれているのか?」


 聡吉はよりによって、一番話してはいけない人物に話をしてしまったのです。


「そうと決まれば、こうしちゃいられないわ……て、あれ? 待って、あれって多美子さんじゃないかしら? あ、やっぱり多美子さんだわ。多美子さーん! ご機嫌よう!」

「おい、待て待て待て、おーい……いなくなっちまったよ……」


 さて、面倒なことになってしまいました。


 ただでさえこれからお昼の混雑でお店の方も忙しくなるというのに、これ以上厄介事に巻き込まれてはたまりません。

 聡吉は足早で店へと戻りました。


 鉱山側は、去年あった暴動のように、また力づくで抑え込んで解決するはず。


 なにも部外者がてかひかする(でしゃばる)必要などないのです。



 ところが災難はこれでお仕舞いとはいきませんでした。

 店に帰るや持っていかせた蕎麦がそのまま戻ってきたのを不審に思ったおかみさんに訳を問いただされてしまいます。

 そして事情を知り上気した彼女から、聡吉はとんでもないことを言われてしまうのです。


「祭りが中止になるかもしれないだって? 冗談じゃあないよ。虎列刺のせいでうちも客足が減って赤字が続いているんだ! 祭りの売上がなかったら、うちはもうつぶれちまうよ。脅迫状? 誰だい、その不届き者は? 取っ捕まえておいで!」 


 取っ捕まえろといわれても……。



 たまらず聡吉が助けを求めるようにして店主のじゅんちゃんに視線を移すと、おかみさんは彼にたいしてもここぞとばかりに

「そばの値上げをするのに、誰かさんが縦に首を振ってくれたら話は別なんだけどねえ」

と小言を口にしました。


 じゅんちゃんはというと、いつもの聞こえないふり。こちらには目もくれず黙々と作業を続けています。


「いや、だども、警察に任せておけば……」


 聡吉はなおも喰い下がりますが

「オニガワラなんて、あてになるもんか。親分さんとこ……うっ、げほげほっ」

と息つく間もなく捲し立てて、仕舞いには噎せかえる始末。


 再び聡吉がじゅんちゃんに助けを求めると、彼は作業の手を止めることなく

「行ってこい……」

の一言。



 ちょうどお昼どきでしたので、お腹が空いたら食べるようにと聡吉はおかみさんから大根を丸ごと一本与えられ、なにか情報が得られるまでは戻ってきてはならないと、店から閉め出されてしまいました。


 お昼を告げる鐘の音が、村中に響きわたります。


 聡吉は、やるしかありませんでした。

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